大河ドラマ『治国平天下 ―山田方谷伝― 第六回「治国平天下」
前回:数え六歳、新見藩主・関長輝の御前にて見事な揮毫を披露した阿璘。その評判は、新見の城下にとどまらず広まっていく。
---
**S1.新見・回陽塾・大部屋(昼)**
文化九年(一八一二年)頃、阿璘数え八つ。以前より背丈も伸び、塾生としての落ち着きも増している。宗次郎(十七、八歳になっている)が、後輩塾生たちに何やら指南している傍らで、阿璘は独り、難しい書物と向き合っている。
**宗次郎**
(後輩に)
「よいか、この一節は……阿璘、お主ならどう読む」
阿璘、顔を上げる。
**阿璘**
「宗次郎殿、それがしより、宗次郎殿の読みの方がよろしいかと」
**宗次郎**
(笑って)
「謙遜も身についてきたか。三年前は、そうは言わなんだぞ」
塾生たち、笑い声を上げる。かつてのような遠慮がちなざわめきではなく、打ち解けた空気が漂っている。
---
**S2.同・塾の縁側(昼)**
慎斎が、松隠に茶を運んでいる。二人、縁側から庭を眺めている。庭先では、阿璘が水を汲む雑用をこなしている。
**慎斎**
「父上、阿璘もすっかり、塾に馴染んだようにございます」
**松隠**
「うむ。あの子は、雑用一つも疎かにせぬ。学問だけでのうて、そういうところにも、あの子の質がよう出ておる」
**慎斎**
「近頃は、年嵩の塾生たちも、阿璘に一目置いております。まるで、年の順が逆になったかのようで」
松隠、静かに笑う。
**松隠**
「才が驕りに変わらなんだのは、良きことじゃ。……あの子の親御は、良い育て方をしたものよ」
---
**S3.同・大部屋(昼・数日後)**
塾に、旅装の客人(四十代、他国から遊学に来た儒者と思しき身なり)が訪れている。慎斎が案内している。
**慎斎**
「これは、備前より参られた、儒者の柴田仙庵殿にございます」
塾生たち、居住まいを正す。仙庵、塾内を興味深げに見回す。
**仙庵**
「ほう……新見の回陽塾は、幼い塾生も多いと聞いておったが」
視線が、阿璘に留まる。まだ幼さの残る顔で、しかし真剣に書物と向き合っている姿。
**仙庵**
(近づいて、やや戯れの調子で)
「坊や。そんなに小さいうちから、何のために学問をしておるのだ」
周囲の塾生たち、それとなく耳をそばだてる。宗次郎も、手を止めて成り行きを見守る。
阿璘、顔を上げる。少しも迷う様子を見せずに、答える。
**阿璘**
「治国平天下にございます」
一瞬、間が空く。
仙庵、絶句する。しばらく声も出せず、ただ、この幼い塾生の顔を見つめている。
**仙庵**
(ようやく)
「……『大学』の一節、そのままではないか」
**阿璘**
「はい」
**仙庵**
「そなた、その言葉の意味を、分かって申しておるのか」
**阿璘**
「国を治め、天下を平らかにする――それが、学問の行き着く先であると、先生に教えていただきました」
仙庵、しばし阿璘を見つめたまま、動けずにいる。それから、深く息を吐き、慎斎の方を向く。
**仙庵**
「慎斎殿……これは、只者ではない」
**慎斎**
(誇らしげに、しかし控えめに)
「私どもも、日々驚かされております」
---
**S4.同・松隠の書斎(夜)**
松隠、慎斎から仙庵とのやり取りを聞いている。
**慎斎**
「父上、今日、柴田殿が阿璘の言葉に絶句しておられました」
松隠、静かに頷く。だが、その表情には、単純な喜びだけではない、複雑なものが浮かんでいる。
**慎斎**
「父上、お喜びにならぬのですか」
**松隠**
「喜んでおる。じゃが……」
**松隠**
「あの言葉を、あの年で口にできることが、良いことばかりとは限らぬ」
**慎斎**
「と、申されますと」
**松隠**
「『治国平天下』とは、言うは易し、行うは難しの最たるものじゃ。あの子は、いずれ、この言葉の重みを、身をもって知ることになろう」
慎斎、松隠の言葉に、ふと表情を曇らせる。
**松隠**
「今はまだ、あの子に、その重みを背負わせとうない。せめて、もう少し……子供でいさせてやりたいものじゃ」
窓の外、虫の声が響いている。
---
**S5.同・庭先(昼・翌日)**
阿璘、独り、井戸端で水を汲んでいる。宗次郎が通りかかる。
**宗次郎**
「阿璘。昨日の話、聞いたぞ。柴田殿を絶句させたそうじゃな」
**阿璘**
「大袈裟にございます」
**宗次郎**
「大袈裟なものか。塾中、その話で持ちきりじゃ」
阿璘、少し困ったように笑う。
**宗次郎**
「なあ、阿璘。お主は、本当に『治国平天下』などということを、考えて生きておるのか」
阿璘、水桶を置き、しばし考える。
**阿璘**
「宗次郎殿。それがしは、九名……いえ、西方村の、貧しい農家の生まれにございます」
**宗次郎**
「うむ」
**阿璘**
「父も母も、日々、油を搾り、天秤棒を担いで、汗して働いております。それがしが学問をするのは、いつか、そういう者たちの暮らしを、少しでも良うするためでございます」
宗次郎、しばし黙って阿璘を見つめる。
**宗次郎**
「……お主は、やはり、只者ではないわ」
**阿璘**
(照れくさそうに)
「よしてくださいませ」
二人、笑い合う。井戸端に、初夏の光が差し込んでいる。
---
**S6.西方村・山田家(昼・同じ頃)**
五郎吉と梶のもとに、新見からの便りが届く。梶、文を開いて読む。
**梶**
「あなた……阿璘が、また」
**五郎吉**
「今度は何じゃ」
**梶**
「回陽塾を訪れた客人に、『何のために学問をするのか』と問われ、『治国平天下にございます』と、答えたそうにございます」
五郎吉、しばし絶句する。
**五郎吉**
「治国……平天下、と。あの子が」
梶、文を胸に抱くようにして、静かに微笑む。
**梶**
「あの子は、私たちの手を、もう離れていくのですね」
**五郎吉**
「……そうかもしれん」
五郎吉、複雑な表情で、遠く新見の方角を見やる。誇らしさの奥に、一抹の寂しさが滲んでいる。
(ナレーション)
「『大学』の一節そのままの、大人でも容易には口にできない言葉であった。この逸話の言葉が一字一句正確であったかどうかは、確かめようがない。しかし、後年方谷が成し遂げた藩政改革、そして生涯を通じて示し続けた教育への情熱を思うとき、この幼い日の答えは、単なる早熟の産物ではなく、すでに彼の内に芽生えていた志の萌芽であったように思われてならない」
---
**S7.新見・回陽塾・大部屋(夕)**
夕暮れ時、塾生たちが帰り支度をする中、阿璘は独り、まだ書物に向かっている。松隠が、廊下からその後ろ姿を見つめている。
(ナレーション)
「治国平天下――幼き日に発せられたこの一言は、やがて長い歳月をかけて、備中松山の地に、確かな形をもって刻まれていくこととなる。だが、その道のりは、決して平坦なものではなかった」
松隠、静かに阿璘の背中を見つめ続ける。夕陽が、二人の影を長く伸ばしている。
(第六回・了)
---
### 次回予告メモ
第七回「母の叱咤」では、数え十三の阿璘のもとに、母・梶危篤の報せが届く。取るものも取りあえず西方村へ駆け戻るが、病床の梶から「学半ばにして戻るとは何事です」と叱咤され、涙をこらえて新見へ戻る。その十日後、梶は息を引き取る。母の死に目に会えなかった悔恨と、母の言葉の意味を、阿璘がどう受け止めていくかを丁寧に描く。




