第2話 魔王様、カット中は動かないでください
「鋏を開くたびに、剣に手をかけるのはやめていただけますか」
俺が言うと、兵士は腰元の手を見た。
どうやら、無意識だったらしい。
「しかし、魔王様のお近くに刃物が……」
「髪を切るので、近づけないわけにはいかないんです」
「それは、確かに」
兵士がうなずく。
手は離れない。
納得と行動の間に、もう一段階あるようだ。
魔王が、鏡越しに兵士を見た。
「控えよ。我が望んだことだ」
「はっ!」
ようやく手が離れた。
ほかの兵士たちも、そろって両手を体の横に下ろす。
その姿を見届けて、俺はもう一度、毛束を取った。
「少しずつ切ります。引っかかったり、痛かったりしたら、すぐ教えてください」
「わかった」
小さな鋏を開く。
まずは、毛先をほんの少し。
しゃき、と音がした。
短い黒髪が、布の上に落ちる。
切れ味は大丈夫だ。髪を逃がさず、引っ張る感じもない。
よし。
俺が次の毛束を取ろうとすると、魔王が右を向いた。
「どうした」
角が、俺の手の前を通る。
俺は鋏を引いた。
「魔王様、カット中は動かないでください」
「背後で、ただならぬ気配がした」
鏡を見る。
さっきの兵士が、両手を下ろしたまま、こちらを凝視していた。
剣には触れていない。
約束は守っている。
代わりに、目で止めようとしていた。
「皆さんも、もう少し楽にしていただけると」
「楽に、ですか」
「切るたびに、そんなに身構えなくても大丈夫です」
兵士は困った顔をした。
仕事熱心なのはわかる。護衛としては正しいのだろう。
美容室との相性が、今ひとつなだけで。
「皆さん、少し下がってください」
セレスが静かに言った。
「ユウ様の手元に集中されすぎると、魔王様まで気になります」
兵士たちが、二歩下がる。
俺は魔王に向き直った。
「何か気になったら、振り向く前に声をかけてください。鋏を離しますので」
「承知した」
「ありがとうございます」
相手が大人なら、説明して待ってもらえる。
子どものカットでは、そうはいかない。
莉子ちゃんが小さかった頃は、店の前を犬が通るだけで、頭が九十度動いたものだ。
ただ、あの子には角がなかった。
この違いは大きい。
*
魔王の角は、頭の左右から伸び、上へ緩く曲がっていた。
根元の近くでは、髪の流れも変わっている。
俺は櫛の背を使って、絡んだ髪を少しずつ分けた。
「角には、触っても大丈夫ですか?」
「かまわぬ」
「痛くなったり、くすぐったかったりは?」
「先の方は何ともない。根元は、強く押さえられると気になる」
「では、そこは押さえないようにします」
知らないことは、本人に聞く。
お客さんが、普段どう感じているかを知るのも仕事のうちだ。
角の根元から髪を外して、自然に下ろす。
黒髪が、また角の横に盛り上がった。
ここを短くすれば、すっきり見えそうではある。
ただ、それは切った直後だけかもしれない。
短くなった髪が立ち上がれば、角の横が余計に膨らむ。根元の生え方を見た限り、その可能性は高そうだ。
俺は毛束を下ろし直した。
「その辺りが、いつも収まらぬ」
魔王が鏡を見ながら言う。
「朝、手で押さえても戻る」
「短く切るより、長さを残して流れるようにした方がよさそうです。ここは髪自身の重さも使いたいので」
「減らすのではないのか?」
「減らすところと、残すところを分けます」
俺は角の横の髪を残し、その下で厚く重なっている部分を薄くすくった。
持ち上げると、内側の毛先がひとかたまりになっている。
すきバサミがあれば、慣れた手順で調整できる。
今日は普通の鋏一本だ。
取った毛束を指の間で広げ、刃先を少しずつ入れていく。毛先を一線に切りそろえず、長短をつけて重なりをほぐす。
一度で取りすぎない。
鋏を離し、髪を下ろす。
櫛を通して、自然に落ちる位置を確かめる。
まだ重い。
もう一度、必要な部分だけ取る。
しゃき、しゃき、と小さな音が続いた。
「……あまり落ちぬな」
魔王が肩の布を見ている。
「長さを残すので、今は少しずつです」
「以前は、もっと落ちた」
「娘さんに泣かれたときですか?」
「うむ」
魔王の顔が曇った。
俺は鏡越しに、軽くうなずく。
「今日は、そこまで落としません」
「それはよい」
切った髪の量を見て、安心してくれるお客さんはいる。
多いと喜ぶ人も、少ないとほっとする人も。
魔王は、今のところ後者だった。
*
左側を少し整えたところで、俺は鋏を置いた。
指で髪を持ち上げ、軽く揺らしてから離す。
黒い毛束が肩へ落ちた。
さっきより、外へ張り出さない。
毛先には、元々の癖が柔らかく残っている。
鏡の中で、セレスが首をかしげた。
「長さは、ほとんど変わっていませんよね」
「はい」
「ですが、こちらだけ、すっきりして見えます」
「内側で重なっていたところを、少し調整しました」
俺はまだ切っていない右側と見比べる。
「見える表面まで減らしすぎると、まとまりが悪くなることもあるので。残したい形に合わせて、内側から少しずつ」
セレスは鏡をのぞき込み、左右を見た。
「魔王様、こちらをご覧ください」
彼女が左側を指す。
魔王が、そちらへ顔を向けかけた。
途中で止まる。
目だけが、左へ動いた。
「……首を動かさずに見るのは、難しいな」
「今は大丈夫です。鋏を置いていますから」
「そうか」
魔王がゆっくり顔を動かす。
左右を見比べ、顎を少し上げた。
見覚えのある角度だ。
佐伯さんも、仕上がりが気に入るとこうなる。
俺はつい、口元を緩めた。
「いかがです?」
「悪くない」
魔王はもう一度、左側を見た。
「……こちらも頼む」
「もちろんです」
悪くない、と言う人が、もう片方を急いでほしがる。
美容師には、かなりうれしい反応だった。
俺は反対側へ回り込んだ。
ただし、まっすぐには近づかない。
角の先が来る位置を確かめ、半歩外側から手を伸ばす。
いつもの立ち位置では、櫛を持つ手が角に当たりそうになる。肘の高さを変え、毛束を引き出す向きを調整した。
角は動かせない。
俺が動けばいい。
「疲れていませんか?」
「問題ない」
「首がつらくなったら、教えてください。途中で休めますので」
魔王は、鏡越しに俺を見た。
「お前は、よく尋ねるな」
「初めてのお客様なので」
「初めてでなくとも、尋ねるのか」
「必要なことは。前は平気でも、今日は首が痛いかもしれませんし」
「なるほど」
魔王は少し黙った。
それから、肩の力を抜いた。
「では、このまま頼む。今は、つらくない」
「はい」
俺は薄く取った毛束に、刃先を入れる。
指で確かめ、切って、下ろす。
地味な作業だ。
派手な変身を求める撮影なら、途中は早送りになるかもしれない。
でも、こういう時間が好きだった。
髪の動きを見て、目の前の人の話を聞いて、少しずつ形にしていく。
場所が魔王城でも、その手順は変わらない。
背後の兵士たちも、いつの間にか静かになっていた。
鏡の端を見ると、さっき剣に手をかけた兵士が、今度は自分の襟足をそっと触っている。
目が合った。
彼は慌てて手を下ろした。
護衛の仕事は、大丈夫だろうか。
とはいえ、俺も少し安心した。
鋏を持つたびに警戒されるより、髪型を気にしてもらえる方が、ずっと仕事はしやすい。
しゃき、とまた黒髪が落ちた。
魔王は動かなかった。
俺は次の毛束を取った。
そのとき、広間の入り口から、小さな声がした。
「お父様、何してるの?」
鏡の中で、魔王の顔がぱっと変わった。
首が動く、その直前。
俺は鋏を離した。




