大河ドラマ『治国平天下 ―山田方谷伝―』 第九回「裏山にて」
前回:文政三年(一八二〇)、数え十六の阿璘は、親族の相談によって正式に山田家の家督を相続する。
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**S1.西方村・山田家・搾油場(朝)**
臼がきしみ、菜種油の匂いが満ちている。数え十六になった阿璘、額に汗を浮かべながら、黙々と搾油の作業をこなしている。継母の近が、幼い平人の身支度を整えながら、その様子を見ている。
**近**
「阿璘様、少しお休みになっては。もう随分と働き詰めにございます」
**阿璘**
「大事ございませぬ。近殿こそ、平人の世話でお疲れでしょう」
近、微笑みながらも、どこか阿璘を気遣う様子を見せる。
**近**
「阿璘様は、まだお若いのに……ご立派にございます」
阿璘、手を止めずに、静かに答える。
**阿璘**
「立派などとは、思いませぬ。ただ、なさねばならぬことをしておるまでにございます」
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**S2.同・村道(昼)**
阿璘、天秤棒を担いで行商に出る。多助が、通りすがりに声をかける。
**多助**
「阿璘、精が出るのう。五郎吉さんの生き写しじゃ」
**阿璘**
「多助殿にも、いつもお世話になっております」
**多助**
「なんの。……じゃが阿璘、お前様、書物の方は、もうすっかり諦めたのか」
阿璘、一瞬、足を止める。それから、努めて明るく答える。
**阿璘**
「今は、家業が先にございます。学問のことは、考えぬようにしております」
多助、その様子に、何か言いたげな顔をするが、それ以上は聞かない。阿璘、一礼して歩き去る。
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**S3.同・山田家・座敷(夜)**
行灯の灯りの下、阿璘が帳面をつけている。近が、繕い物をしながら、その様子を見ている。
**近**
「阿璘様。お疲れのご様子ですね」
**阿璘**
「いえ……大事ございませぬ」
近、しばし迷ってから、口を開く。
**近**
「阿璘様は、本当は、まだ学問を続けとうございましょう」
阿璘、手を止める。だが、すぐに帳面に目を戻す。
**阿璘**
「そのようなことは……もう、考えますまい」
近、それ以上は何も言わず、静かに繕い物を続ける。だが、その目には、阿璘への気遣いが滲んでいる。
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**S4.西方村・裏山(早朝・数日後)**
朝靄の中、阿璘、独り裏山の斜面を登っていく。かつて自分が生まれた日、父がこの黄色い海を眺めながら「この子には、何が見えるのだろうか」と呟いたという、あの斜面である。
だが、そこにはもう、油菜の花はない。花期はとうに過ぎ、青々とした葉だけが、風に揺れている。
阿璘、しばらくその景色を見つめている。
(ナレーション)
「文政三年、家督を継いだ阿璘であったが、学問への思いを断ち切ることは、容易ではなかった」
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**S5.同(回想・母の病床)**
回想。数え十四の阿璘。病床の梶が、幼い頭を撫でながら、静かに言い聞かせている(第七回の再掲・短縮版)。
**梶**
「阿璘。お父さんの志を、成し遂げるのですよ」
**梶**
「ただし、時代の勢いに乗って走りすぎては、つまずきます。どうか、生涯を立派に終えておくれ」
阿璘(回想の中の幼い姿)、涙をこらえて頷く。
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**S6.西方村・裏山(早朝・回想明け)**
回想から戻る。現在の阿璘、青々とした葉の畑を見つめたまま、静かに佇んでいる。
**阿璘**
(小さく呟く)
「母上……それがしは、走りすぎては、おりませぬか」
風が吹き抜け、葉が揺れる。阿璘、しばし目を閉じる。
(ナレーション)
「この言葉を、阿璘は生涯忘れることがなかったという。家業に追われる日々の中で、時にその戒めが、重くのしかかることもあったであろう」
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**S7.同(続き)**
阿璘、しゃがみ込み、土に手を触れる。
**阿璘**
(独り言のように)
「学問は、己一人の栄達のためにあるのではない。世の中をよくするための手立てじゃ……先生に、そう教わりました」
**阿璘**
「じゃが、今のそれがしは、この谷から、一歩も出ることができませぬ」
阿璘、しばし俯く。それから、ゆっくりと顔を上げる。
**阿璘**
「……いや」
**阿璘**
「油を搾ることも、田を耕すことも、この村の者たちの暮らしそのものじゃ。これもまた、学びの一つと思わねば」
自らに言い聞かせるように呟き、阿璘、静かに立ち上がる。
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**S8.西方村・村道(昼)**
阿璘、山を下りていく。その足取りは、来た時よりも幾分か軽くなっている。途中、畑仕事をする村人たちに出会う。
**村人A**
「阿璘様、精が出ますのう」
**阿璘**
「皆様こそ、いつもご精勤で」
村人たちに深く頭を下げる阿璘。かつての「神童」ではなく、共に汗を流す一人の若者としての顔が、そこにある。
(ナレーション)
「かつて生まれた日に見た、あの油菜の花の景色を胸に、阿璘はふたたび、西方村の日々へと戻っていった。だが、この村での日々も、いつまでも続くわけではなかった」
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**S9.同・山田家(夜)**
阿璘、行灯の灯りの下、帳面をつけ終えた後、隠すようにして一冊の書物を取り出す。かつて松隠から借り受けた古い書物である。近、その様子に気づくが、何も言わず、静かに立ち去る。
阿璘、疲れた目をこすりながら、文字を追い始める。
(ナレーション)
「日中は搾油と行商に明け暮れ、夜は独り、灯火の下で書物に向かう。そうした日々が、幾年も続いた」
阿璘の横顔に、行灯の灯りが揺れている。窓の外には、西方村の夜が、静かに更けていく。
(第九回・了)
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### 次回予告メモ
第十回「搾油場の夜」では、家業と学問の間で揺れる阿璘の焦りをさらに掘り下げ、新見の丸川松隠へ弱音を綴った手紙を送る場面(原作第十幕)を中心に描く。近の細やかな気遣いや、多助ら村人たちとの交流を交えつつ、「このままでは凡庸な人間に成り下がってしまうのではないか」という阿璘の恐れと、それでも手を動かし続けるしかない現実との葛藤を丁寧に見せる。




