第三話 『幸せになりたかっただけなんだ』
そんな彼の思いとは関係なく、彼が生きている社会は、時代は、悪化の一途をたどっていた。
彼が就職活動を控えた頃、世界的な不況が発生した。その影響により、長らく低迷が続いていたこの国の景気は大打撃を受け、彼を含む多くの学生は命乞い同然の就職活動を強いられることになった。
そんな彼らに対し、社会は恐ろしいほどに冷徹だった。
文字通り必死になって職を求める学生達を当時の大人達は不良品や粗悪品、欠陥品を見分けるような目で品定めし、不要と判断したら即座に切り捨てた。
自分達だって生きるために必死なんだ。
いらないものをいらないといって何が悪い。
自分が生き残るためなら、他人がどうなろうと知ったことじゃないんだ。
それが、当時の社会を動かしていた大人達の思想だった。
じつに多くの若者がもがき苦しんだ。百を超える企業を受ける者も珍しくはなかった。
何度も何度も選考に落ち、自分の価値を見失い、その結果自ら命を絶つ者も少なくなかった。
幸せな未来を信じていた若者たちの多くが不良品、粗悪品・欠陥品の烙印を押され、失業者として社会に放逐された。
彼もそのうちの一人だった。
どこにも就職できないまま、何の価値も持てないまま、大学を卒業して独り立ちをしなければならない時を迎えてしまった。
その頃から、彼は死を考えるようになった。新卒の時点で就職活動に失敗した者が社会から容赦なく切り捨てられること、そしてやり直すことが許されないことは常識だった。
生きたところで何になる。何の希望があるというんだ。
そんなものはどこにもない。
これからも報われない人生が続くのだろう。
今までだって、ずっとそうだったじゃないか。
こんな人生、さっさと終わらせたほうがいい。
それは確固たる決意となり、彼の心を支配しようとした。
それでも彼は死ななかった。
生きている限り希望はあるという思いを、捨てきることができなかったからだ。
いつか必ず幸せになれる。
そう信じて彼は生きることを選んだ。
アルバイトを転々としながら就職活動を続け、何年か経った後に非正規の職に就き、毎年のように職場を変えながら正規雇用されるための努力を続けた。どこの職場でも、彼は仲間として受け入れられなかった。誰もが彼を自分達より劣った存在として見下し、使い勝手のいい使えない雑用とみなした。彼の経歴を鼻で笑い、なかには異常者扱いする者もいた。
失笑と冷笑に耐えながら、彼は幸せを目指してもがき続けた。
その頃彼の兄弟達は順調にそれぞれの人生を歩んでいた。
卒業と同時に就職し、しばらくした後に結婚して子供を授かり家庭を持った。
彼の両親は一人前に育った息子達を誇り、孫達に惜しみない愛情を注いだ。
その時代としては素晴らしいほどに、彼らは幸せだった。
そんな彼らの目に、一人孤独にもがき苦しんでいる彼の姿は映らなかった。
しかし彼の目には、幸せの中にいる家族の姿がはっきりと映っていた。
彼は涙をこらえ、歯を食いしばり、無理矢理前を見て、理想を目指し歩き続けた。
いつか幸せになる。
必ず幸せになる。
それまでの報われなかった日々を、そんな時代もあったなと笑って思い出せるようになるために。
生きていてよかったと、大切な誰かと一緒に笑いあえるようになるために。
だから、だから俺は――
月日は流れ、彼が生きている世界はゆるやかに動き、変化を続けていた。
家庭、職場、社会、国家、世界情勢……。いずれも彼にとって好ましい変化をとげたものはなかった。
長い歳月が経った。
彼はまだ生きていた。
いや、死んでいなかった。
正しくは死ねなかった。死にぞこなった。
いつからか、彼はどうして自分が生きているのかわからなくなっていた。
たしか俺は、何かを求めていたんだ。
なんだったっけ……。
夢? 理想? 希望?
わからない。思い出せない。
けどそれがあったから、俺は今まで生きてきたんだ。
それを手に入れられなかったから、今も苦しい思いをひきずっているんだ。
ふざけた話だ。なんだかよくわからないものに、未だに苦しめられているなんて。
……いや、それほどふざけたことでもないか。
今までだって、なんだかよくわからないものに散々苦しめられてきたんだから。
いったい、何だったんだろうな……。
自分に残された時間がわずかしかないということに気づいてから、彼はそれについて考えるようになった。
今となっては思い出せない何か。
けれどそれは、きっと、失うくらいなら死んでしまったほうがいいと思えるほどに、大切なものだったはずだった。




