記憶-放棄された過去の残滓
今回はベスパの過去回です。なぜ彼が闇落ちしたのか?
――俺のいる部屋は『冥府の羽音』本部。
南の大陸の空気は、不自然な熱を帯びて震え始めるかのように感じるが、熱の使い手の俺にとっては日常茶飯事だ。
俺が踏み出す一歩ごとに、石畳は断熱圧縮の暴力に耐えきれず赤く焼け、背後にはどす黒い煙と溶解した岩石の道が出来上がる。大気が悲鳴を上げ、酸素が俺の魔力に喰われて希薄になっていく。
「……アニルが消えた。交流をしていた者どもが手のひらを反すではないか。ビルからは要領を得ん報告が届き、挙句の果てにはドラアまでが『恐ろしい女たち』などと、熱に浮かされたような寝言を抜かしおった」
俺の傍らで、精鋭兵士たちが音もなく付き従う。一個師団を数分で灰に帰す実力を持つ彼らですら、俺の背後から漏れ出るプロミネンス・アーマーの熱波に、本能的な恐怖を隠しきれず距離を置いている。
無能共め。
「飼い主」だの「一般人」だの、そんな不確定な存在に足を掬われるなど、組織の規律を放棄したも同然だ。放置されたゴミが山を成せば、それはもはや風景を汚す害悪でしかない。ならば、俺自身が動く。この手で、不完全なものすべてを「消去」してやる。
俺が歩く。それだけで、この街の運命は「死」ではなく「消失」へと確定した。
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進軍する俺の前に、マンティの手先どもが立ちはだかった。
『静寂の捕食者』の協力組織、その精鋭部隊か。鋼糸の罠を張り巡らせ、特注の魔導銃を構え、俺を「庭の汚染物質」として排除しようとするその滑稽な姿。
「放棄を宣告する。……消えろ」
俺は獄炎の王杓『デス・スティンガー』を無造作に一閃させた。
刹那、前方100メートルの空間に充満していた分子が、俺の魔力によって極限まで振動し、強制的にプラズマへと相転移した。
マンティの兵士たちは、自分が死んだことさえ理解できなかっただろう。叫びを上げるための喉が気化し、恐怖を感じるための脳が蒸発し、彼らの纏っていた防御結界も重厚な鎧も、ただの「燃焼剤」として俺の炎を大きくするための糧となった。
視界に広がるのは、白銀の閃光と、その後に残る空虚な空間だけだ。
灰すら残らん。それが俺の『放棄の審判』だ。
「弱い...」
溶岩と化し、ドロドロと波打つ地面を無造作に踏みしめながら、俺は吐き捨てた。
「略奪を憎むと、庭を守ると、その程度の意志で俺の炎を止めようなど……存在そのものが不完全だ。不完全なものは、存在してはならんのだ」
俺にとって、これは戦いではない。ましてや虐殺でもない。
ただの「清掃」だ。
管理しきれぬ命、守りきれぬ理想、それらはすべて「放棄」されたゴミに過ぎない。放置すれば腐敗し、世界を汚す。ならば、この煉獄の炎ですべてを無に帰すことこそが、唯一の救済と言える。
「貴様はここの団長か? 部下の教育はどうした。これほど無様に蒸発させるのが、貴様の指揮か」
地獄の光景の中で、唯一、焦げたマントを翻して立ち上がった男がいた。
その瞳には、絶望を通り越した狂気が宿っている。
「ここが貴様の墓場だ……ベスパァァッ!」
団長と呼ばれた男が、命の灯火をすべて魔力に変換し、剣を振り下ろした。
それは魔王を一撃で葬り、山を両断するほどの神速の斬撃。一国の英雄の名に恥じぬ、一点の曇りもない一撃だった。
「確かに。それは普通の雑魚なら一刀両断できるだろうな。……だがな」
俺は動かない。避ける必要すらない。
王杓の石突きを地面に突き立てた瞬間、俺の周囲の温度が太陽の表面温度に到達した。
プロミネンス・アーマー。
男の放った絶技の刃が、俺の胸元に届く数センチ手前で赤白く溶け、空気中へと霧散した。男の手首から先が、あまりの熱量に接触する前に炭化し、砕け散る。
「……管理できぬ力は、自らを滅ぼす。貴様も、貴様の国も、すべて放棄されたのだ。この俺にな」
俺は王杓を横に薙いだ。
団長の存在は、その言葉が終わる頃には、熱風の彼方へと消えていた。
戦場は静まり返った。
もはや風景は殺伐とした灰色。
生きているものは俺と、俺の影に怯える部下たちだけだ。
すべてが消滅したはずの、ガラス状に固まった地面。その中心に、一つだけ燃え残った「異物」が落ちているのを、俺の目が捉えた。
「何だ……これは」
俺は足を止め、無機質な瞳でそれを見下ろした。
灼熱のプラズマの中でも、奇跡的に原型を留めていたのは、煤け、半分が黒焦げになった「小さな木彫りの人形」だった。
不揃いな削り跡、どこか歪な形。
それを見た瞬間、俺の脳の奥底、鋼鉄の蓋をして封印していたはずの記憶が、熱病のように疼き出した。
親に捨てられた日。
国に見捨てられた日。
神にさえ放置され、暗い路地裏で死を待っていた自分。
「ベスパ」という名の破壊神になる前、ただ一人の無力な子供として、握りしめていたかもしれない、唯一の温もり。
「……フン、放置されていたゴミか」
突き放すような言葉を吐きながら、俺はそれを拾い上げた。
その時、指先が僅かに、本人ですら認めぬほど微かに震えた。
俺の『万象焦土』の原動力。それは正義でも野望でもない。かつて自分という存在を、ゴミのように「放棄」したこの醜い世界への、底なしの憎悪だ。
「すべてを焼き尽くせば……。この消えぬ渇きも、終わるだろうか」
握りしめた木彫りの人形が、俺の魔力に耐えきれず、サラサラと指の間から灰になって零れ落ちた。
それでいい。温もりなど、この世には存在してはならん。
「マンティ。お前も、お前が愛でるその不快な庭も……この人形と同じく、無価値な灰に変えてやる」
俺の魔力が膨れ上がり、最後の計画の礎となるものが産声を上げようとしている。
煉獄の炎は、もはや誰にも止められん。
南の大陸のすべてを、俺の過去ごと焼き尽くすまで。
俺は、太陽の如き輝きを背負い、再び歩き出した。
だが、捨て去ったはずのゴミは俺の脳裏に煤のようにこびりついている。
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掌の中で砕け散った、あの木彫りの人形の感触が、今も皮膚に焼き付いて離れない。
俺がまだ「ベスパ」という破壊の名で呼ばれる前……数十年前の記憶だ。当時の俺は、ただのどこにでもある農村に生まれた、絵を描くことと家族を愛するだけの、ひどく軟弱で穏やかな少年だった。
「お前は私たちの宝物だよ」
母のその言葉が、当時の俺の世界を形作るすべてだった。
父は不器用な男だった。だが、俺が欲しがった玩具の代わりに、夜通し木を削って一つの人形を作ってくれた。形は不揃いで、お世辞にも上手いとは言えない。だが、俺はそれを何よりも大切にしていた。
あの頃、俺には「明日」というものが永遠に続くように思えていたんだ。
平和という名の、脆弱で、欺瞞に満ちた平穏の中で。
その平穏は、俺には到底理解できない理由で、呆気なく、そして無惨に崩壊した。
国家間の領土争い。どこかの王が地図に線を一本引き直そうとしただけで、俺たちの村は戦火に包まれた。
空は黒煙に覆われ、耳を劈く叫び声と、肉が焼ける嫌な臭い。
両親は俺の手を引き、燃え盛る村を逃げ出した。だが、行く先々にいたのは救いの神ではなく、飢えと、獲物を追う狼のような追手だった。
数日後、俺たちは隣国の貴族の領地に辿り着いた。
父は地に頭を擦りつけ、母は涙ながらに救いを求めた。だが、金飾りに身を包んだその貴族が提示した条件は、この世のどんな魔術よりも残酷なものだった。
この貴族の男は目を見ればわかる。傲慢の塊でしかない。
「……食料と安全をやる。だが、その子供は連れていくな。余計な口減らしは不要だ」
俺の目の前で、父の肩が震えた。母の瞳から光が消えた。
極限の飢餓。死の恐怖。それらは、あれほど固いと信じていた「親子の愛」を、あまりにも容易く上回ってしまった。
「……ごめんね。ここで待っていれば、きっと誰かが助けてくれるわ」
母の手が、俺の細い腕から離れた。
その瞬間の感覚を、俺は死んでも忘れない。体温が急速に奪われ、世界そのものが俺を拒絶し、暗い宇宙へと突き放したような、あの「放棄」の感覚を。
両親は貴族の馬車に乗り、一度も振り返ることなく去っていった。
一人取り残された俺は、震える足で両親の後を追おうとした。
だが、そこに現れたのは希望ではなく、略奪を繰り返す敗残兵たちだった。
彼らは俺をいたぶることに娯楽を見出し、俺が必死に抱えていた唯一の宝物――父が作った木彫りの人形を、無造作に奪い取った。
「ゴミが。命乞いでもしてみろよ。……ほら、お前の大事な『家族』が燃えてるぜ?」
まったく同情できぬ兵士どもの嘲笑が聞こえる。今でも腹が立つ。
彼らは笑いながら、人形を焚き火に投げ込んだ。
炎が木肌を舐め、俺の唯一の心の拠り所を炭へと変えていく。
俺は叫んだ。祈った。涙が枯れるまで泣いた。
だが、両親は戻らず、国は俺を守らず、神は奇跡の一つも起こさなかった。
――愛、秩序、信頼……そんなものは、強者の気まぐれ一つで「放棄」される無価値なゴミに過ぎなかったんだ。
守り切れぬ愛に何の意味がある?
管理できぬ絆に何の価値がある?
放置され、腐敗し、最後には捨て去られる運命なら、そんなものは最初からこの世に存在してはならんのだ。
「……ああ、そうか。守れないものは、最初から存在してはいけないんだ」
俺の心の中で、大切な何かが完全に粉砕された。
代わりに、どす黒い熱を孕んだ「煉獄」が宿った。
愛していたもの、信じていたものが、自分を置いていなくなる。その喪失の苦しみに耐える方法は、たった一つしかない。
――失う前に、この手ですべてを消し去ることだ。
俺は猛火の中から、半分焼け焦げた人形を掴み出した。
その瞬間、俺の奥底に眠っていた魔力が、憎悪を燃料にして大噴火を起こした。
「……死ね。ゴミ共」
俺が呟いた刹那、周囲の敗残兵たちは叫ぶ間もなく、俺の周囲に展開された超高温の領域によって瞬時に炭へと変わった。
その足で俺は、俺を捨てた両親とあの貴族を追い、その屋敷ごとすべてをプラズマへと帰した。
復讐を遂げた後の気分は、過去最悪だった。……だが、同時に清々しくもあった。
灰になった奴らは、もう俺を捨てることはない。誰も去らず、誰も奪われない。
「放棄される悲しみがあるなら、俺がこの世のすべてを放棄してやる。灰になれば、すべては平等だ」
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数十年後、『冥府の羽音』を結成した。
最初に俺の前に現れたのは、闇金貸しのビルと、狂信的な牧師のオイマだった。
俺はビルに言った。
「貴様の欲望が管理しきれぬなら、俺が焼いてやる。俺の炎に耐え、従うなら、世界の『放棄者』としての席を用意してやる」
ビルは俺の魔力に屈服し、最強の剛腕として忠誠を誓った。
オイマは、俺の瞳に宿る「絶対的な虚無」を神と崇めた。
「ボスの意志こそが真の慈愛です」
奴はそう言い、俺の組織をカルト宗教へと昇華させようと、牧師としての弁舌と詐欺の才能を駆使して、各地から不満分子や狂人たちをスカウトしてきた。
葬儀屋のソルを勧誘した際、奴は俺に鎌を突きつけてきた。
「貴様の葬式を今ここで開いてやろうか?」
こんな戯言を俺の前で抜かした。俺は奴の鎌を素手で掴み、その冷徹な虚無を灼熱で上書きしてやった。奴は笑い、「死の先にある静寂」を俺の中に見出した。
賭博師のエナガは、俺の掲げる「全都市放棄計画」という究極のギャンブルに酔いしれた。
「いいねその理念、俺の命を全額賭けてみるか」
そして参謀のアニル……奴だけは、俺の知略を支える唯一の杖だったが。
今、俺の手の中には、あの日以来ずっと持っていた人形の灰すら残っていない。
だが、それでいい。
思い出も、絆も、この大陸も。
すべてを俺が「放棄」し、灰の静寂に変えてやる。
それが、世界に見捨てられた俺が、世界に対して行える唯一の、そして最高の「審判」なのだから。
「……行くぞ。まずはマンティの庭を、真っ白な灰の地平へと変えてやる」
俺の背後で、煉獄の翼が大きく羽ばたいた。




