大河ドラマ『治国平天下 ―山田方谷伝―』 第五回「藩主の御前にて」
前回:新見・回陽塾に入門した阿璘は、丸川松隠から「学問とは世の中をよくする手立てである」との教えを授かる。
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**S1.新見・回陽塾・大部屋(朝)**
文化七年(一八一〇年)、阿璘数え六歳。塾生たちが書見をしている。阿璘、以前より背丈は少し伸びたものの、まだ幼さの残る顔で、年上の塾生たちに混じって書物に向かっている。
年嵩の塾生・宗次郎(十五、六歳)が、阿璘の手元を覗き込む。
**宗次郎**
「阿璘、お主、その書はもう三度目じゃろう。飽きんのか」
**阿璘**
「飽きませぬ。読むたびに、違うことが分かります」
宗次郎、苦笑しながらも、どこか感心した様子。
**宗次郎**
「まったく、お主といると、こちらが怠けとる気になるわ」
慎斎が入ってきて、一同に声をかける。
**慎斎**
「皆、聞け。此度、藩主・関長輝様の御前にて、揮毫を披露する者が選ばれることとなった」
塾生たち、色めき立つ。
**塾生A**
「それは名誉なこと。して、誰が選ばれるのですか」
**慎斎**
「――阿璘」
一同、驚いて阿璘を見る。宗次郎、目を丸くする。
**宗次郎**
「阿璘が……この年で、御前にか」
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**S2.同・松隠の書斎(昼)**
松隠と慎斎、阿璘が向き合っている。
**松隠**
「阿璘。御前にての揮毫は、名誉であると同時に、重い務めじゃ。粗相があれば、そなただけの恥にはとどまらぬ」
**阿璘**
(緊張しながらも、まっすぐ松隠を見て)
「はい」
**松隠**
「怖いか」
阿璘、少し考えてから、正直に答える。
**阿璘**
「怖うございます。ですが……」
**松隠**
「ですが?」
**阿璘**
「先生に教えていただいたことを、そのまま、筆に乗せるだけにございます」
松隠、微笑む。慎斎も、その様子を見て、安堵したように頷く。
**松隠**
「よう言うた。……そのようにいたせ」
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**S3.新見・陣屋・大広間(昼)**
居並ぶ重臣たち。中央に、小さな阿璘がただ一人座らされている。藩主・関長輝(三十代、威厳を持ちながらもどこか好奇心を隠せない様子)が上座から見下ろしている。
**重臣A**
(小声で隣に)
「あれが、九名村から来た子か。まだ、こがぁ小さいのう」
**重臣B**
「丸川殿が見込んだ子じゃ。見物じゃな」
**長輝**
「これへ、筆を」
家臣が硯箱を運んでくる。阿璘、静かに筆を取る。周囲のざわめきが、一瞬にして静まり返る。
阿璘、しばし目を閉じ、心を静める。それから、紙の上を、迷いなく筆が走る。
墨の跡が、力強く、しかし乱れなく紙面を埋めていく。重臣たちの視線が、その手元に釘付けになる。
**重臣C**
(小さく声を漏らして)
「……おお」
長輝、身を乗り出すようにしてその様子を見つめている。
書き終え、阿璘、筆を置いて深々と平伏する。座敷に、静かなどよめきが広がる。
**長輝**
(感嘆した様子で)
「見事じゃ。……幼くして、これほどの筆とは」
阿璘、顔を上げず、静かに答える。
**阿璘**
「もったいなきお言葉にございます」
**長輝**
「阿璘とやら。そなた、将来は何になりたいと思うておる」
一座、固唾を呑んで阿璘の答えを待つ。阿璘、少し考えてから、はっきりと答える。
**阿璘**
「世の中の役に立つ者に、なりとうございます」
長輝、しばし黙る。それから、静かに頷く。
**長輝**
「……励めよ」
**阿璘**
「ははっ」
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**S4.同・陣屋・廊下(昼・退出後)**
松隠と慎斎、控えの間で待っている。阿璘が戻ってくる。
**松隠**
「阿璘、無事に済んだか」
**阿璘**
「はい、先生」
**慎斎**
(安堵した様子で)
「お主、緊張しておらなんだのか」
**阿璘**
「緊張はいたしました。ですが、筆を持てば、周りのことは見えなくなりました」
松隠、感心したように阿璘を見つめる。
**松隠**
(独り言のように)
「……この子は、いずれ、わしの手を離れていく子じゃな」
慎斎、その呟きを聞き、少し複雑な表情を見せる。
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**S5.九名村・山田家(夜・同日)**
囲炉裏端。五郎吉と梶のもとに、早馬で報せが届く。使いの者が息を切らせて告げる。
**使いの者**
「五郎吉さん! 阿璘様が、新見の藩主様の御前にて、見事な揮毫を披露なされたとのことにございます!」
五郎吉と梶、顔を見合わせる。
**梶**
「まことですか……」
**使いの者**
「藩主様御自らが、感心なされたとのこと。新見の城下では、その評判で持ちきりにございます」
使いの者が去った後、五郎吉と梶、しばし言葉なく座っている。
**五郎吉**
(ぽつりと)
「……阿璘の奴」
**梶**
「あなた……」
**五郎吉**
「わしらの子が、藩主様の御前にまで召される日が来ようとはな」
梶、目に涙を浮かべながら、微笑む。
**梶**
「あの子は、きっと、この家のためだけではなく……」
**五郎吉**
「うむ」
**梶**
「もっと、大きなもののために、生きていく子なのでしょうね」
二人、囲炉裏の炎を見つめながら、しばし黙る。
(ナレーション)
「その場でどのような言葉が交わされ、阿璘がいかなる面持ちでいたか――それを正確に知る術は、今はもうない。だが、貧しい農家に生まれた子が、藩主の御前にまで召されるほどの評判を得ていたこと自体は、確かに伝わっている」
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**S6.新見・回陽塾・大部屋(数日後・昼)**
阿璘、何事もなかったかのように、また書物に向かっている。宗次郎、隣に座る。
**宗次郎**
「阿璘、お主、藩主様の御前でも顔色一つ変えなんだそうじゃな」
**阿璘**
「そのようなことはございませぬ。内心は、震えておりました」
**宗次郎**
(笑って)
「震えて、あの筆か。恐ろしい奴じゃ」
年嵩の塾生たちの間にも、阿璘への態度に、からかい半分だった空気から、次第に一目置くものへと変わっていく様子が見える。
(ナレーション)
「阿璘への評判は、新見の城下にとどまらず、やがて隣国・備中松山にまで届くこととなる。だが、この幼子にとって、それは何ら特別なことではなかった。ただ、目の前の書物に、変わらず向き合い続けるだけであった」
塾の窓の外、初夏の風が吹き抜けていく。
(第五回・了)
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### 次回予告メモ
第六回「治国平天下」では、回陽塾を訪れた客人が「そんなに小さいうちから、何のために学問をしておるのだ」と戯れに問い、阿璘が「治国平天下にございます」と即答する原作屈指の名場面を描く。宗次郎ら年上の塾生たちの反応、松隠の胸中も丁寧に描き、この幼き日の一言が、のちの藩政改革者としての生涯の萌芽であったことを、ナレーションと映像の両面で強く印象づける構成とする。




