大河ドラマ『治国平天下 ―山田方谷伝―』 第四回「入門」
前回:五郎吉と阿璘、山道を越え、新見へ向かう。
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**S1.新見城下・町並み(昼)**
九名村とは違う、城下町らしい賑わい。武家屋敷の白壁、商家の軒先、行き交う侍と町人。阿璘(五歳)、初めて見る町の景色に目を丸くしている。
**阿璘**
「父上……九名村とは、まるで違います」
**五郎吉**
「ここは、新見藩のお城下じゃ。あちらに見えるのが、お城よ」
阿璘、遠くの新見の陣屋を見つめる。
(ナレーション)
「文化六年(一八〇九年)、阿璘数え五歳。隣国・新見藩の藩儒、丸川松隠のもとへの入門が、この日、許された」
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**S2.新見・回陽塾・門前(昼)**
質素だが風格のある門構え。五郎吉、緊張した面持ちで襟を正している。阿璘、父の着物の裾をそっと握る。
**五郎吉**
(小声で)
「阿璘。粗相のなきよう、な」
**阿璘**
「はい」
門番らしき塾生が出てきて、二人を奥へ案内する。
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**S3.同・松隠の書斎(昼)**
書物が積まれた部屋。墨の香りが漂っている。丸川松隠(五十代、学者然とした静かな威厳を持つ人物)が座している。傍らに、息子の慎斎(二十代前半、生真面目な顔立ち)が控えている。
五郎吉、深々と平伏する。
**五郎吉**
「先生、どうか……どうか、この子に学問を」
**松隠**
「面を上げよ、五郎吉」
**松隠**
(阿璘の顔を、じっと見つめて)
「そなたの倅は、噂に違わぬ才を持っておるようじゃな」
五郎吉、幾度も頭を下げる。貧しい農家の主が、藩を代表する学者の前で頭を下げ続ける姿を、阿璘は黙って見ている。
**松隠**
「――阿璘とやら、こちらへ参れ」
呼ばれて、阿璘、おずおずと進み出る。緊張に身体が強張るのが、自分でも分かる様子。
**松隠**
(静かに)
「怖がることはない。ここへ座りなさい」
阿璘、座る。松隠、一冊の書物を、阿璘の前に広げる。
目の前に書物が広げられた瞬間、阿璘の緊張は嘘のように消え失せる。文字を追う目に、迷いはない。
松隠、しばらくその様子を見つめている。やがて、静かに、傍らの慎斎に声をかける。
**松隠**
「慎斎、当面はお前がこの子の面倒を見よ。まだ幼い。塾生としての作法もままなるまい」
**慎斎**
「かしこまりました、父上」
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**S4.同・塾の廊下(昼)**
慎斎、阿璘の手を引いて、塾の奥へと歩いていく。五郎吉、その小さな背中を、いつまでも見送っている。
**五郎吉**
(小さく呟く)
「阿璘……」
阿璘、一度だけ振り返り、父に頭を下げる。それから、慎斎に手を引かれ、塾の奥の暗がりへと消えていく。
(ナレーション)
「小さな背中が見えなくなるまで、五郎吉はその場に立ち尽くしていたという」
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**S5.回陽塾・大部屋(昼)**
年嵩の塾生たちが机を並べ、書物を読んでいる。慎斎、阿璘を末席に座らせる。塾生たちが、幼い阿璘を珍しげに見る。
**塾生A**
(小声で隣に)
「あれが、九名村から来たいう子か。まだ、こがぁ小さいのに」
**塾生B**
「丸川先生が、わざわざ入門を許されたそうじゃ。よほどのものと見える」
阿璘、周囲の視線に臆する様子もなく、渡された書物を静かに開く。その姿を、慎斎が興味深げに見ている。
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**S6.同・松隠の書斎(夜)**
松隠、独り書見をしている。慎斎が入ってくる。
**慎斎**
「父上。あの阿璘という子、今日一日、一度も遊びに興じることなく、書物ばかり見つめておりました」
**松隠**
(筆を置いて)
「うむ」
**慎斎**
「あれほどの子は、見たことがございませぬ」
松隠、しばし考え込む。
**松隠**
「慎斎。あの子には、才がある。じゃが、才だけでは、人は育たぬ」
**慎斎**
「と、申されますと」
**松隠**
「あの年で、あれほどの重みを背負わされておる子じゃ。周囲がもてはやせば、驕るか、あるいは……己を見失うか、そのいずれかになりかねん」
**慎斎**
「ならば、いかがなさいます」
**松隠**
「わしが、あの子に授けねばならぬのは、字でも、書でもない。人としての在り方、そのものじゃ」
窓の外には、新見の夜空が広がっている。松隠、しばし遠くを見つめる。
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**S7.同・庭先(数日後・朝)**
阿璘、庭先で一人、木の枝に文字を書いて遊んでいる(遊びというより、熱心に)。松隠、廊下からその様子を眺めている。慎斎が隣に来る。
**慎斎**
「父上、また覗いておられるのですか」
**松隠**
(微笑んで)
「あの子を見ておると、飽きぬのじゃ」
阿璘、二人の視線に気づき、慌てて立ち上がって頭を下げる。松隠、手招きする。
**松隠**
「阿璘、こちらへ参れ」
阿璘、駆け寄る。松隠、その頭を軽く撫でる。
**松隠**
「阿璘、そなたに問う。学問とは、何のためにあると思うか」
阿璘、少し考えてから答える。
**阿璘**
「己が身を、立てるためかと」
松隠、首を横に振る。
**松隠**
「それだけでは足りぬ。よいか、阿璘。学問とは、己一人の栄達のためにあるのではない。世の中をよくするための手立てじゃ。そなたがどれほどの才を持とうとも、それを己のためだけに用いるならば、その学問は死んだも同然じゃ」
幼い阿璘の目に、何かが灯るのが見える。
**阿璘**
(噛みしめるように)
「世の中を……よくする、ため」
**松隠**
「左様。忘れるでないぞ」
阿璘、深々と頭を下げる。松隠、その小さな背中を、慈しむように見つめている。
(ナレーション)
「この日交わされた言葉を、阿璘は生涯忘れることがなかったという。のちに方谷は、晩年に至ってなお、こう語ったと伝えられる――『あの慈しみは、父母の慈しみをすら超えていた』」
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**S8.新見・城下の道(夕・回想の外側へ戻る)**
五郎吉、九名村への帰り道を、独り歩いている。夕陽が新見の町並みを赤く染めている。振り返り、塾のある方角を見つめる。
**五郎吉**
(小さく)
「先生……どうか、あの子を、よろしゅうお頼み申します」
一礼し、山道を九名村へと向かう。
(ナレーション)
「学問とは、己一人の栄達のためにあるのではない。世の中をよくするための手立てである――松隠が繰り返し説いたこの言葉を、阿璘は幼い胸に深く刻みつけていった。この教えが、のちに『備中聖人』と呼ばれる男の、生涯を貫く背骨となる」
(第四回・了)
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次回予告メモ
第五回「藩主の御前にて」では、数え六歳での新見藩主・関長輝の御前における揮毫の場を描く。松隠・慎斎が阿璘を送り出す緊張と誇らしさ、藩の重臣たちの反応、そして藩主自身が身を乗り出すほどの筆致を見せる名場面として構成する。あわせて回陽塾での年上の塾生たちとの交流も少しずつ描き、第六幕「客人の問い(治国平天下)」への地ならしとする。




