無慈悲-剪定者の足音と煉獄の火花
南の大陸の地下深く、蜘蛛の巣のように張り巡らされた廃下水道の一角。そこには『冥府の羽音』が爆破計画の最終調整を行うための臨時作業場が設けられていた。湿った空気と油の臭いが混じり合う中、組織の事実上のNo.2である牧師、オイマは、不気味に輝く魔導爆弾の回路を愛おしそうに撫でていた。
「やれやれ、静寂の捕食者どもは厄介。だが、私にとって彼らを欺くことなど朝飯前だ。特にネールという男に要注意するか」
オイマが自慢気な顔で工作活動をしている時、懐の通信石が小刻みに震える。賭博師エナガからの連絡だった。
「よう、オイマ。景気はどうだい。上の戦場は随分と熱くなってきてるぜ。……さて、一つ賭けをしないか? これからお前の元に現れる不法侵入者は誰だと思う? 『静寂の捕食者』の掃除屋か、それとも最近息を吹き返したと噂の『月下狂牙』か。ドラアの野郎が言っていた『得体の知れない女ども』は、今のところ観測されちゃいない。あんなのは敗北者の幻覚だろうさ。……どうだ、何に賭ける?」
エナガの軽薄な声に対し、オイマは有刺鉄線の鎖を指に絡ませながら、穏やかな――しかし瞳の奥に狂気を宿した微笑を浮かべた。
「私は『月下狂牙』が現れることに賭けるとしましょう、エナガ。……そして、この私は彼らを慈悲の鎖で縛り上げ、私自身は生き残ることにも賭けよう。救いが必要な魂が、すぐそこまで来ているのを感じますから」
通信が切れると同時に、頑丈な防壁の向こう側から、空気が爆ぜるような轟音が響いた。
煙が立ち込める中、一人の男がゆっくりと足を踏み入れてきた。
『月下狂牙』の幹部、アードだ。炭焼き職人としての無骨な佇まいとは裏腹に、その背負った大剣『焦土』からは、地下の冷気を一瞬で蒸発させるほどの凄まじい熱量が放たれている。
ベスパの真の計画を知った彼は、カリスと合流していたルウたちと別れて独自に町のパトロールで行動をしていた。アードは周囲に配置された爆発物の山を一瞥し、視線をオイマへと向ける。
「……随分と薄汚い詐欺師だな。神を騙りながら、大陸ごと信者を焼き殺すつもりか。こんなところで何をしている」
アードの声は低く、そして冷徹だった。必要以上の殺戮を好まないが、弱者の命を「放棄」という言葉で弄ぶ者に対しては、その剣と同じく苛烈な裁きを下す。その上、普段は寡黙な彼は感情に燃料が注がれて高ぶったかのように口が開いてしまう。
「おやおや、手厳しい。私はただ、迷える羊たちに『死』という名の究極の安寧を与えようとしているだけですよ。……貴方も苦しいのでしょう? その業火を纏い、他者の命を焼き続ける日々が。私が、その重荷を解いてあげましょう」
オイマが右手に持っている一冊の書物を閉じ、両袖から無数の有刺鉄線の鎖を解き放った。
「私の名はオイマ。冥府の主ベスパの愛を伝える者。……さあ、跪きなさい。愛の鎖が貴方の魂を縛り上げて差し上げます」
「愛だの慈悲だの……吐き気がするぜ」
寡黙なはずのアードはその薄汚い卑怯な発言に燃え上がる。アードが動き出した。その巨躯からは想像もつかない爆発的な踏み込み。焼身大剣『焦土』が抜刀されるや否や、周囲の酸素が数千度の熱量によって一瞬で燃え尽き、真空の衝撃波がオイマを襲う。
「不知火の剣――『炭化』!」
大剣の一振りが、空間そのものを焦がしながら振り下ろされる。オイマは咄嗟に袖から出した鎖を全方向に展開し、蜘蛛の巣のように盾を形成した。
ガキィィィィィィン!!
金属同士がぶつかり合う音ではない。高密度の魔力と熱量が正面から衝突した轟音だ。オイマの巨体は防ぎきれなかった衝撃により、弾丸のような速度で後方の壁まで吹き飛ばされた。
「……ぐ、はっ……!」
瓦礫の中に埋まったオイマだったが、その口元は依然として歪な笑みを保っていた。
「……重い武器にもかかわらず、凄まじい速度。……ですが、力任せでは私を縛ることはできませんよ」
オイマは立ち上がり、右腕に鎖を幾重にも巻き付けた。有刺鉄線の棘が自身の皮膚を裂き、血が流れるが、彼は痛みすら快楽に変える狂信者だ。
「鎖とは、他者を縛るためだけにあるのではない。……こうして、自身の弱く震える心を守るためにもあるのです。これぞ『煉獄の盾』!」
「御託は嫌いだ。まとめて炭になれ」
アードの二撃目。先ほどを遥かに上回る剣気が放たれ、地下通路の壁がドロドロと溶け始めた。しかし、鎖の盾を構えたオイマは、その一撃を真っ向から受け流し、至近距離まで踏み込んでくる。
「焼ける……! なんだ、この熱量は……! まるで太陽を相手にしているようだ!」
オイマは絶叫した。盾にしている鎖が赤熱し、自らの腕を焼き焦がしている。だが、彼の信仰心は物理的な苦痛を凌駕していた。オイマは強引にアードの懐へ飛び込むと、焼けて溶けかかった鎖を「引きちぎる」という離れ業を披露した。
「ああ、愛おしい……! この痛み、この熱こそがボスの怒りそのものだ!」
アードが大剣を横に薙ごうとした一瞬の隙。
オイマの指先が、千切れた鎖を魔法の糸のように操った。
「『煉獄の慈愛』――逃がしませんよ!」
慈愛だとオイマは騙るが、その言動の本心は裏を返せば「楽にあの世に送る」という言葉そのもの。
蛇のようにうねった有刺鉄線の鎖が、アードの炎の壁を強引に突破した。熱によって強化された鎖は、もはや切断不能な因果の楔となってアードの脇腹を捉える。
「……しまっ……!」
ズブッ!!
鋭い棘を伴う鎖が、アードの腹部を深く突き刺した。鮮血が舞い、熱気の中で蒸発する。
「……捕まえました。さあ、共に煉獄の底で愛を語り合いましょう。貴方のその『焦土』の魔力、すべて私が握りつぶして差し上げます」
「……舐めるなよ、詐欺師が。……俺の火遊びは、こんなもんじゃないぞ」
腹に鎖を刺されたまま、アードの瞳にさらなる紅蓮の炎が宿る。
二人の戦いは、互いの命を燃料にした、終わりなき焼却の地獄へと突入しようとしていた。
地下通路の空気は、もはや呼吸することさえ困難なほどの超高温に達していた。
脇腹を鎖で貫かれたまま、アードの瞳はさらに烈火の如き輝きを増す。彼は自身の血が蒸発する音を聞きながら、焼身大剣『焦土』をさらに強く握りしめた。
「……弱者っていうのは、お前にとって一体何なんだ? お前が『救済』と称して搾取し、都合よく切り捨てたいだけの対象だろうが。俺の炭焼きの火は、人を温めるためにある。お前の火は、ただのゴミの焼却炉だ」
アードの叫びと共に、大剣から放たれる熱量が物理的な衝撃波となってオイマを襲う。それは単なる剣技ではない。己の命を薪としてくべる、文字通りの決死の一撃だった。
「救済ですよ、炭焼き職人! 誰も愛してくれない、誰にも守られない……そんな不完全な存在を、この世に放置しておくことこそが最大の罪だ。面白い、あなたもそこまで言うのなら、望み通り社会のゴミとして灰にしてやりましょう!」
オイマは狂気に歪んだ笑顔を浮かべ、両手からさらなる鎖を噴出させた。今度は二刀流のように太い鎖を束ね、それを鞭のように、あるいは鋭い刺突剣のように振り回す。
「便利屋を潰されたルウと一緒にするな! 俺たちは、ただ黙ってお前たちに焼き払われるのを待つ羊じゃない。不知火・奥義――『熱血斬』ッ!!」
アードの全身が赤白く発光する。心臓の鼓動に合わせて大剣が脈動し、触れるものすべてを気化させる超至近距離の爆発を伴った斬撃が繰り出された。地下の岩盤が耐えきれず結晶化し、天井が崩れ落ちる。
その爆炎と破壊の渦中に、場違いなほど穏やかな足音が響いた。
「……あらあら、随分と激しい火遊びをされていますね。私の大切なお庭を、これ以上汚されては困りますわ」
轟音と熱気が支配する戦場に、透き通るような鈴の音にも似た声が染み渡る。
そこに立っていたのは、一人の少女だった。移動花屋としての慎ましやかな装い、手には使い古された、しかし手入れの行き届いたジョウロ。ルピナだ。
彼女が現れた瞬間、アードの数千度の炎も、オイマの執念の鎖も、あたかも「最初からそこに存在しなかった」かのように、その勢いを失った。物理法則が、彼女という個体を中心にして強制的に書き換えられている。
「な、なんだ……この女は!? 私の魔力が、鎖が、まるで栄養を吸い取られるように……!」
オイマが驚愕に目を見開く。アードもまた、自らの魂を燃やして放った『熱血斬』の熱が、彼女に届く前に「初夏の陽だまり」のような微温へと変えられたことに戦慄した。
「あなたは少し、根を張りすぎました。そしてあなたは……枝が伸びすぎて、周りを傷つけてしまっています」
ルピナがジョウロを軽く傾ける。注がれた水はただの液体ではない。それは因果そのものを正常化する「調律の雫」。雫が地面に触れるたび、溶岩と化した床には青々と草木が芽吹き、破壊された壁は蔦に覆われて再生していく。
「くっ……! このままでは、何もかも『剪定』される!」
オイマの直感が叫んでいた。目の前の少女は、ベスパやマンティとは全く異なる次元の「怪物」だ。彼は懐から、ギャンブラー・エナガから託されていた一枚のトランプを取り出した。それは『煉獄の虚妄』の魔力が込められた、組織の最終手段の一つ。
「私はこのトランプに賭ける! 全員がここで死ぬか、あるいは私の計画を進めるための駒になるか……! 私は、その両方に賭けるぞ!!」
オイマがトランプを地面に叩きつけた。
刹那、トランプから放たれたのは破壊の爆発ではなく、視界と感覚を完全に狂わせる「確率の霧」だった。空間が歪み、上と下が入れ替わり、数秒先の未来がいくつもの幻影となって重なり合う。
「これもベスパ様の計画のうち、エナガの言った通りだ、成功したことに感謝するぞ!」
霧に紛れ、オイマは事前に仕掛けていた脱出用の魔導回路を起動させる。
「お嬢さん、危ない!! 逃げろッ!!」
アードは、オイマが最後に残したトランプが、この地下施設に配置されたすべての爆弾と連動して「連鎖爆発」を引き起こすことに気づいた。自らの重傷も顧みず、彼はルピナを庇おうと叫ぶ。
だが、オイマはアードの叫びを背中に受けながら、卑怯な笑みを残して命からがら転移門へと飛び込んだ。
ドォォォォォォン!!!
地下施設が完全に崩落する。
旧王都の地面が大きく揺れ、地上では突如として噴き出した炎と煙に、街中が大騒ぎに陥っていた。
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爆発の余波が収まった後、瓦礫の山から一人の男が這い出した。
しかし爆破が収まってからもその影響か、土煙が漂う。今にも目が痛くなりそうな空気感だ。
命からがら出てきたのはアードだ。全身煤にまみれ、腹部の鎖による創傷は深く、さらには無理な魔力解放による内部破壊で、立っていることさえ奇跡に近い状態だった。
感情が高ぶっていたアードだが、普段時の寡黙な顔に戻る。むしろ、過呼吸になり口を少し開きかけ、もう声はでなかった。
「はぁ……はぁ……(死ぬだろうが…。あの詐欺師め、ここまで狡猾か……)」
彼は周囲を見渡したが、先ほどの少女の姿はどこにもなかった。ただ、爆心地であったはずの場所には、焼けた跡一つなく、真っ白なユリの花が一輪だけ、美しく咲き誇っていた。
アードは先程までいたルピナに生きていたかどうかの疑いの目を向けていたが、それ以上の思考を続ける余裕を失っていた。このままでは命を落とす。彼は意識を保つために自らの腕を噛み、朦朧とする足取りで、ヌーベが潜伏していると思われる闇医者ギルの診療所へと、闇に紛れて逃亡を開始した。
月下狂牙の「不知火」が、ここで一時的に戦線を離脱することとなった。
その頃、地上では大混乱が続いていた。
「火事だ!」「地下で何かが爆発したぞ!」と叫び声が飛び交う中、ルピナは一人、喧騒から離れた路地裏を歩いていた。
彼女の服には、煤一つ付いていない。
ジョウロの中の水は、一滴もこぼれていなかった。
「困りましたわ。あの方たちの『熱量』は、私の小さなハサミでは少しばかり手に余ります。……あの人なら、この伸びすぎた雑草をどうなさるのかしら?」
彼女の視線は、遠くで不気味に輝く『冥府の羽音』の空中要塞を見つめていた。その瞳には、慈悲も怒りもなく、ただ「整えなければならない」という庭師としての静かな使命感だけが宿っている。
彼女にとっての使命感。それは近いうちにこの大陸の大きな枝を一本、根元から切り落とさなければならない。その対象が誰であるか、彼女の中ではすでに決定事項だった。
「さあ、お仕事に戻りましょう。……次は、お星様を眺めているおじい様のところへ、お花を届けに行かなくては」
ルピナは軽やかな足取りで、マンティの第5支部――ネールが待ち構える場所へと向けて歩き出した。
南の大陸の運命を決める舞台は、今、最強の爆撃機と、最強の狙撃手が対峙する空へと移ろうとする。




