大河ドラマ『治国平天下 ―山田方谷伝―』 第二回「土間の文字」
大河ドラマ『治国平天下 ―山田方谷伝―』
第二回「土間の文字」
前回:文化二年、九名村の山田家に阿璘誕生。油菜の花咲く裏山で、五郎吉は我が子の行く末に漠とした予感を抱く。
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**S1.九名村・山田家(早朝)**
鶏の声。竈から立ちのぼる煙。梶(三十前後)が朝餉の支度をしている。三つになった阿璘が、土間の隅にちょこんと座り、竈の炎をじっと見つめている。
(ナレーション)
「山田家の暮らしは、貧しいながらも、慎ましく整っていた。だが、この家には、他の農家にはない、ひとつの財産があった」
**梶**
「阿璘、火の傍は危のうございますよ。こちらへおいで」
阿璘、素直に立ち上がって梶の傍へ寄る。だが、竈の炎から目を離さない。
**阿璘(幼児)**
「母上。火は……なにゆえ、赤いのですか」
梶、手を止め、我が子を見る。
**梶**
「さあ……母にも、分かりませぬ。阿璘は、なにゆえだと思う」
**阿璘**
「熱いから、赤いのかもしれませぬ」
梶、思わず微笑む。
**梶**
(独り言のように)
「この子は……」
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**S2.同・表(朝)**
五郎吉が天秤棒に菜種油の樽を下げ、出立の支度をしている。近隣の百姓・多助(五郎吉と同年配、気のいい男)が声をかける。
**多助**
「五郎吉さん、今日は成羽まで行きんさるか」
**五郎吉**
「おう。油を売りに、な」
**多助**
(家の中を覗き込み、阿璘を見て)
「相変わらず、賢い子じゃのう。この間も、うちの婆さんが言うとった。『山田さんとこの坊は、村の氏神様の生まれ変わりじゃろか』言うて」
**五郎吉**
(苦笑いしながら)
「よしんさい、多助さん。ただの子じゃ」
そう言いながらも、五郎吉の目には、隠しきれぬ誇らしさが浮かんでいる。多助、それを見て笑う。
**多助**
「五郎吉さんの、その顔よ。ただの子、が聞いて呆れるわ」
五郎吉、照れ隠しに天秤棒を担ぎ直し、村道を歩き出す。
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**S3.九名村・村道(昼)**
五郎吉、菜種油を売り歩く。宿場の商家の前で油を量り売りする様子。
**商家の主人**
「山田さんの油は、いつも澄んどって、量も正直じゃけえ、助かるわ」
**五郎吉**
「当たり前のことをしとるまでにございます」
主人、代金を渡しながら、ふと思い出したように。
**商家の主人**
「そういや、五郎吉さん。おたくの坊、神社に額を奉納したいう話、聞いたぞ。たった四つでか」
**五郎吉**
「はあ……お恥ずかしい限りで」
**商家の主人**
「恥ずかしいことがあるかい。そういう子は、いずれ大きゅうなる。学問所にでも、入れてやったらどうじゃ」
五郎吉、天秤棒を担ぎ直しながら、その言葉を胸の中で反芻する表情。
(ナレーション)
「学問所――それは、貧しい農家の主にとって、あまりに遠い言葉であった。だが、この一言が、五郎吉の胸に、小さな種を蒔くこととなる」
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**S4.九名村・山田家(夜)**
灯火はか細く、影が壁に大きく揺れている。梶が土間の土の上に指を滑らせ、文字を書いている。阿璘、瞬きもせず母の指先を目で追う。
**梶**
「阿璘、ここをこう書くのですよ」
阿璘、小さな指で母の書いた文字をなぞる。歪みながらも、確かにその形をなぞっていく。
**梶**
(思わず声を上げ)
「まあ……」
他の子であれば、とうに飽きて泣き出すか、外へ駆け出していく頃合いである。だが阿璘は、癇癪を起こすでもなく、ただ黙々と、母の動きを真似続ける。
**梶**
「阿璘は、字を覚えるのが楽しいのですか」
阿璘、少し首を傾げてから。
**阿璘**
「文字は……形が、決まっておるから」
梶、幼い言葉の意味を測りかねながらも、その目に宿る静かな光に、何かを感じ取っている。
土間の隅で薪を割っていた五郎吉、その様子をじっと見ている。手を止め、静かに二人を見つめる。
(ナレーション)
「幼い言葉で、それが何を意味するのか、梶にも定かではなかった。だが、その目には、遊びに興じる子供のものとは違う、静かな光が宿っていた」
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**S5.九名村・氏神の社(昼・数日後)**
大きな板額が奉納されている。村人たちが集まっている。四歳になった阿璘が、五郎吉の傍らに小さく立っている。
**村人A**
(額を見上げ)
「これを、あの子が……」
**村人B**
「山田さんとこの子は、只者じゃないぞ」
**村人C**
「五郎吉さん、梶さん、育て方がよほど厳しいと見える」
村人たちのざわめきを背に受けながら、五郎吉は複雑な面持ちで我が子を見つめている。
**村人D**(お徳)
「五郎吉さん、この子は、この村に置いとくには惜しいんと違うか」
**五郎吉**
「お徳さん……」
**村人D**
「新見の丸川先生のとこは、村の子でも、見どころがあれば入門を許してくださる言うぞ。一度、訪ねてみたらどうじゃ」
五郎吉、答えられない。誇らしさと、そしてどこか――この子の行く末を思う、漠とした不安とが、その顔に交錯している。
(ナレーション)
「この逸話がどこまで史実に忠実かは定かでない。方谷の名が高まるにつれ、後年語り継がれるうちに、幾分か彩りを加えられていったのかもしれない。しかし、この家に流れていた『学問への渇望』だけは、疑いようもなく本物であった」
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**S6.同・帰り道(夕)**
五郎吉と阿璘、二人で歩いて帰る。阿璘、小さな手で五郎吉の着物の裾を握っている。
**阿璘**
「父上」
**五郎吉**
「なんじゃ」
**阿璘**
「新見の丸川先生とは、どのような御方ですか」
五郎吉、驚いて阿璘を見る。
**五郎吉**
「聞いておったのか」
**阿璘**
「はい」
五郎吉、しばし黙って歩く。夕陽が二人の影を長く伸ばしている。
**五郎吉**
「阿璘。お前は、学問がしたいか」
阿璘、少し考えてから、はっきりと頷く。
**阿璘**
「したいです。もっと、知りとうございます」
**五郎吉**
「なにゆえじゃ」
**阿璘**
「知らぬままでいるのが、心地悪いからにございます」
五郎吉、思わず立ち止まる。かつて搾油場で聞いた、あの言葉と同じであった。
(ナレーション)
「五郎吉の胸に、あの日、商家の主人が口にした『学問所』という言葉が、ふたたび蘇っていた」
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**S7.同・山田家(夜)**
囲炉裏端。五郎吉と梶、阿璘が寝入った後、二人だけで向き合っている。
**五郎吉**
「梶。わしは、阿璘を新見へやろうと思う」
梶、驚いて五郎吉を見る。
**梶**
「新見へ……丸川松隠先生のところへ、ということですか」
**五郎吉**
「うちには、金もない。田畑もわずかじゃ。だが、あの子には……あの子には、何かがある。わしにも、お前にも見えん、何かがある」
**梶**
(静かに)
「あなた……よろしいのですか。手放すのは、辛うございましょう」
**五郎吉**
「辛いに決まっとる」
五郎吉、声を詰まらせる。
**五郎吉**
「じゃが、あの子をこの谷に閉じ込めておくのは、あの子のためにならん。それに……」
**梶**
「それに?」
**五郎吉**
「わしらが叶えられなんだことを、あの子になら、託せるかもしれん」
梶、しばし黙る。それから、静かに頷く。
**梶**
「分かりました。……あの子の好きにさせてあげとうございます」
囲炉裏の炎が、二人の顔を静かに照らしている。
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**S8.九名村・裏山(夜)**
満天の星の下、油菜畑(花期は過ぎ、葉だけが月光に揺れている)。五郎吉、独り立ち、山並みを見上げている。
(ナレーション)
「翌年――文化六年、阿璘数え五歳。山田五郎吉は、隣国・新見藩の藩儒、丸川松隠のもとへ、我が子を送り出す決意を固める」
五郎吉、深く息を吐き、ゆっくりと家路につく。
(第二回・了)
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次回予告メモ
第三回では、搾油場での父子の問答(原作第三幕)をさらに掘り下げ、五郎吉が新見行きを決意するに至る心理の総仕上げとして描く。第四回でいよいよ丸川松隠への入門シーンへ繋げる。




