第28話「マタハラですね③」
「では、こちらの紙に署名と捺印のほどお願いします」
「ええ、分かったわ」
早瀬洋子が再び訪れたのは、それから二日経った土曜日の午後の事だった。
生憎と旦那は今日も仕事らしく、マイカーを使用して一人での訪問で、いつもの来客用スペースで高天原が制作した委任状に言われるままにサインをしていたのだが、その際に俺が設定した着手金について質問を受けた。
「あの、ところで……」
「なんだ?」
「……本当にこんな少ない金額で良いんですか? 旦那に聞いていたよりも相当低くてビックリしているんですが」
「今は着手金0円の法律事務所もあるからな、俺が提示した5万円という金額にそこまで驚く必要はねえよ」
通常の示談交渉ならば着手金は10万円〜30万円が妥当で、殆どの法律事務所がその間で請け負っている。
しかし今回のケースは本人も会社を辞めるつもりは無いと言い張っているし、不当な降格や減給があった訳でもなく、解雇や雇止を直接言われた訳でもない。
更には精神疾患の発症もまあ御覧の通り見当たらないしで、高天原と相談の上、嫌がらせ発言や叱責のみを理由に会社側にハラスメントの事実を訴える事になった。
故に被害者側が得られる示談金は非常に少なく、仮に俺が満額の30万円に着手金を設定した場合、成功報酬も合わせて請求すると、彼女は本当に傷付きながら戦場を駆け抜けただけで終わりになってしまう。
「無料の事務所もあるのですか?」
「あるにはある。弁護士の着手金は、2004年4月の弁護士報酬自由化により、各法律事務所が独自に金額や料金体系を設定できるようになったからな。ただし初期費用が不要だからといって簡単に飛び付いてしまうと、成功報酬が高めに設定されていたりで、費用倒れになる危険性が高い。更には途中で解約した場合、経過割合に応じた費用や実費を請求されてしまう事もあるから、その辺は契約する前にちゃんと確認しておかなきゃならねえ」
「き、気を付けます…」
「何でもかんでも自由だから良いって訳じゃねえって事だ。多少の縛りがあってこそ人は踠き悩み成長するんだからよ…」
「お、たまには良いこと言うじゃないですか?」
「普段、悪いことしか言わねえみたいに言うんじゃねえ。誤解を生むだろうがボケナス」
くすくす……
隣にいた高天原が茶化すように口を挟んできたが、その自由化の弊害として様々な問題点が浮き彫りになっているのは事実だ。
定価が無くなった事で、事務所ごとに料金設定や計算方法が異なり、一般人にとって適正価格や相場が分かりにくくなったり、着手金を安くする代わりに成功報酬を高く設定されるなど、総額の予測が難しいケースが増えた。
知識のない依頼者に対し、高額な着手金や報酬金を請求する金銭トラブルや、それに伴う懲戒事例が発生していたり、低価格を謳う事務所の中には多数の案件を急いで処理するから対応が希薄になるのではないかという懸念を依頼人に抱かせていたりもする。
「無料だから危ないとか、高いから安心とかじゃなくて、ちゃんと自分の目で確認して、話を聞いて、納得してから判を押さなきゃ駄目だって事だ。社会の不条理から依頼人を守り、問い質す権利がある癖に、逆に不安を抱かせてたんじゃ話にならねえよ」
「…………佳澄ちゃん、この人絶対離しちゃ駄目よ」
「───────うえ?」
「口は悪いけど、何があっても必ず護ってくれる人だと思うから……」
「あ、あああ、あの…何を……」
「「何を言ってるんだ(ですか)アンタ(あなた)は!?」」
くすくすくす……
───委任契約を結び着手金を支払い、高天原をちゃん付けして呼んだ早瀬洋子は、最後にそんな訳の分からない事を俺達に向かって言ってきた。
これから受任通知を渡して暫くは会社で居心地が悪くなるかも知れないというのに、この令和のジャンヌ・ダルクは、そんな戦火に飛び込む事さえも、まるで生温いというように笑っていたのだ。
「……ったく、万が一会社で何か言われても、その場での回答は避け『今後のやり取りは全て弁護士を通してください』とだけ伝えるんだぞ」
「ええ、分かってます」
毅然とした態度で受け答えした早瀬洋子は、それから膨らんだお腹を大事そうに抱えながら、「見ててね」というように、不可視の聖カトリーヌの剣を背負いながら扉を閉めて、しっかりとした足取りで階段を降りていった。
「……あああ、うああ…うおああああ……」
───そんな彼女を見送った後、来客用スペースのソファーの上で高天原が頭を抱えながら暫く悶絶していたのだが、何に悩んでるのか分からねえし、そのうち宇宙と交信しそうだったしで、関わると面倒臭そうだったから、コソコソとテレビ側に移動した俺は放っておく事にしたのだ。
†††
───それから約一週間後、通知書の中に記載された連絡指定期限ギリギリの翌週の金曜日の午後三時の事である。
トゥルルルルルル、トゥルルルルルル───
読書をしては悶絶し、悶絶しては読書をし、そんな意味不明な行動を繰り返す高天原を、6日間ソッと静かに見守っていた俺の元にようやく待ちに待った電話が届いた。
────ガチャッ
「はい、もしもし古林春信法律事務所の古林ですがー……」
『すみません私、この度○✕生命から相談を受けました顧問弁護士の加賀美春と申します』
「チッ…やっぱり用意してやがったか面倒臭え……」
『あの…何か?』
「あ、いや。話を続けて下さい」
『……はあ』
ハラスメント申告を受けたら、会社側は直ぐに契約を結んでいる顧問弁護士に頼るのが有効とされている。
放置や不適切な対応は損害賠償請求や行政指導に繋がる恐れもある為、早い段階での専門家のアドバイスが重要とされているからだ。
「古林さん、もしかして相手側からのお電話ですか?」
「───シッ、少し黙ってろ。向こうも顧問弁護士を用意してきやがった。面倒臭え事になりそうだから、お前は大人しくそこに座ってろ」
「は、はい。顧問弁護士…ですか……」
ようやく悶絶の海から脱してきた高天原に、通話口を押さえながら、テレビ側のソファーに静かに座ってるように促した。
いくら高天原がハラスメントや法律に詳しいと言っても、専門家には敵わないのは目に見えてるし、外部の声が入っちまうとそれこそ面倒臭え。
『一応、こちら側の対応としては、早瀬さんが被害を受けたと申告する人物と物理的に距離を置く措置を取りました。座席の変更をして、調査期間中は上司にも直接指示を出さないよう仰いでいます』
「そうっすか……」
『さらに、現状加害者と見なされている高嶋さんや、相談を持ち掛けた上司に話を聞き、事実関係を確認致しました。周囲の目撃者からも客観的なヒアリングを行いまして、結果皆さんそのような事実は無かったと、確かにそれらしい事を言ったかも知れないが全て愛情を持ってだと、全部相手の受け取り方次第だと、目撃者である方々も「少し神経質過ぎるのよね」等と仰っていました』
「……はっ、やっぱりな」
『やっぱり…でしょうか? あの、差し出がましいかも知れませんが、一応弁護士であるからには言葉遣いは気を付けた方が良いと思いますよ?』
─────カチン、シュボッ
「あっ、ちょっ古林さん!?」
「うるせー黙ってろ」
……人間ってのはよっぽどの出来事が無い限り、変わらねえって昔から言われてる。
他人は変えられないが自分は変えられるとか、俺が火を付けた煙草を見ながら狼狽える高天原に言わせれば、そんな心理学的な話を懇々とされそうだが、感情が昂ぶっちまった今は、きっと釈迦に説法するより遥かに無駄な事だろう。
「───あのよ、アンタ何の為に弁護士になったんだ?」
『……この会話は一応全て録音されていますからね』
片手に受話器を持ちながら、換気扇目掛けて煙を吐き出しつつ、そんな相手の言葉を無視して話を進める。
「俺は男だからよく分からねえんだけどよ、自分の身体に小さな命が宿って、その子を産んで育てるってのは相当な勇気と覚悟がいると思うんだ」
『弁護士であるなら感情論抜きに語って下さい』
「弁護士だって一人の人間だ。俺等はAIじゃねえ、感情を持った一人の人間だ。誰かの話に親身になって耳を傾けて、そんでコイツなら助けてやりてえって思った奴にだけ手を差し伸べる。それが法の下で生きる奴の権利だ。そんな事も許されねえなら何れは俺達だって、近い将来AIに乗っ取られる未来が来るかも知れねえ」
『……話を続けて下さい』
「ははっ、だいぶ人間らしい声になってきたじゃねえか」
何処に引っ掛かりを覚えたのか分からねえが、電話相手である顧問弁護士「加賀美春」は、少しだけ言葉に苛立ちを乗せて俺に話の続きを促してきた。
「まあそれでよ? これはつい最近聞いた話なんだが、妊娠中の母親にはオキシトシンっていう特別なホルモンが分泌されるみたいでな? それが分泌されると『愛おしい』とか『お世話したい』とか、そういう母性本能が強まって、自分はどんな目にあっても良いから、この子の幸せな将来を護りたいって、強く強く思うようになるらしいんだよ…」
『………………』
「古林さん、この前の話…覚えてたんですね」
横向きにソファーに座って、背もたれを掴んだまま戦況を見守る高天原がそんな相槌を入れてきたが、俺は静かに頷くだけで返事を終わらせた。
「早瀬洋子は言ってたよ。欲しいのは和解金じゃないって、お腹にいる子供に自慢出来るような母親でいたいんだって、だから私は逃げずに立ち向かうんだって、かの有名なジャンヌ・ダルクの言葉を添えてさ」
『ジャンヌ・ダルク…ですか』
「〝私がやらねば、誰がやるのですか〟ってな。どんなに絶望的な状況であっても、自分の使命から目を背けず、子供を護るという強い信念から出てきた言葉だ。絶対に俺なんかには吐けねえ偉大な台詞だ。…それを早瀬洋子は先週の土曜日、うちの事務所を訪れた去り際に、当たり前のように笑って言っていたんだよ」
帰り際に最終確認の意味で尋ねたら、玄関先でクルリと振り返ってそんな台詞を述べられた。
臆すること無く俺を見て、隣に立っていた高天原にも伝わるように、命を育む責任感とはこういうものだと笑顔の奥で語っていた。
「口が悪いのは謝る。本来なら弁護士は感情的になって話しちゃいけねえってのが暗黙のルールだ。だけどな顧問弁護士、俺達はそんな覚悟を持って依頼をしにきた奴の信念を打ち砕くような真似をして、生きていって良いのかよって話だ」
『……私は、あくまで依頼された側の立場から物事を考えて、双方の意見を取り入れつつ公平性を期した判断をしたいと思っています。ですので生きる死ぬとはまた別問題だと思います』
────クシャッ
「分からねえじゃねえか!」
「─────古林さん!?」
謝罪した先から直ぐに熱くなった俺は、本当に大馬鹿野郎だ。
まだ三本ほど中に煙草が残ってたソフトボックスを握り締めて、俺を制止しようと慌てて立ち上がった高天原の声を振り切って、抑えのつかなくなった感情を電話相手に爆発させる。
「たかがハラスメントだと思うかも知れねえ。重大な犯罪を起こした訳でもねえし、職場のちょっとした嫌味を真に受けすぎた女性の妄言だと、アンタは捉えてるかも知れねえ」
『……け、決してそんな事は…』
「だけどな、そんな些細なハラスメントを相談に来た奴は、どいつもこいつも真剣な目をしてた。マリハラだとかジタハラだとかレイハラだとかソーハラだとか…ハラハラだとかザンハラだとか…意味分かんねえ呪文みてえなハラスメントを訴える奴は、どいつもこいつも、ここで追い払ったら死んじまうんじゃねえかっていうような切羽詰まった目をしてた」
「古林さん…全部覚えて……」
一息で言い切って、少しだけ落ち着いた俺は一度吸い込んだだけで終わっていた煙草をもう一度深く吸い込み、更に溜飲を下げてから言葉を繋げた。
「……俺達弁護士には、人の人生を左右出来てしまう力がある。必死こいて勉強して、法の知識を身に付けて、合格発表を見た時にアンタは何を感じた? 少なくとも俺は、これで誰かを幸せに出来るってそう思った…これで人生に躓きそうになってる奴に、誰にも遠慮する事なく手を差し伸べてやる事が出来るって…」
『……私は…』
「言っとくが証拠はある。早瀬洋子はきちんと同僚と上司の声をボイスレコーダーに録音してた。面倒臭えが、本当に面倒臭えが、俺はアンタとの交渉が決裂した場合、それを持って裁判に挑む覚悟さえある」
委任状にサインをしに来た早瀬洋子は、改めてその証拠を差し出してきた。
一月近くにわたる録音データの中から、そこだけを切り取り編集し渡してきたのだ。
「どうする? それでもアンタはその腐り切った連中を守るか? お腹に子を宿した女性の心からの訴えを、馬鹿馬鹿しいと言って切り捨てるのか? …なあどっちだ?」
『………………』
───と、そこまで話した所で相手側の反応が途切れた。
何を考えてるか分からないが、暫くの間無言で、深い溜め息を吐く音だけが受話器から聞こえてきた。
『……一旦持ち帰らせて頂いて、後日、改めて御返答をという形で宜しいでしょうか?』
「出来るだけ早めに頼む。針の筵に座らされながら、それでも会社に行ってる奴がいるんだ。こちら側としては一週間以内が望ましい」
『……分かりました。出来るだけ早く返答致します』
────ガチャンッ、ツーツーツーツー…
向こうから通話が切れて、一定のリズムで繰り返される電子音が部屋の中に響き渡る。
もちろんスピーカーはオンにされていて、会話の内容を全て聞いていた高天原は、立ったまま腕を組んで悩ましげな表情をした後、小さく息を吐いて俺にこう言ってきた。
「古林さんって、馬鹿ですよね?」
「─────あ?」
「だって見ず知らずの人に、まして旦那がいる人の為に、自分の弁護士人生を掛けてまでそうやって怒れてしまうんですから。どうするんです? これで失敗してまた極貧生活に戻るなんて事になったら?」
呆れたように手を上げて肩をすくめる高天原に、俺は最後の最後にこう言ったのだ。
「はっ、そん時はそん時だ。…それに、私利私欲にまみれて自分の利益や欲望の為にしか怒れねえ奴は、それこそ生きてる価値ねえよ。誰かの為に怒れてこそ、初めて生きてる理由が生まれるんだからな?」
「────ほんっと馬鹿。救いようの無い御人好しですね古林さんは」
人を幾度も馬鹿と罵った高天原のデコを、この後俺が何時もより強めにつついたのは、あまりにも当たり前で、ハラスメントだと騒がれる理由は無い筈である。
†††
「───この度は本当にありがとうございました。お陰様であれ以来、あの人達はすっかり大人しくなって、会社にも不倫関係がバレたのか、近々二人揃って辞めるかもなんて噂が流れています」
「それは良かったですね。これで早瀬さんはストレスなく育児に専念出来るって訳ですね」
「ええ、ありがとう佳澄ちゃん」
「今回ソイツは何もしてねえけどな?」
───後日、そろそろ産休に入る予定の早瀬洋子が、お礼の品を持って挨拶に訪れた。
「あら、そうなんですか? じゃあコチラの御菓子は先生だけに……」
「ちょっ、ちゃんとやったじゃないですか!? マタハラがどんな事か説明したり、ブチキレる古林さんを一生懸命止めたじゃないですか!?」
「生憎、マタハラがどんな事だと説明されたか全く覚えてねえ。色々忙しすぎてお前の話は全部忘れちまった」
「──────はあ?」
…………くすくすくす
玄関先にいる早瀬洋子は、ようやく肩の荷が下りたのか、反撃する「オルレアンの乙女」の姿を消して穏やかに笑っている。
「まあ、悪は退散しそうで良かったじゃねえか?」
「はい。これで産休後も気兼ねなく会社に向かえそうです」
キリよく一週間後に会社側の非を認める連絡を寄越した相手弁護士と合意書を交わし、示談金はこちらの言い値で成立したが、結局彼女の手元に残った金額は僅かであった。
それでも、そのお金でベビー用品をたくさん買うのだと息巻いているから、本当に母は強しといったところだ。
「……もう剣は握らなくても大丈夫そうか?」
「ふふっ、どうでしょうね? …お腹の子が産まれて成長して、それでこの子が誰かに何かを言われて泣いていた時には…もしかすると再び握る日が来るかも知れませんね?」
───等と、早瀬洋子はそんな変な質問に笑って答えてくれたのだが、そん時は頼むから別な事務所を頼ってくれねえかなって、ハイカロリーな依頼をこなした後の俺は、ヘトヘトになった身体と脳ミソでそう思ったのだった。
───マタハラ(マタニティハラスメント)とは、職場での妊娠・出産、育児休業の取得などを理由に、嫌がらせを受けたり不利益な扱いをされたりする事である。




