大河ドラマ『治国平天下 ―山田方谷伝―』 第八回「相次ぐ喪失」
前回:母・梶の死後、父・五郎吉は阿璘を家に呼び戻そうとするが、丸川松隠の説得を受け、学業の継続を許す。
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**S1.新見・回陽塾・大部屋(昼)**
文政二年(一八一九年)、阿璘数え十四。母を失ってなお、以前にも増して書物に向かう阿璘の姿がある。慎斎が、その様子を気にかけながら見ている。
**慎斎**
「阿璘、少しは休め。根を詰めすぎじゃ」
**阿璘**
「慎斎殿。それがしは、母上の分まで、学ばねばなりませぬゆえ」
慎斎、何か言いかけて、やめる。ただ、その肩に、そっと手を置く。
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**S2.西方村・山田家(昼・同じ頃)**
五郎吉、幼い平人の世話をしながら、菜種油の行商の支度をしている。継母となる後添え・お筆(三十前後、控えめな人柄)が、家事を手伝っている。だが、五郎吉の顔色は、以前にも増して優れない。
**お筆**
「旦那様、顔色が優れぬようですが……」
**五郎吉**
「なに、大事ない。少し、疲れが出ておるだけじゃ」
そう言いながらも、五郎吉、咳き込む。お筆、心配そうな顔をする。
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**S3.同・村道(昼)**
五郎吉、天秤棒を担いで行商に出る。だが、その足取りは、かつてよりも重い。すれ違う村人・多助が、その様子に気づく。
**多助**
「五郎吉さん、大丈夫か。顔色が悪いぞ」
**五郎吉**
「大事ない、大事ない。……それより多助さん、今年の菜種の出来はどうじゃ」
多助、心配そうに五郎吉の背中を見送る。
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**S4.同・山田家(夜)**
五郎吉、床に伏している。高熱にうなされている。お筆、濡れた手拭いを額に当てながら、看病している。幼い平人が、不安げにその様子を見ている。
**お筆**
「旦那様……新見に、報せた方が」
**五郎吉**
(弱々しく)
「いや……よい。阿璘の、邪魔を、するな」
**お筆**
「しかし……」
**五郎吉**
「あれは……あれは、学問を、続けねばならん。わしのことで、また、呼び戻しては……」
お筆、唇を噛みしめる。五郎吉の意志を汲み、報せを控える判断をする。
(ナレーション)
「五郎吉は、みずからの病を、あえて新見へは報せさせなかったという。梶を送り出した、あの日の悔いを、二度と繰り返させたくなかったのかもしれない」
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**S5.同・山田家(夜・数日後)**
五郎吉の容態が急変する。お筆、たまらず多助に頼んで新見への早馬を出す。
**お筆**
「多助さん、お願いします……阿璘様に、報せを」
**多助**
「分かった、任しんさい」
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**S6.新見・回陽塾(夜)**
阿璘のもとに、早馬の報せが届く。慎斎が、青ざめた顔で伝える。
**慎斎**
「阿璘……お父上が、危篤とのことじゃ」
阿璘、書物を取り落とす。前回、母の時と同じ光景。だが、その表情には、既視感の中にある、深い恐れが浮かんでいる。
**阿璘**
「……また、か」
震える声で呟き、それから、弾かれたように立ち上がる。
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**S7.新見から西方村への山道(夜)**
阿璘、暗闇の山道を、提灯も持たずに駆ける。月明かりだけが頼りである。息を切らし、幾度も転びそうになりながら、なおも走り続ける。
(ナレーション)
「母を失って、わずか一年足らず。同じ道を、阿璘はふたたび駆けることとなった」
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**S8.西方村・山田家(夜)**
阿璘、飛び込んでくる。五郎吉、すでに意識が朦朧としている。
**阿璘**
「父上!」
五郎吉、うっすらと目を開ける。阿璘の顔を認め、微かに笑おうとする。
**五郎吉**
(弱々しく)
「阿璘……来て、しもうたか」
**阿璘**
「父上、それがしは……」
**五郎吉**
「叱りはせん……今度は、な」
五郎吉、震える手を伸ばす。阿璘、その手をしっかりと握る。
**五郎吉**
「阿璘。お前は……立派に、なった」
**阿璘**
「父上……」
**五郎吉**
「梶が……あの油菜の花を、見せてやりたかったのう」
**阿璘**
「父上、しっかりしてくださいませ」
**五郎吉**
「学んだことは……己のためだけに、使うでない。この村の者たちのために……使うのじゃぞ」
**阿璘**
「忘れませぬ。決して、忘れませぬ」
五郎吉、満足げに目を閉じる。その手から、ゆっくりと力が抜けていく。
**阿璘**
「父上……父上!」
冷たくなっていく父の手を握りしめ、阿璘はただ呆然と立ち尽くす。
(ナレーション)
「翌年、阿璘数え十四の年。今度は父・五郎吉が、急な病でこの世を去った。両親を、わずか一年余りの間に、共に失ってしまった」
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**S9.同・山田家・土間(夜・葬儀後)**
誰もいない土間。阿璘、独り座り込み、かつて母が指でなぞってくれた文字の跡を、ぼんやりと見つめている。
**阿璘**
(小さく)
「学問を、続けねば……」
だが、その声には、以前のような確信はない。土間の暗がりに、阿璘の小さな影が、ぽつんと浮かんでいる。
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**S10.同・座敷(昼・数日後)**
親族が集まっている。忠兵衛、お筆、そして数名の親族。阿璘、末席に座っている。幼い平人が、阿璘の膝にしがみついている。
**忠兵衛**
「阿璘。辛かろうが、話をせねばならん」
阿璘、頷く。
**忠兵衛**
「五郎吉が遺したのは、幼い平人と、継母のお筆殿、それに……借財じゃ」
座敷に、重い沈黙が満ちる。
**親族A**
「阿璘は、新見で学問を続けとる身じゃ。じゃが、この家を、誰が支える」
**親族B**
「まさか、平人にはまだ無理じゃろう」
一同の視線が、自然と阿璘に集まる。阿璘、深く息を吸う。
**阿璘**
「それがしが、家業を継ぎまする」
一同、驚いて阿璘を見る。
**忠兵衛**
「阿璘……よいのか。お前の学問は」
**阿璘**
(声を絞り出すように)
「父も母も、それがしのために、多くを犠牲にしてくれました。今度は、それがしが、この家を支える番にございます」
阿璘、深く頭を下げる。その肩が、微かに震えている。
(ナレーション)
「数え十四にして、阿璘は一家の主とならねばならなかった」
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**S11.新見・回陽塾・松隠の書斎(昼)**
阿璘、松隠のもとを訪れ、暇乞いを告げる。松隠、静かにその報告を聞いている。
**阿璘**
「先生……これまでのご恩、生涯忘れませぬ」
深々と頭を下げる阿璘に、松隠は初めて、この弟子の前で言葉に詰まる。
**松隠**
「阿璘……いや、良いのじゃ。学問の書は、いつでもまた開ける。だが、家を守らねばならぬ今この時は、二度とは来ぬ。行きなさい」
小さな背中が、塾の門を出て、山道へと消えていく。それを見送りながら、松隠は独り言のように呟く。
**松隠**
(小さく)
「あの子は、必ず戻ってくる。学問の道へ、必ず」
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**S12.西方村・山田家・搾油場(昼・翌年/文政三年)**
数え十五になった阿璘。もはや書物を開く少年ではなく、菜種を運び、臼を回し、天秤棒を担いで村々を歩く、一家の主となっている。額に汗を浮かべ、黙々と搾油の作業を続けている。
(ナレーション)
「西方村に戻ってからの阿璘は、田畑を耕し、菜種油を搾り、天秤棒を担いで行商に歩く日々を始めた。それでも、学問への志を絶やすことはなかった」
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**S13.同・山田家・座敷(昼・数か月後)**
ふたたび親族が集まっている。忠兵衛が、あらためて阿璘に向き合う。
**忠兵衛**
「阿璘。この一年、よう働いた。皆、お前を見直しておる」
**阿璘**
「勿体ないお言葉にございます」
**忠兵衛**
「して、あらためて話じゃが……この際、正式に、お前が山田の家督を継ぐということで、皆に異存はないか」
親族一同、頷く。
**親族A**
「阿璘なら、安心して任せられる」
阿璘、しばし目を閉じる。それから、深く頭を下げる。
**阿璘**
「謹んで、お受けいたします」
(ナレーション)
「文政三年(一八二〇年)、数え十六。親族の相談により、阿璘は正式に山田家の家督を相続することとなった」
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**S14.同・搾油場(夜)**
夜、家人が寝静まった後。阿璘、独り、行灯の灯りの下で書物を開いている。疲れた体に鞭打つように、目を凝らして文字を追っている。
(ナレーション)
「夜、家人が寝静まった後、ひとり書物に向かい、灯火の下で読み耽ったという。学問への志を、阿璘は、片時も手放すことはなかった」
阿璘、ふと手を止め、行灯の灯りを見つめる。その目に、亡き父母の面影が重なって見える。
**阿璘**
(小さく)
「父上、母上……それがしは、必ず」
言葉を飲み込み、ふたたび書物に向き直る。行灯の灯りが、静かに揺れている。
(第八回・了)
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次回予告メモ
第九回「裏山にて」では、家業に追われる日々の中、阿璘が独り裏山(かつて五郎吉が阿璘誕生の日に見た、あの油菜畑の斜面)に登り、亡き母が病床で語ったという「お家再興を果たしつつも、時代の勢いに乗って走りすぎてはならぬ」という戒めを反芻する場面を描く。花期を過ぎた青々とした葉だけの畑の情景と、幼き日の記憶とを重ね合わせ、阿璘の胸に募る焦りと、それでも消えぬ学問への渇望を、静かな筆致で描き出す。




