14
黒景を背負って階段を駆け上がり、地上に出た朱夏を待っていたのは琳ではなく。
「遅いっ! この愚図めがっ!」
「……(そうだろうとは思ってたけどな、うん)」
その兄、西 白煌だった。
白煌は純白の鎧を身に付け、右手には虎牙槍を手にしていた。
皇域では剣のみ装備している白煌だが、本来、彼の得物は剣ではなく虎牙槍だ。
禍鬼を狩るときや戦場では、白煌は剣ではなく虎牙槍で敵を屠る。
虎牙槍を白煌が平時に持参しているということは珍しいことだったが、そのことよりも朱夏が気になったのは……。
「お待たせしてしまう申しわけありません、西将ぐ……ん?」
朱夏は理不尽な物言いに謝罪しながら、美しい顔に苛立ちを露わにした白煌の纏っている純白の外套の一部が不自然に膨らんでいることに気付いてしまったのだ。
「おやおや……ありがとうよ、朱雀の坊」
ひょいっと朱夏の背から降りた黒景ももちろんそれに気付いたが、二人とも声をかけることはせず、その膨らみの動きを無言で見つめた。
外套に隠れた存在も己に向けられてる視線を感じるのか、居心地悪げにもぞもぞと動いた。
「……琳、出ておいで。その愚図に言うてやりたいことがあるのだろう?」
声を優しげなものへと変えた白煌が、そっと外套をずらすと。
「…………はい、煌兄様」
朱夏と黒景の予想通り、兄の身体にべたりとくっついた状態の西 琳が現れた。
「しゅ、朱夏……」
「ッ……」
朱夏が、その眼を細めたのは。
久しぶりの陽が、眩しかったからではなかった。
愛らしい琳の唇が己の名を呼び。
少々潤んだ黒い瞳に、己の姿があったから……。
朱夏はぎゅっと、拳を握りしめた。
そうしなければ込み上げる思いのまま、目の前にいる少女へと手を伸ばしてしまいそうだった。
そんな朱夏を黒景は無言で眺め……視線を琳の背後に立つ西家当主へと向けた。
黒景の視線に気付いているであろう白煌は、気づかぬふりではなく完全に黒景を無視し、瞬きもせず妹を見ていた。
その表情はやっと伝い歩きができるようになった幼子を、転ばぬか倒れぬかと案じながら見守る父親のようだった。
「………わ、吾はあなたに言いたいことがあって……煌兄様に連れてきてもらったの」
艶やかな黒髪に白牡丹を飾った琳は、しがみついていた兄の身体からその手を離し。
「朱夏……あなたは……もしかして、あなたはっ……」
朱夏へと、一歩。
また、一歩……ゆっくりと歩み寄り。
手を伸ばせば頬に触れられ、その身を両の腕で抱けるほど近くで。
「弱いうえに馬鹿なの?」
と、言った。
「……は?」
(弱いうえに、馬鹿……弱いうえに、馬鹿……弱いうえに馬鹿!? 俺がかっ!? 俺、父さんの代行とはいえ南軍の将軍やってるし、学院だって主席で卒業してんだぜ!? その俺が、弱いうえに馬鹿!?)
予想外というか想定外の琳の言葉が、朱夏の脳内でこだました。
「くっ、くく……」
立ち尽くす朱夏の後ろで、黒景は愉快げに喉を鳴らし。
琳はキッと朱夏を睨み上げ、先ほどのしおらしい態度を粉砕する勢いで咆えた。
「なんで!? なんで自分で言わなかったのよっ!?」
「……え? な、何を?」
その勢いに圧され戸惑う朱夏に、琳はさらに詰め寄り言った。
「吾を誘拐なんかしてないって、ちゃんと自分で言いなさいよっ!」
「あ、そのことか。いや、言わなかったわけじゃなくて、言う前に…」
言い分け(?)しようとした朱夏の言葉を遮り、琳はさらに続けた。
「あなたが自分でちゃんと違いますって言わないから、牢になんか入れられちゃったんでしょ!? いいこと!? 吾が代わりに黄雅様に会いに行って違いますってい言ってあげたから、出してもらえたんだからね!?」
朱夏が自分を誘拐したなどと誤解されて投獄されたと知った琳は、止めようとする兄達を振り切って西家の屋敷を飛び出した。
感情のままに歩き出したものの、何処にどう行けば皇帝の元に辿り着けるか知らぬことに気づき。
ーー煌兄様、戰兄様、凱兄様! 吾はどっちに進めばいいのよ!?
ーー琳、そちらは違う。右だ。
ーー琳ちゃん、次は左だよ。
ーーりんりん、左の次は真っ直ぐだ!
後を追ってきた三人の兄達に右だ左だ真っ直ぐだと教えられながら、何事かと呆気にとられる官吏達を尻目に皇域を闊歩した。
朱夏の容疑をはらすべく皇帝黄雅へ直訴に乗り込む時は、周りを気にする余裕などなかったが。
西家の屋敷から出ずに育った琳は、大勢の見ず知らずの他人の視線に慣れていない。
そのため、北家管理下にあるこの施設にへ向かう道中で自分に向けられる好奇心剥き出しの視線に怯んでしまい……今回も引き留めることを早々に諦め同行してくれていた長兄白煌の外套に、途中で自ら潜り込んでしまったのだ。
「ここへの道中、いっぱいの知らないおじさん達にじろじろ見られてちょっと怖かったけど、吾は頑張って歩いたのよ!? 感謝してちょうだい!」
そんな情けなく意気地無しな自分を、朱夏には知られたくなかった。
だから、地下牢から出て来る前には兄の外套から出て何事もなかったように待っているつもりだったのに、琳が想像していたより早く朱夏は地下牢から出てきてしまい。
兄の外套に逃げ込んでいる姿を朱夏と黒景に見られてしまった琳は、恥ずかしさのあまりこのような態度をとってしまっていた。
「……か、感謝……あ、ありがとな?」
「なんで疑問系なのよ!?」
「え? すまん」
「なんであなたが謝るのよ!? 吾は助けてもらったから、助けてあげたの! これでおあいこよね!? だから吾は、朱夏にお礼を言わない!」
つまりは、貸し借り無し。
と、いう意味だろう。
礼の言葉が欲しくて助けたわけじゃないので、朱夏はそれでかまわなかった。
それに、琳が溺れていたから出会えたのだ。
あの日あそこで出会わなければ、以後出会えたかどうか……出会わず終わった可能性大だ。
朱夏のほうが琳に、溺れていてくれてありがとうと言いたいくらいだった。
「……あ~、うん。俺は礼とかは別に要らないから、別にそれで良っ…」
「良くない! 何言ってるのよ!? あなたは吾の命の恩人なんだからお礼無しは駄目だめ!」
またも朱夏の言葉を遮った琳は、くるりと身体の向きを変え。
「は? いや、だって、お前が今、礼は無しって言って……」
戸惑う朱夏から離れ、兄に走り寄り。
「おあいこな吾はお礼を言わないけど、煌兄様が朱夏にお礼を言うから!」
兄の背後に回り込み、背を両手でぐいぐいとおしながら言った。
「り、琳!? なにをっ……」
「早く朱夏にお礼を言ってよ、煌兄様! 煌兄様は吾のことを大事な大事な宝物だっていっつも言ってるじゃない! 朱夏はその吾の命の恩人なんだから、煌兄様がお礼を言ってってば!」
「れ、礼!? この愚図鳥に礼など、吾は言わぬぞ!」
「ぐ、愚図鳥!? 煌兄様、そんな酷い事を言わないで! 朱夏は吾の恩人なのよ!?」
頬をぷくりと膨らました琳が、ぽかぽかと兄の背を叩いたので。
「り、琳っ……こら、止めぬか! 鎧を身に付けている吾をそのように強く叩いたら、お前の手が痛いであろうっ!?」
叩かれているほうの白煌が、琳の身を案じ。
あっさり、折れた。
「うむ、分かった! 分かったから! 吾は朱夏に礼を言う! 言うから"ぽかぽか”するのは止めなさっ…………琳っ、吾にしかと掴まっていろっ!」
「きゃっ!? に、兄様っ!?」
白煌は瞬時に体勢を変え、己の背を叩いていた琳を片腕で抱き上げた。
「ッ!?」
それを見た朱夏は疑問を感じる前に結論を脳内に出し、背後に立っているはずの黒景へと振り向くと。
「黒景殿っ!?」
先程まで愉快げに喉を鳴らしていた黒景が、糸の切れた人形のようにがくりと地に崩れ落ちた。
朱夏が駆け寄り抱き起こすと、四家当主の中で最年長の黒景は骨張った手で朱夏の腕を掴みよろよろと立ち上がり。
「……す、すまん、坊! 婆が迂闊であったわっ…………」
口惜しげに、深い皺の刻まれた顔を歪めた。
その表情に、朱夏は己の結論が正しかったことを確信した。
「黒景殿! ここは俺が対処しますから、あんたは白煌殿と琳と待避をっ……うぉ!?」
玻璃の砕けるような音が辺りに響くと同時に、黒景と朱夏の足元を中心に地面に亀裂が走り。
朱夏は瞬時に黒景を抱え駆け、崩落に巻き込まれることを免れた。
「こ、煌兄様! 何が起こったの!?」
琳の気付かぬ間に白煌は後方に下がっており、二人の足元まで亀裂は及んではいなかった。
禍鬼と闘いに慣れた白煌の判断は正しく、そして正確だった。
「北家当主御自慢の【地檻】が破られたのだろう。あそこの最下層には、南家当主の脚を奪った禍貴が捕らえられておったゆえ」
あえて口に出したことはなかったが。
常々、白煌は危惧していた。
この【地檻】が、破られることを。
【地檻】は北家当主の『魂命』使って特殊な呪いをし、封をすると言われている。
老いた黒景の『魂命』では、その封印力は年々弱まっているはずであり……だが、四家最年長当主であり皆に一目置かれる存在である黒景に、代替わりを促す者はいなかった。
白煌も、それについては何も言わなかった。
他家当主の劣化を悟っていてもそれを理由に代替わりを勧めるほど、白煌は親切な男ではない。
大事な弟妹達に危険が及ばなければ、禍鬼が逃げ出し多くの民を殺そうが皇帝に害なそうが、白煌としてはどうでも良かった。
「え!? 禍貴がここに!? それに【地檻】って何!? そんなの、吾は知らないけど!?」
「吾がお前に必要ないと思うことは教えてないゆえ、知らなくとも当然だ」
白煌としてはこの事態は想定内であったので、驚くことも慌てることもなかった。
「え!? そういう大事なことは、吾にもちゃんと教えておいてよ! 吾だってこれから武術の訓練をして、兄様達と一緒に禍鬼と戦うつもりなんだから!」
「何を馬鹿なことを。吾はお前を禍鬼と戦わせる気などない。……ん? 琳、髪飾りが……」
虎牙槍を地に置き身を屈め、空いた手で取れかかっていた琳の髪飾りを直してやったが。
髪飾りなど気にする余裕は、琳にはなかった。
「あっ……あ、あぁ……に、兄様っ……煌兄様っ」
目の前で突如起こったことに驚きとそれ以上の恐怖を感じ、兄の首にひしりと両腕を回した琳の視線の先で。
崩落で出来た穴からゆらゆらと、奇妙な触手が数十本這い出て……それらがいっせいに、朱夏へ向かって伸びた。
「ひっ!? きゃあああ、朱夏っ! 婆様っ!」
思わず悲鳴を上げた琳を、ちらりと朱夏は流し見て。
黒景を俵のように抱えたまま、その背に翼でも生えているかのような軽やかな身のこなしで追い縋る触手を避け続けた。
「朱夏っ……」
兄達の鍛錬を間近で見て育った琳には、朱夏の動きが"弱い”人間のするものでは、できるものではないということが分かった。
「あ……ち、違うっ……吾が間違ってたんだ……朱夏は弱くないっ。ぜんぜん、弱くなんかなかったんだっ…………え?」
その朱夏の動きは逃げるためのものではなく、触手を琳と白煌の立つ場所とは反対の方向へと誘導しているように、琳には見えた。
「こ、煌兄様……もしかして、朱夏は吾と兄様からわざと離れていってるの?」
「そのようだな」
白煌もそれは分かっていた。
『荷物』を抱えた朱夏が囮になり、白煌が琳を安全圏に連れて行くまでの時間稼ぎをしていると分かってはいたが……。
ここで朱夏と黒景を置いてったならば琳がどのような反応をするか、白煌には易く想像できた。
(吾の育てた琳は、吾に似ず優しい子ゆえ……)
きっと琳は、へそを曲げるどころではすまない。
とんでもなく怒り、手のつけられないほど荒れるに違いなかった。
そのようなことになったら、おそらく琳は白煌としばらく口をきいてくれなくなる。
膝に座ってくれることも、撫でさせてくれることもなくなる可能性が高い。
寧国中の人間に責められても痛くも痒くもないが、琳に嫌われたら白煌は悲嘆のあまり死んでしまう自信があった。
ゆえに白煌は、朱夏の意図が分かっていながら退避をしなかった。
「……愚図鳥と先のない婆がどうなろうと、吾はいっこうにかまわぬのだが…………不本意ではあるが、致し方ない。あの小僧は琳の恩人らしいからな」
「煌兄様っ……」
白煌は琳をそっと地に降ろし。
地に置いていた虎牙槍を右手に持ち。
「琳、すぐに済むので少々待っていてくれ。兄様は朱夏に礼をせねばならぬゆえ」
不安げに己を見上げる琳の額に、親愛の情に満ちた接吻をし……。
「煌兄さっ……」
何か言いかけた琳に、背を向け。
西家当主の証である虎牙槍の穂先を。
「……やっとお出ましか。久しいな、禍貴紫茨よ」
崩落地にふわりと沸いた男へと、向けた。