第8話 やっと長い一日が終わった
広間を出ると、廊下の窓から、夕方の光が差していた。
知らない空の色。遠くには、屋根の並ぶ街が見える。
俺は一度、足を止めた。
あそこにも、人が暮らしている。
髪を結び、服を選び、夕飯のことを考えているのだろうか。
「ユウ様?」
「すみません。行きましょう」
案内された客室には、寝台と机、洗面用の水が用意されていた。
着替えもある。身体に合うものがなければ、翌日調整してくれるという。
椅子に座ると、やっと疲れが出てきた。
魔王の髪を切った。
魔術を習った。
今朝は、川でコーヒーを飲んでいた。
同じ一日の出来事としては、少し詰め込みすぎだ。
食事が運ばれてくる間に、セレスがお金の説明をしてくれた。
普段の買い物で使う小さな貨幣から、銀貨、金貨へ。値段の目安として、パンや食事、宿泊の例を挙げてもらう。
説明を聞き終えて、俺は受け取った金貨を見た。
「……これを持って、パンを一つ買いに行かない方がいいですね」
「お店のお釣りが、足りないかもしれません」
「先に聞いてよかった」
明日は、使いやすい貨幣への両替も手配してくれることになった。
続いて、食事が並ぶ。
焼いた肉、野菜の煮込み、パン。それから湯気の立つ汁物。
まずは、汁物を一口。
うまい。
香草の匂いは知らないものだったが、塩気は程よく、温かさが腹へ落ちた。
「これは、何の肉ですか?」
俺が皿を示すと、セレスが、この地方で飼われている獣の名前を教えてくれた。
聞いたことはない。
まあ、異世界だ。
牛、という答えを期待する方が無理だったかもしれない。
焼き色のついた端を切って、口に運ぶ。
噛むと脂の香りが広がる。少し弾力があるが、硬すぎない。
「この香り、上にかかっている葉ですか?」
「はい。肉料理によく使います」
「乾燥させても香りは残ります?」
「確か、台所では乾かしたものも使っていたと思います」
「なるほど。煙の香りとも合いそうだな……」
セレスが笑った。
「お料理にも、詳しいのですね」
「好きなんです。釣った魚を料理したり、肉を燻したり。果物や肉を乾燥させる道具も持っていました」
「乾かすための道具が?」
「温度や風を調整できるんです。放っておけるので便利で」
口にしてから、あの道具も元の家にあるのだと思った。
台所の棚。使いかけの香辛料。冷蔵庫に入れた燻製。
箸の代わりに持っていた食器の柄を、俺は少し握り直した。
セレスは急かさなかった。
俺は肉をもう一口食べて、息を吐いた。
「この世界にも、お酒はありますか?」
「ありますよ。ご用意しましょうか」
「今日は、味見くらいでお願いします。まだ、身体も慣れていないので」
小さな杯で運ばれてきた酒は、果物の香りがした。
一口だけ飲む。
甘みの後に、思ったよりしっかりした熱さが来た。
「……これは、味見にしておいてよかった」
「お気に召しませんでしたか?」
「いえ。気に入ったので、気をつけようかと」
セレスが、声を立てて笑った。
笑ってから、ふと髪に触れる。
「まだ、気になります?」
「いえ。いつもなら、この頃には結び直していると思いまして」
「今日は?」
「今のところ、楽です」
それは、よかった。
明日も、自分で試してもらおう。
食後、翌日の予定を相談した。
朝食の後、城の職人を訪ねる。まずは話を聞き、髪用の鋏が作れるか相談する。
「説明を絵にできたら、伝えやすいかもしれません」
俺が言うと、セレスは紙と筆記具を用意してくれた。
「必要なことを、書いておいていただけますか」
「はい」
「今夜、魔術の練習で寝るのが遅くならないように」
俺は机の上の水差しを見た。
セレスも見た。
少しの沈黙。
「……道具のメモを優先します」
「お願いします」
見送った後、俺は机に向かった。
まず、鋏の形を描く。
刃の長さ。指を入れる輪の大きさ。持ったときの重さ。開閉の滑らかさ。
刃の合わせ方や材質は、職人に聞きたい。
すきバサミは、歯の形も説明しなければならない。何でも同じように切れる鋏では、困る。
思いつくことを、順番に書いた。
元の店で新しい道具を選んでいたときの、自分の手を思い出す。
こちらの手は、まだ少し違う。
でも、欲しい使い心地は覚えている。
描いた鋏の持ち手が、少し歪んでいた。
俺は線を引き直した。
絵も、もう少し練習が必要そうだ。
窓の外が、すっかり暗くなっていた。
机の上の水差しへ、つい目が行く。
俺は紙を重ね、その前に立てかけた。
見えなければ、少しは気にならない。
明日は、職人に会う。
セレスの結び方も、もう一度確かめたい。
寝台へ横になる前に、俺はメモの最後へ、一行書き足した。
――長く使えて、指が痛くならないもの。
そこまで書いて、思い出した。
金色の竜。
輪の内側にある牙。
俺は、もう一行足した。
――指を入れるところに、牙は不要。
これで、明日の話は始められる。




