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第二章‐4

 ちょっとトイレに行こうとしただけだったのだ。だが、ようやく探し当てたトイレで用を済ませてから出てくると、もう自分がどちらから来たかもわからなくなってしまっていた。

「……まいったな」

 アッシュは通路に立ち尽くして、一人頬を掻く。著しい方向感覚の欠如は、彼の自覚している欠点の一つだ。仕方がないので、とりあえず適当な方向に歩いてみることにする。しかし、やはり最初に歩き出した方向からして違っていたのか、それともどこかで分岐路を間違えたのか、暫く歩いても、自分の船室へは辿り着けなかった。

(軍艦って、意外と広いな)

 アッシュは足を止める。その通路は一番外壁側らしく、通路の壁には小さな丸い窓が付いていた。アッシュはその窓に歩み寄ると、覗き込むようにして外の宇宙空間を眺めてみる。すると、彼の感覚ではこの艦の下のほうに、この艦よりも遥かに大きな、柔らかい曲面で構成された優美なシルエットの船が停泊しているのが見えた。

(あれが、マリクレールとかいう豪華客船か?)

 どうやら、いつの間にか合流していたらしい。

 豪華客船マリクレール=アントワーヌの中央部分は大きな透明なドーム状になっていて、ここからでも中の様子を窺い知ることが出来た。その部分は大きなホールになっているようで、目を凝らすと、どうやらダンスパーティでも催されているらしいのがわかる。その大ホールは床全面が巨大なスクリーンになっているらしく、ここからそう遠くないところに浮かんでいるアッシュの住む青い星が大きく映し出されていた。そのホールでダンスパーティに興じている人々にとっては、さながら青い惑星の上で踊っているような感覚なのに違いない。

(はー……。どこの星でも、金持ち様は優雅なもんだなぁ)

 アッシュは、感心半分呆れ半分のような心境で思う。この航海は差し詰め、『豪華客船で行く秘境探検ツアー』みたいなものなのだろう。多少、ニュアンスが違うかもしれなかったが、彼の発想ではその程度のことしか思い付かなかった。

(おっと、こんなことしてる場合じゃないな。早いとこ部屋を見付けないと)

 アッシュは窓から離れる。が、そうして外を眺めていた間に、またもや自分がどちらから来たかわからなくなってしまった。彼は少し思案したが、すぐに諦めて適当な方向に歩き出す。

「おい、貴様! どこへ行こうとしている!?」

 突然、背後から大音声で問い掛けられて、アッシュは飛び上がりそうになった。

「その先は機関部だ! 立ち入りの許可は取ってあるのか!?」

 アッシュは振り返り、声の主を見る。

 背はあまり高くないが、がっしりした身体付きの女性だった。濃いオレンジ色の髪を、男性のように短く刈り込んでいる。眼は兎のような赤色だ。年齢は三十歳くらいだろうか。大人の女性の歳はよくわからない。服装はエリカと同じ、階級章を詰襟に付けた濃緑色の上着に、同色のミニのタイトスカート、編み上げの軍用ブーツという陸軍女性士官服姿だった。ベレー帽は小脇に抱えている。腰には魔装剣らしき軍刀を佩いていた。

 彼女はアッシュの服装に目を留め、怪訝そうな表情になる。

「貴様、民間人か? 何者だ? どこから紛れ込んだ?」

 大きな声でポンポンと矢継ぎ早に問われ、アッシュは少しカチンときた。

「そういうあんたは何者なんだよ? 人に名前を聞くときは自分から名乗るって教わらなかったのか?」

「む。道理だな」

 怒り出すかと思ったが、彼女は納得したように頷く。

「自分はハンナ=シュタウフェンベルク大尉だ。この大隊の統括を任されている」

 そう自己紹介した。どうやら話のわからない人物ではないらしい。

(てことは、大隊長? エリカの上司か……)

「それで、貴様は何者だ? どうしてこんなところにいる?」

 改めてハンナが問うてくる。一瞬、思考を逸らしていたアッシュは、まるで慌てたときのアリーセのようにしどろもどろになってしまった。

「あー、えぇと、俺はエリカたち――あぁっと、第八小隊だったか? その協力員として来てて――、あぁ、そっか、名前は――」

「しゃきっとせんかっ!!」

 ハンナが一喝する。

 雷に打たれたかと思った。鼓膜がびりびりと震えているような気がする。

「くぁ……」

 アッシュは脳を揺さぶられて、目を回しそうになってしまった。頭がくらくらする。

「大隊長殿! シュタウフェンベルク大尉!」

 そのとき、ハンナの後ろの通路の向こうから、エリカが飛んできた。

「申し訳ありません。彼がなにか失礼を?」

 きちんと敬礼してから、エリカが問い掛ける。ハンナはエリカに視線を移して答礼すると、軍刀の柄に左手を置いて尋ねた。

「ブラウスパーダ少尉か。この不審な民間人は、貴様の関係者か?」

「はい。彼は我が第八小隊の現地協力員で――」

 ハンナの問いに、エリカが慌てて弁明しようとする。

「貴様の隊の協力員? む? ということは、こいつが例の――」

 ハンナが眉を寄せた。間違いなく、彼女は、エリカが提出した先日の事件の報告書を読んでいるはずだ。鋭い視線で、アッシュの顔を凝視する。

「あらあら、ハンナ隊長。こちらにいらしたんですか?」

 また新たな人物が通路の向こうから現れた。エリカが彼女の姿を目にして敬礼する。ハンナが溜め息を吐くようにしながら、彼女に言った。

「セラ。その呼び方は止めろと言っているだろう」

「まあまあ。だって、このほうが可愛らしいじゃありませんか」

 新たな人物はエリカに答礼を返しながら答える。ハンナがもう一度、鼻から息を吐いた。

「せめて、部下の前ではよせ。威厳がなくなる」

「あらあら。ハンナ隊長の蓄えられている威厳は、この程度のことでは一パーセントも減ったりしないと思いますけど」

 彼女はおっとりと微笑む。萌葱色のふわりとウェーブの掛かった肩までの髪に浅葱色の垂れ目。年齢は二十代の前半から半ばくらいに見える。均整の取れた体型はモデルのようだ。その胸は、大半の男性を魅了するような豊かな曲線を描いている。

「それで、なにか用か?」

「はい。作戦資料の準備でご相談がありまして」

「そうか。では、行こう」

 ハンナは、セラと呼んだ彼女に頷くと、もうアッシュのことなど忘れたかのように通路を歩き出した。そこへ折悪しく、今度はチッピィを連れたアリーセとサーニャが顔を出す。

「あー、アッシュ、やっと見つけたぁ。――って、はわわ! 大隊長殿! 大隊副官殿! 失礼致しましたぁ!」

 アリーセは気の毒なくらい慌てて、通路の端に直立すると敬礼をした。隣でサーニャも無言で敬礼する。彼女たち下士官から見れば、大隊長など雲の上の人物なのだろう。

 ハンナとその副官らしきモデルのような女性は彼女たちに答礼すると、通路の向こうに消えていった。二人の姿が見えなくなると、アリーセとサーニャは敬礼していた手を下ろす。

「はわー、びっくりしたぁ」

「はい。びっくりです」

 アリーセとサーニャが頷き合った。エリカがアッシュに問い掛けてくる。

「それで、アッシュはこんなところでなにをされていたんですか?」

「……済まん。迷ってた」

 それを聞いて、エリカが呆れたように一つ息を吐いた。

「仕方ありませんね。では、一緒に戻りましょう」

「ああ。迷惑掛けたな」

 先に立って歩き出すエリカに、アッシュは尋ねてみる。

「あのおばさんがこの大隊の大隊長、エリカの上官なのか?」

 アリーセが慌てて周囲を見回した。だが、確認するほどのこともなく、今この通路には彼らの他には誰もいない。

「おばさんなんて言っちゃダメだよぉ! 大隊長殿はすっごく怖いんだよぉ?」

「我が大隊の大隊長、ハンナ=シュタウフェンベルク大尉は、『鉄雷』の二つ名で呼ばれ、恐れられる非常に苛烈な性格の人物です。部下を叱りつける怒声が三キロ先からも聞こえるなどと言われる、この第六辺境警備師団内で知らぬ者はいない有名人です」

 アリーセに続いて、サーニャが説明する。

「二人とも、口が過ぎますよ。シュタウフェンベルク大尉は確かに厳しい方ですが、部下には公正で、作戦遂行能力に優れた、立派な上官です」

 ハンナを恐れているらしい二人とは違って、エリカは彼女を慕っているようだ。

「いえす、まぁむ。失礼しましたぁ」

「失礼しました」

 二人が謝罪する。

「ふぅん。――でも、もう一人のお姉さんは優しそうな人だったじゃないか?」

 アッシュは相槌を打つと、彼女の副官らしきモデル体型の美女を思い出して言った。

「セラフィーナ=カルティアイネン中尉。大隊副官です。我が大隊では、苛烈な大隊長と一般隊員との間のクッション役として機能しています」

「あたし、カルティアイネン中尉殿は好きぃ。時々お菓子をくれるんだよぉ」

 アッシュの感想に、サーニャとアリーセが口々に言う。エリカが振り向いた。

「……男の方は、カルティアイネン中尉のような方がお好きですよね?」

「ああ、まぁ、ああいう女性を嫌いな男はいないんじゃないか?」

 アッシュが同意すると、エリカはそっけなく頷く。

「そうですね」

 なんとなく、視線が冷たい。エリカの足取りが速くなる。

「?」

 アッシュは慌てて彼女の後を追った。

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