大河ドラマ『治国平天下 ―山田方谷伝―』 第三回「油の匂いのする問答」
前回:五郎吉と梶は、阿璘を新見の丸川松隠のもとへ送り出す決意を固める。
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**S1.九名村・山田家・搾油場(朝)**
臼がきしみ、油が滴る音が、単調に繰り返されている。菜種の匂いが満ちている。五郎吉、額の汗を拭いながら、傍らに座る阿璘(五歳)に語りかける。
**五郎吉**
「阿璘、油というのはな。一度に多く搾ろうとすると、かえって濁る。急がず、ゆっくりと圧をかけるのが肝要じゃ」
阿璘、じっと臼を見つめ、頷く。だが、すぐにこう問い返す。
**阿璘**
「父上。なにゆえ、種は同じなのに、搾り方で油の量が変わるのですか」
五郎吉、言葉に詰まる。
**五郎吉**
「それは……その、な」
**阿璘**
「圧のかけ方が違えば、種の中から出てくるものも違う、ということでしょうか」
**五郎吉**
(手を止め、我が子の顔をまじまじと見つめて)
「阿璘……お前は」
**阿璘**
「父上、教えてくださらぬのですか」
**五郎吉**
「いや……いや、そうではない。父にも、よう分からんのじゃ。それより、なぜそんなことが知りたいのだ」
阿璘、少し考えてから、静かに答える。
**阿璘**
「知れば、もっと良い油が搾れるかもしれませぬ。それに……知らぬままでいるのが、なんだか、心地悪うございます」
五郎吉、笑う。だが、その笑いの裏に、複雑な思いが去来している。
(ナレーション)
「五つやそこらの子供が発する問いではない。近隣の者たちが『九名村に神童あり』と噂するのも、無理からぬことであった」
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**S2.同(続き)**
五郎吉、搾油の手を止め、阿璘の隣に座り直す。
**五郎吉**
「阿璘。父はな、この油を、成羽まで、新見まで、天秤棒担いで売り歩いておる。それしか、能がない」
**阿璘**
「父上には、能がないなどということはございませぬ」
**五郎吉**
(苦笑して)
「いや、ある。学問のことは、何一つ分からん。お前がわしに聞いたことも、半分も答えてやれなんだ」
阿璘、五郎吉をじっと見る。
**阿璘**
「父上」
**五郎吉**
「なんじゃ」
**阿璘**
「父上が分からぬことは、私が学んで、いずれ父上にお教えいたします」
五郎吉、目を見開く。それから、くしゃりと顔を歪め、笑う。目には光るものがある。
**五郎吉**
「……そうか。そうしてくれ」
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**S3.九名村・山田家・表(昼)**
梶が、竈で握り飯を作っている。近所の女房・お徳が手伝いに来ている。
**お徳**
「梶さん、いよいよ阿璘坊を、新見へやりんさるんじゃな」
**梶**
「ええ……」
**お徳**
「寂しゅうなるのう。この村から、あの賢い坊がおらんようになる言うんは」
梶、手を止めず、静かに答える。
**梶**
「寂しゅうございます。ですが……」
**梶**
「あの子には、この谷よりも、もっと広い場所が要るのでしょう」
お徳、その横顔をじっと見つめる。
**お徳**
「梶さんは、強い人じゃのう」
**梶**
(かすかに笑って)
「強くなど、ございませぬ。ただ、母親というものは、そういうものかと」
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**S4.同・山田家・座敷(夜)**
行灯の灯りの下、五郎吉が古い書物(松隠から借り受けたと思しき)を広げ、覚束ない様子で文字を目で追っている。阿璘、その傍らに座り、覗き込む。
**阿璘**
「父上、何を読んでおられるのですか」
**五郎吉**
(照れくさそうに)
「いや……お前が新見へ参る前に、せめて一つくらいは、父らしいことを教えてやりたいと思うてな」
阿璘、驚いた顔をする。
**五郎吉**
「じゃが、やはり難しゅうて、よう分からん」
**阿璘**
(微笑んで)
「父上。それでよいのです」
**五郎吉**
「よい、とは」
**阿璘**
「父上は、私に、油の搾り方を教えてくださいました。急がず、ゆっくりと圧をかけることが肝要じゃと」
**五郎吉**
「うむ」
**阿璘**
「それは、学問にも通じることのように思います」
五郎吉、しばし阿璘を見つめる。それから、静かに書物を閉じる。
**五郎吉**
「阿璘……お前は、わしなんぞより、よほど大きゅうなる。じゃが、忘れるでないぞ」
**阿璘**
「何をでございますか」
**五郎吉**
「学んだことは、己のためだけに使うでない。この村の者たちのように、日々汗して働く者たちのために、使うのじゃ」
阿璘、深く頷く。
(ナレーション)
「この言葉を、方谷は生涯忘れることがなかったという」
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**S5.九名村・氏神の社(昼・数日後)**
出立前の日。阿璘、五郎吉、梶が氏神に参っている。村人たちが見送りに集まっている。多助、お徳の姿もある。
**多助**
「阿璘坊、新見でも、精出しんさいよ」
**お徳**
「風邪ひかんようにな。新見は、この村より寒いと聞くけえ」
阿璘、深々と頭を下げる。
**阿璘**
「皆様、これまでのご厚情、忘れませぬ」
村人たち、思わず顔を見合わせる。五つの子供の口から出た、あまりに大人びた挨拶に。
**村人A**
(小声で)
「……やっぱり、只者じゃないわ」
五郎吉、その様子を見て、複雑な笑みを浮かべる。
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**S6.同・山田家・表(早朝・出立の日)**
朝霧の中、旅支度を整えた五郎吉と阿璘。梶が握り飯の包みを差し出す。
**梶**
「阿璘、これを。道中、お腹が空いたら」
**阿璘**
「母上……」
梶、阿璘の前にしゃがみ込み、その小さな手を握る。
**梶**
「阿璘。新見へ行っても、この土間で文字を教えたことを、忘れないでおくれ」
**阿璘**
「忘れませぬ」
**梶**
「そして……」
梶、一瞬言葉に詰まる。それから、静かに続ける。
**梶**
「学んだことで、いつか、誰かを助けておやり」
阿璘、母の顔をじっと見つめ、深く頷く。
(ナレーション)
「この日交わされた母の言葉もまた、のちの阿璘――方谷の生涯を貫く指針の一つとなる」
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**S7.九名村から新見へ続く山道(朝〜昼)**
五郎吉と阿璘、二人で山道を歩いている。吉備高原特有の霧が、谷を包んでいる。振り返ると、九名村が霧の底に小さく見える。
**阿璘**
「父上。九名村が、あんなに小さゅう見えます」
**五郎吉**
「ああ。じゃが、あの谷でお前は生まれ、育った。忘れるでないぞ」
阿璘、しばし立ち止まり、谷を見下ろす。それから、また歩き出す。
(ナレーション)
「九名村から新見までは、幾里もの山道であった。だが、この道のりを、阿璘は不思議と、少しも辛いとは思わなかったという」
二人の後ろ姿が、山道の向こうへ小さくなっていく。
(第三回・了)
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### 次回予告メモ
第四回「入門」では、丸川松隠のもとへの到着、松隠との対面、そして息子・慎斎に手を引かれて塾の奥へ消えていく阿璘の姿を、原作第四幕に沿って描く。松隠が阿璘に注ぐ情愛の始まりを丁寧に描写し、外伝一「松隠の眼差し」の伏線もここで軽く仕込んでおく(松隠が庭先で阿璘を見つめる短いカットを挿入)。




