第3話 娘が来て、魔王が動けなくなる
鋏を離した俺の前で、魔王が振り返った。
「おお。来たのか」
さっきまでの声より、明らかに柔らかい。
広間の入り口に、小さな女の子が立っていた。
五、六歳くらいに見える。黒い髪を二つに結び、頭には小さな角がある。魔王のものほど長くはなく、髪の間から、ちょこんとのぞいていた。
後ろには、世話係らしい女性が控えている。
「お父様、何してるの?」
「髪を整えてもらっておる」
女の子は、俺を見た。
俺の手の鋏を見た。
魔王の肩に落ちた黒髪を見た。
眉が、きゅっと寄った。
「……また、知らないおじさんになるの?」
魔王の笑顔が止まった。
「ならぬ。今日は、ならぬそうだ」
そうだ、で俺を見た。
急に保証を求められた。
俺は鋏を小卓に置き、女の子の方へ体を向けた。
「こんにちは。髪を切っている、悠です」
しゃがんで、目線を合わせる。
女の子は世話係の方をちらっと見た。それから、俺に向き直る。
「いっぱい切る?」
「今日は、あまり短くしないよ。ここが広がらないように、少しずつ整えてるんだ」
俺は自分の耳の横を指した。
「お父様の髪、いつもこうなってる?」
両手を頭の横で、ふわっと広げる。
女の子がうなずいた。
「あさ、もっとおっきい」
「朝はもっとか」
「こっちが、びょーんって」
右手を高く上げる。
魔王が咳払いをした。
「寝起きの話は、よいであろう」
「でも、いつもびょーんって」
「……うむ」
日々の観察に基づく証言は、強かった。
俺は笑いを抑えながら、左側の髪を示した。
「こっちは、もう少し切ったところ。どうかな?」
女の子は近づき、魔王の顔を下から見上げた。
切った方と、まだ途中の方を見比べる。
「お父様だ」
「そうであろう」
魔王が、深くうなずいた。
本人確認が取れた。
「こっちも、こうするの?」
女の子が右側を指す。
「そう。両方を整えて、後ろも見て、おしまい」
「見ててもいい?」
「もちろん。ただ、鋏を使っている間は、少し離れて見ていてね」
セレスが小さな椅子を用意してくれた。
女の子が座る。両足は床につかず、靴の先が揺れていた。
俺は魔王の後ろへ戻り、鋏を取った。
「それでは、続きを――」
「ユウよ」
「はい」
「娘の椅子は、そこだと我の顔が見えにくくはないか」
魔王の首が、少し横へ向きかける。
娘が、ぴしっと指を立てた。
「お父様、動いちゃ駄目だよ」
止まった。
見事に止まった。
俺は鏡を見る。
魔王が、まっすぐ前を向いている。
「……わかっておる」
「さっき動いた」
「今は動いておらぬ」
「そのままね」
「うむ」
セレスが目を伏せた。
口元が、少しだけ上がっていた。
護衛が何人いても落ち着かなかったお客さんが、小さな監督一人で、急に切りやすくなった。
俺は薄く毛束を取り、刃先を入れた。
しゃき、しゃき。
魔王は動かない。
鏡越しに娘の方を見ようとして、目だけが少し横へ寄る。
「魔王様。あとで、きちんと見てもらいましょう」
「……頼む」
声が小さい。
大事な発表を待っている父親の声だった。




