第十三話 『とても暖かで、優しいぬくもり』
オータムはプロジェクターとパソコンの電源を切り、カーテンを開けた。
窓の向こう側には燃え上がるような夕暮れ時の空が広がっていた。夕陽が差し込み、教室の中央に座っていた老人の姿を照らし出す。
老人はサツキと同じ手術着のような服を着ていた。そばにはビジネスバッグのような鞄が置いてあり、そこからは何本かのコードや管が老人の体へ伸びていた。
老人はひどくやせ衰えていた。ほとんど骨と皮だけと言ってもいい。
頭髪は一本もなく、骨格がはっきりわかるほどに顔の筋肉は失われていた。
老人は泣いていた。声も漏らさず、体も震えさせず、ただ泣いていた。
何も映っていないまっ白なスクリーンを見つめて、涙を流していた。
「どうして泣いているの?」
サツキは車いすを動かし、老人のそばに行く。
「あの物語は誰も死なずに、平和的に終わったと思うんだけど」
「だからだよ、お嬢さん。あの物語は平和的に終わった。大切な家族や友人に囲まれて、いつだってどこかに笑顔の花が咲いていて、恐怖だの苦痛だのは存在しない。そんな世界が、物語が、最終回のあともずっとずっと続いていくのさ。だから、泣いているんだよ」
「私には、あなたが言っていることが、よくわからないんだけど」
「お嬢さん。あんた、年はいくつだい」
「十八歳」
「そうか。なら、人生はまだまだこれからだな」
老人は鞄からいくつかの錠剤と、ペットボトルに入った水を取り出した。
「俺が十八歳だった頃は、自分がこんな人生を送ることになるなんて夢にも思わなかった。さっきの物語みたいに、家族や友人と平凡で平穏な世界を生きていくもんだとばかり思っていたんだ……。昨日と変わらない今日、今日と変わらない明日、そんな毎日がぐるぐると回りながら年を取って、いつの間にか死んじまうもんだと思っていた。今日と変わらない明日が、平凡で平穏でありふれていて、それでも優しさとぬくもりのある明日が来ることを信じたまま、ころりと死んじまうもんだと思っていた……」
老人は錠剤を一粒口の中に入れ、ペットボトルの水を飲んだ。
「だけどな、現実は全然違っていた。さっきの物語みたいな日常は、俺にとっちゃ理想郷みたいな非日常だったのさ。俺だけじゃねえ。ここにいる連中みんなにとって、あれは日常とはかけ離れた世界だったのさ」
老人はおぼつかない手つきで錠剤を一粒ずつ飲み込んでいく。
「誰も信じちゃくれねえけどよ、お嬢さん。俺は俺なりに幸せになれるようがんばったんだ。高望みをしたわけじゃない。普通に就職して、普通に結婚して家庭をもって、普通の、一般人として人生を終えたかった……。そう、俺の親父がそうだったみたいにな」
老人は最後の錠剤を口に入れ、ペットボトルの水を全て飲み干した。
オータムは壁に掛けてある時計を見る。
しかし時計は壊れているらしく、時は止まっていた。
「なあ、お嬢さん。あんたは自分がどんな人生を送るか、考えたことはあるかい?」
「あるよ。戦場で死ぬまで戦う。それだけだよ」
「そうか……。なら、あんたが死ぬ前にこの戦いが終わったら、どうするんだい?」
わからない、とサツキは首を振る。
「そうかい、そうかい……。なら」
生きてくれ。
老人はかすれた声でそう言うと、枯れ木のような腕をサツキに向けて伸ばした。
サツキは体をふらつかせながら車いすから立ち上がり、老人の隣に立って、細かく震えるその手にふれた。どうしてそんなことをしたのかは、サツキ自身にもわからない。
ただ、この老人の手にふれることが、何か特別な意味があるように思えたのだろう。
「お嬢さん。生きてくれよ。頼むからさ、生きてくれよ……」
老人はもう片方の手をサツキの手に重ねる。
老人の手は風化していく岩肌のようであり、サツキの手は若々しい生命を感じさせるほどにみずみずしく、やわらかだった。
「あんたはまだ十八で、こんなに若くてきれいじゃないか。戦場で死ぬなんて言うもんじゃない。ちゃんと人間として生きて、人間として死ななきゃだめだ」
「生きてどうなるの? 何があるの?」
「楽しいことやうれしいこと、幸せなことがあるさ」
「あなたには、そういうことがあった?」
ああ、と老人はうなずき、涙がにじんだ目をサツキに向ける。
「最後の最後に、あんたみたいなきれいなお嬢さんと出会えて、こうして話ができて、ふれることができた。それだけでもう十分だ。十分だ……」
老人の顔に笑みが浮かぶ。
それは純真無垢な少年のように、あどけない笑顔だった。
「ああ、ああ……。これだよ。この感触だ。やっぱり、いいもんだなぁ。女の手ってのは……」
その手のかすかな温もりと共に、老人の言葉がサツキの胸に染み込んでいく。
オータムは老人のそばに置いてある鞄から携帯端末を取り出し、老人の肩に手を乗せた。
老人は小さくうなずいた。
オータムは携帯端末を操作し、鞄にしまった。
それからほどなくして、老人の手は力を失ったようにサツキの手から離れた。
わずかに開かれている口からは吐息が消え、目は光を失った。
「安らかに眠れ。親愛なる我が同志、蔵人よ」
オータムは薄く開いている老人のまぶたを閉じ、窓の外に広がる空を見つめた。
心配するな。我々もじきにそちらへ行く。




