大河ドラマ『治国平天下 ―山田方谷伝―』 第七回「母の叱咤」
前回:数え八つの阿璘、客人の問いに「治国平天下」と即答し、その評判は西方村の両親のもとにも届く。
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**S1.新見・回陽塾・大部屋(昼)**
文政元年(一八一八年)、阿璘数え十三。以前よりさらに背丈が伸び、年嵩の塾生たちに混じっても遜色ない体格になっている。書見をする阿璘の姿は、もはや神童というより、一人前の学徒の風格を帯び始めている。
宗次郎(すでに二十代となり、塾を出て他国へ赴く支度をしている)が、荷物をまとめながら阿璘に声をかける。
**宗次郎**
「阿璘。わしは明日、備前へ発つ。もう会えぬかもしれんが……達者でな」
**阿璘**
「宗次郎殿にも、いろいろと教えていただきました。忘れませぬ」
**宗次郎**
「教えられたのは、わしの方じゃ」
二人、笑い合う。その穏やかな空気を破るように、慎斎が慌ただしく入ってくる。
**慎斎**
「阿璘! 西方村より、早馬が参っておる!」
阿璘、顔色を変えて立ち上がる。
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**S2.同・門前(昼)**
早馬に乗った使いの者(西方村の百姓・多助)が、息を切らせている。
**多助**
「阿璘様! お国元より、火急の知らせにございます! お母上様が、ご危篤とのこと!」
阿璘、書物を取り落とす。
**阿璘**
「――母上が」
**慎斎**
「阿璘、すぐに支度を。わしも先生に伝えてくる」
阿璘、頷く間もなく、駆け出す。
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**S3.新見から西方村への山道(昼〜夕)**
取るものも取りあえず、阿璘、幾里もの山道を駆ける。息が上がり、足がもつれても、止まらない。夕暮れの光が、必死に走る阿璘の姿を照らしている。
(ナレーション)
「新見から西方村までは、幾里もの山道であった。だが、この日の阿璘には、その道のりの長さを感じる余裕すらなかった」
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**S4.西方村・山田家(夜)**
病床に伏す梶。傍らに、幼い弟・平人(六歳ほど)が心配そうに座っている。五郎吉が、疲れ切った様子で梶を見守っている。
戸が勢いよく開き、阿璘が飛び込んでくる。
**阿璘**
「母上!」
梶、うっすらと目を開ける。痩せ細った体で、それでも声を絞り出す。
**梶**
「阿璘……お前は、何をしに戻ってきたのです」
阿璘、その言葉に凍りつく。
**阿璘**
「母上……」
**梶**
「学業の半ばで、私の看病などのために帰ってくるとは、何ということです」
**五郎吉**
(見かねて)
「梶……そこまで言わずとも」
**梶**
(五郎吉を制して、なおも阿璘に)
「すぐに、塾へお戻りなさい。お前には、なさねばならぬことがあるはずです」
阿璘、何も言い返すことができない。ただ涙が、次から次へと零れ落ちる。
**阿璘**
「……分かりました、母上」
もう一度、母の顔を見つめる。痩せて、頬のこけたその顔に、かつて土間で文字を教えてくれた、あの優しい面影を探す。
**阿璘**
「母上……どうか、お大事に」
梶、微かに頷く。それが精一杯、という様子。
深く頭を下げ、阿璘は来た道を戻っていく。
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**S5.同・表(夜)**
阿璘、家を出たところで、堪えきれずに立ち尽くす。肩が震えている。五郎吉が、後を追って出てくる。
**五郎吉**
「阿璘」
阿璘、涙を拭い、振り返る。
**五郎吉**
「母は……お前を、思うてああ言うたのじゃ。憎うて言うたのではない」
**阿璘**
「分かっております、父上。ですが……」
**五郎吉**
「ですが?」
**阿璘**
「母上のお傍に、もっと、おりとうございました」
五郎吉、言葉に詰まる。それから、阿璘の肩に、そっと手を置く。
**五郎吉**
「行け、阿璘。母の言葉に、応えてやるのが、お前の孝行じゃ」
阿璘、唇を噛みしめ、深く頭を下げる。そして、夜の山道へと、ふたたび駆け出していく。
(ナレーション)
「梶が息を引き取る前の父母との、これが最後の対面であった」
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**S6.新見・回陽塾(夜・数日後)**
阿璘、塾に戻り、松隠の前に座っている。憔悴した様子だが、書物を手放そうとはしない。松隠、その姿を静かに見つめている。
**松隠**
「阿璘。無理をするでない」
**阿璘**
「先生……母が、戻れと申しました。それゆえ、それがしは、ここにおらねばなりませぬ」
松隠、しばし黙る。それから、静かに頷く。
**松隠**
「そうか。……ならば、学びなさい」
阿璘、書物に向き直る。だが、その目には、隠しきれぬ不安が揺れている。
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**S7.西方村・山田家(夜・十日後)**
梶、静かに息を引き取る。五郎吉、幼い平人、親族たちが枕元に集まっている。行灯の灯りが、静かに揺れている。
**五郎吉**
(震える声で)
「梶……」
(ナレーション)
「新見へ戻ってからわずか十日後、梶は息を引き取った。母の死に目に会うことは、ついに叶わなかった」
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**S8.新見・回陽塾(夜・訃報の日)**
多助が再び早馬で駆けつけ、慎斎に訃報を告げる。慎斎、重い足取りで松隠のもとへ向かう。
**慎斎**
「父上……西方村より。梶殿が、身罷られたとのことにございます」
松隠、目を閉じる。それから、静かに立ち上がる。
**松隠**
「阿璘は、いずこじゃ」
**慎斎**
「大部屋にて、書見をしております」
**松隠**
「わしが、話そう」
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**S9.同・大部屋(夜)**
阿璘、独り書物に向かっている。松隠、静かに入ってきて、その傍らに座る。阿璘、松隠の顔を見て、すべてを悟る。
**阿璘**
「先生……」
**松隠**
(静かに)
「阿璘。今宵は、書物を閉じなさい」
阿璘、震える手で書物を閉じる。それから、堪えきれず、声を殺して泣き始める。松隠、何も言わず、ただその背に、そっと手を置く。
(ナレーション)
「母がかつて土間で文字を教え、病床でなお学業を優先させよと叱咤した、その厳しさの奥にあったもの――それを、阿璘はこの夜、痛いほどに噛みしめていたのかもしれない」
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**S10.西方村・山田家(昼・数日後)**
葬儀を終えた後の山田家。五郎吉、放心した様子で座っている。親族の一人・忠兵衛(五郎吉の従兄弟)が、傍らに座って声をかける。
**忠兵衛**
「五郎吉、気を落とすでない。梶さんも、あの世で案じておろう」
**五郎吉**
「忠兵衛……わしは、阿璘を、呼び戻そうと思う」
**忠兵衛**
「なに?」
**五郎吉**
「梶がおらんようになった今、この家には、わしと平人だけじゃ。阿璘に、家を継いでもらわねば……」
**忠兵衛**
「五郎吉、それは早計じゃぞ。阿璘は、まだ学問の途上じゃ」
**五郎吉**
「分かっておる。分かっておるが……わしゃ、もう、これ以上、独りでは背負いきれん」
五郎吉の目に、疲労と不安が滲んでいる。
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**S11.新見・回陽塾・松隠の書斎(昼・数日後)**
五郎吉が、松隠を訪ねてきている。憔悴した様子で、深く頭を下げる。
**五郎吉**
「先生……勝手を申すようですが、阿璘を、家に戻していただきとうございます」
松隠、しばし黙って五郎吉を見つめる。
**松隠**
「五郎吉、そなたの辛さは、わしにも分かる」
**五郎吉**
「先生……」
**松隠**
「じゃが、聞いてくれ。阿璘は、この数年で、目覚ましい学びを見せておる。ここで学問を止めさせるのは、あの子にとっても、そして、いずれこの国にとっても、大きな損失になろう」
**五郎吉**
「しかし、家には、幼い平人と……わし独りでは」
**松隠**
「五郎吉。今しばらく、辛抱してはくれぬか。わしも、慎斎も、できる限りの助けをする。阿璘には、まだ学ばせねばならぬことが、数多くある」
五郎吉、拳を握りしめる。長い沈黙。
**五郎吉**
(絞り出すように)
「……先生に、そこまで仰っていただいては」
**松隠**
「五郎吉。梶殿も、病床であれほど阿璘を叱咤したという。あれは、まさしく、この子の学問を思うての、母の心じゃ。梶殿の願いを、無にしとうはなかろう」
五郎吉、肩を震わせる。それから、深く頭を下げる。
**五郎吉**
「……分かりました。先生に、お任せいたします」
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**S12.同・大部屋(昼)**
阿璘、廊下の陰から、父と松隠のやり取りを、そっと見ている。父の後ろ姿に、深々と頭を下げる松隠の姿を見て、阿璘の目に、涙が浮かぶ。
(ナレーション)
「父がこの日、何を思い、何を諦めたのか――阿璘がそれを知るのは、まだ先のことである。だが、母の死を境に、阿璘の胸には、以前とは違う、ある種の覚悟が芽生え始めていた」
阿璘、静かに踵を返し、書見の場へと戻っていく。その背中に、これまでにない重みが加わったように見える。
(第七回・了)
次回予告メモ
第八回「相次ぐ喪失」では、翌年(文政二年)、数え十四で父・五郎吉も急な病でこの世を去る様子を描く。残された幼い弟・平人と継母、そして借財。数え十五で家業の菜種油商を継いだ阿璘が、数え十六(文政三年)に親族の相談によって正式に家督を相続するまでの経緯を、西方村での行商や搾油の日々を交えながら描く。学問への未練を断ち切れぬまま、一家の主とならねばならなかった阿璘の葛藤を、丁寧に見せる回とする。




