『治国平天下 山田方谷伝』 第一回「油菜の花咲く谷」
『治国平天下 山田方谷伝』 第一回「油菜の花咲く谷」
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**S1.備中国川上郡九名村・裏山(早朝)**
一面に咲き乱れる油菜の花。吉備の山影が幾重にも連なり、谷を包み込むように霧が漂っている。風が吹くたび、黄色い花々が波のようにうねる。
(ナレーション)
「文化二年。備中国、川上郡九名村。この谷あいの小さな農村に、のちに『備中聖人』と呼ばれることになる、ひとりの男の生涯が始まる」
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**S2.同・山田家(納屋を改めた産屋)(朝)**
粗末な農家。土間には藁が敷かれ、竈から煙が立ちのぼっている。産屋の外、五郎吉(三十代半ば、日に焼けた顔、着物の裾は泥だらけ)が落ち着かぬ様子で立ったり座ったりしている。隣家の女房・お徳が湯を運んで出入りする。
**お徳**
「五郎吉さん、まあそう気を揉みなさんな。梶さんは気丈な人じゃけえ、大丈夫じゃがな」
**五郎吉**
「そがぁ言うても……お徳さん、わしゃ、生きた心地がせん」
産屋の中から、苦しげな梶の声。五郎吉、思わず立ち上がりかける。お徳がその肩を押しとどめる。
**お徳**
「男が入る場所じゃなかろうもん。ここで辛抱しんさい」
そのとき――赤子の泣き声が響く。小さいが、谷にこだまするほど力強い声。
**五郎吉**
「……生まれた」
弾かれたように立ち上がる。
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**S3.同・産屋の中(朝)**
汗にまみれた梶(二十代後半、疲れ切った顔にも微笑みを浮かべている)が、産婆に抱かれた赤子を胸に受け取る。五郎吉、膝をついて枕元に寄る。
**五郎吉**
「梶……よう、やった」
**梶**
(息も絶え絶えに、それでも微笑んで)
「見てやってください……あなた。この子の顔を」
五郎吉、おずおずと赤子を抱き上げる。小さな拳を握りしめ、まだ開かぬ目でこちらを見上げるような仕草。
戸口が風で開け放たれ、外から風が吹き込む。裏山の油菜の匂いを乗せた風。五郎吉、赤子を抱いたまま、思わず戸口に立つ。
**五郎吉**
(呟くように)
「……阿璘」
**梶**
「阿璘……?」
**五郎吉**
「これが、この子の名じゃ。この黄色い海のように……大きゅう育ってくれ」
梶、布団の中から掠れた声で。
**梶**
「あなた……この子には、何が見えるのでしょうね」
五郎吉、答えない。ただ、赤子を抱く腕に、わずかに力がこもる。窓の外、油菜の花が風に揺れ続けている。
(ナレーション)
「貧しい農家に生まれた子に、何を望むことができるだろうか。せめて健やかであれ――そう思う父の胸の奥には、しかし、言葉にならない予感めいたものが、確かに宿っていた」
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**S4.九名村・村道(数年後・昼)**
行商姿の百姓たちが行き交う。天秤棒に菜種油の樽をぶら下げた男が通り過ぎる。備中弁の会話が飛び交う。
**百姓A**
「今年の菜種は上出来じゃのう」
**百姓B**
「山田さんとこの五郎吉さんは、搾りが丁寧じゃけえ、油が澄んどる言うて評判じゃぞ」
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**S5.山田家・土間(夜)**
灯火はか細く、影が壁に大きく揺れている。梶が土間の土の上に指を滑らせ、文字を書いている。三歳になったばかりの阿璘(幼児)が、瞬きもせず母の指先を目で追う。
**梶**
「阿璘、ここをこう書くのですよ」
阿璘、小さな指で母の書いた文字をなぞる。歪みながらも、確かにその形をなぞっていく。
**梶**
(思わず)
「まあ……」
**梶**
「阿璘は、字を覚えるのが楽しいのですか」
阿璘、少し首を傾げてから。
**阿璘(幼児)**
「文字は……形が、決まっておるから」
梶、幼い言葉の意味を測りかねながらも、その目に宿る静かな光に、何かを感じ取っている。
(ナレーション)
「この頃、阿璘の評判は、すでに近隣の村々にまで届き始めていた」
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**S6.九名村・氏神の社(昼)**
村人たちが集まっている。大きな板額が奉納されている。四歳になった阿璘が、五郎吉の傍らに小さく立っている。
**村人A**
(額を見上げ)
「これを、あの子が……」
**村人B**
「山田さんとこの子は、只者じゃないぞ」
**村人C**
「五郎吉さん、梶さん、育て方がよほど厳しいと見える」
五郎吉、複雑な面持ちで我が子を見つめている。誇らしさと、どこか漠とした不安とが入り混じった表情。
(ナレーション)
「この逸話がどこまで史実に忠実かは定かでない。しかし、この家に流れていた『学問への渇望』だけは、疑いようもなく本物であった」
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**S7.山田家・搾油場(昼)**
臼がきしみ、菜種油が滴る音が単調に響く。五郎吉が額の汗を拭いながら、傍らに座る阿璘(五歳ほど)に語りかける。
**五郎吉**
「阿璘、油というのはな。一度に多く搾ろうとすると、かえって濁る。急がず、ゆっくりと圧をかけるのが肝要じゃ」
阿璘、じっと臼を見つめ、頷く。すぐに問い返す。
**阿璘**
「父上。なにゆえ、種は同じなのに、搾り方で油の量が変わるのですか」
五郎吉、言葉に詰まる。
**五郎吉**
「それは……その、な」
**阿璘**
「圧のかけ方が違えば、種の中から出てくるものも違う、ということでしょうか」
**五郎吉**
(我が子の顔をまじまじと見つめ)
「阿璘……お前は」
**阿璘**
「父上、教えてくださらぬのですか」
**五郎吉**
「いや……いや、そうではない。父にも、よう分からんのじゃ。それより、なぜそんなことが知りたいのだ」
阿璘、少し考えてから、静かに答える。
**阿璘**
「知れば、もっと良い油が搾れるかもしれませぬ。それに……知らぬままでいるのが、なんだか、心地悪うございます」
五郎吉、笑う。だがその笑いの裏に、この子の行く末への、言い知れぬ期待と怖れが同時に去来している――そういう芝居を求める。
(ナレーション)
「九名村に神童あり――その噂は、やがて隣国・新見藩にまで届くこととなる」
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**S8.九名村・裏山(夕)**
夕陽に染まる油菜畑。五郎吉と幼い阿璘が並んで立っている。風が吹き抜け、花々が揺れる。
**五郎吉**
(独り言のように)
「阿璘、お前には、何が見えとるんじゃろうな」
阿璘、答えず、ただじっと黄色い花の海を見つめている。カメラ、ゆっくりと引いていき、谷全体を覆う油菜畑を俯瞰でとらえる。
(ナレーション)
「この谷で見た景色を、阿璘は生涯忘れることがなかった。のちに備中松山藩の財政を立て直し、戊辰の戦火から領民を救い、『備中聖人』とまで呼ばれることになる、その長い道のりの、これが始まりであった」
――タイトル『治国平天下 山田方谷伝』
(第一回・了)
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