第27話「マタハラですね②」
白のカットソーの上に黒のサロペットを着こなし、ブラウン色の髪に緩くパーマを当てたボブカットの女性が、肩掛けバッグをソファーに置いて、膨らんだお腹を愛おしそうに触りながら俺の前で微笑んでいる。
「……ごめんなさいね、気を遣ってもらっちゃって」
「いいえ、妊娠中の方のカフェインの一日の摂取量はWHOなどでも300mg以下と推奨されていますし、お母さんが摂取したカフェインはお腹の赤ちゃんは上手に分解できませんからね。それに過剰摂取が続くと、低出生体重児や流産のリスクが高まると指摘されていますし、不眠や頻尿、胃痛などのマイナートラブルが起きやすくなるとも言われていますからね」
「ず、ずいぶん詳しいのね……」
「これくらい一般常識の範囲内ですよ。大したことないですって」
「そ、そうかしら?」
得意の知識を披露し、その笑顔を若干曇らせた高天原が用意したのはノンカフェインな健康茶のルイボスティーである。
買い物に出掛けた先でレジに着くと、入れた覚えのない商品が必ず2~3品はカゴの中に入っていて、「なんだコレは?」と横を見ると下手くそな口笛を吹いている奴が最近はよく見られる。
犯人は一人しかいないのに、誤魔化せると思ってるソイツの額をいつも店を出てから弾くのだが、意外とこうして役に立ってしまうから、あまりキツくは言えないのだった。
「……それで? 今日はそこのステルス購入癖のある奴と世間話をする為だけに訪れたのか? それならそれで構わねえが、どっか別の所でやってくれるか? 朝から一本も吸ってねえからいい加減肺が寂しがって仕方ねえんだが?」
「それは肺が悲鳴を上げてるんですよ…」
テレビ側のテーブルにある煙草をチラ見しながら、依頼人である女性に話す。
相変わらず離れて座る高天原は呆れたように溜め息を吐いたが、そんな苛立つ俺を見ても目を逸らさずに、お腹に小さな命を宿した女性は穏やかに笑って答えたのだ。
「申し遅れました弁護士さん。私の名前は早瀬洋子と言って、配送業に従事する夫と二人暮らしの、小さな保険会社に勤める29歳のしがないOLでございます。今日は来月から産休に入るにあたって同僚から嫌味を言われ、上司に相談した際にも心ない言葉を言われた為ご相談に参りました」
静かな中にも強さがあって、理路整然と話す早瀬洋子という女性には、俺達にはない自己犠牲と行動力、そして逆境への適応力が、昨日教えて貰ったホルモンとやらの働きによって、強く備わっているようにも見えた。
「マタハラ…『マタニティハラスメント』ですね」
「まーた、ハラスメントかよ……」
「なかなか笑えない冗談ですね古林さん。勇気は認めますが色々と最低です」
くすり……
───等と、昨日俺に教授した高天原は顎に手を添えて難しい顔をしながら首を振っていたのだが、そんな冗談を言うつもりではなかった俺の台詞を、一つ年下の早瀬洋子は穏やかに笑って許してくれたのだった。
†††
「嫌味ってどんな事を言われたのですか…?」
「……うーん、例えば『産休とってもいいけど、皆の仕事が増えること忘れないでね』とか『忙しい時期に妊娠なんかして、迷惑になると思わないの?』とかかしら…言ってくるのは結婚も妊娠もした事ないアラフィフの先輩一人だけなんだけど、あまりにも毎日そんな事ばっかり言ってくるから頭きちゃって、我慢できずに上司に相談したら『まあ、彼女の仕事が増えて大変なのは本当だし、言いたくなる気持ちも少しは分かるかな』って、挙げ句の果てに『どうしても嫌なら別な仕事を探すっていう選択肢もあると思うよ心機一転の意味も含めてさ…』なーんて言うのよ? あの薄ら眼鏡…前々から怪しいと思ってたけど、高嶋さんの事庇いやがったのよ!」
「え、えと…その高嶋さんとは?」
「少し目を離すとトイレに行ってお色直しばっかりしてる、あの厚化粧女よ!」
「は、はあ……」
珍しく高天原が圧されている構図は、第三者視点から見てて少し面白く、思わず噴き出しそうになった。
ハラスメントの事になると何時も弁護士の俺を差し置いて、調書役放り投げて、聞き出し役に回っていたその罰が当たったんだと、たじろぐ高天原を見て「ザマアミロ」と心の中で舌を出した。
「……何が面白いんですか?」
「別に? 何でそう思う?」
「肩が震えてるんですよ肩が、そんな風に笑うんだったら古林さんが彼女の話聞いて下さいよ。自分は調書役に回りますから!」
「別に俺はお前に『話を聞いてやれ』なんて一言も言ってねえだろうが」
フンッとそっぽを向いて、視線を合わせなくなった高天原を見て「やっぱりコイツは本当に元男性だったのかも知れねえな」と、目の前の女性にタジタジな姿から尻に敷かれる旦那的な未来を想像して、更に噴き出しそうになっちまった。
────ギュムッ
「いてっ」
「早く話を聞いてあげて下さい」
離れた位置から俺の太腿をつねった高天原を見て、目の前の女性はまたもクスリと笑っていた。
†††
俺と同い年の旦那が配送業をやってると言ってたから、早瀬洋子はこんなキツい目付きにも慣れっこだったようで「もっと強面の方を知っていますから」と穏やかに言い、更なる肝の据わり方を見せた。
「───まあ、コイツが言ったマタハラというのは、俺はそこまでハラスメントに詳しくねえから置いておいて、妊娠や出産、育児を機に、正社員からパートになる等の降格や、労働契約内容の変更を強要してきたり、会社が直接的に解雇するような事をしなくても、自ら退職をするような状況に追い込んだりする事例は原則として労働基準法違反となる」
「はい」
「また、産後8週間経過していない女性を本人の意思に拘わらず働かせる事も違法だ。本人が希望して、尚且つ働いても支障がないという医師の判断があれば問題とならないがな」
「なるほど」
常人なら面倒臭えと思うだろう内容をツラツラ喋っても目の前の女性は一切目を逸らさない。
一つ一つ丁寧に頷いて、相談内容から少し外れた話にまで熱心に聞き入ってくれた。
「労働基準法第65条第一項では『使用者は、6週間以内に出産する予定の女性が休業を請求した場合においては、その者を就業させてはならない』とされていて、続く第二項でも『使用者は、産後8週間を経過しない女性を就業させてはならない。ただし産後6週間を経過した女性が請求した場合において、その者について医師が支障がないと認めた業務に就かせることは差し支えない』と定められている。つまりさっき俺が言った事はここに引っ掛かってくるって訳だ」
「えと、法律ですか?」
「一応ここは法律事務所だからな、男女ペアのお笑いを披露するような漫才劇場ではねえよ」
「男男ですけどね」
「おい、黙って調書取ってろ出しゃばり屋!」
……くすくすくす
「笑われてますよ古林さん」
「俺じゃねえお前がな?」
「─────はあ?」
「……あ、あの…くすくす。ど、どっちでも良いんで、とにかく話を進めてくれますか?……くすくす」
母は強し、精神年齢的には俺達の方が上な筈なのに、すっかり場を支配されちまって、高天原と二人で目を合わせた後、互いにツンと目を背け、俺は再び膝の上で手を組んで前傾姿勢で話を続ける。
「……また、男女雇用機会均等法第9条でも、妊娠・出産を理由とする不利益取り扱いは禁止と定められている」
「不利益取り扱いですか?」
「労働者が法律で認められた権利や、育児休業や有給休暇の取得など、妊娠・出産を行った事などを理由に、会社が解雇や減給など、労働者の権利の行使を妨げるような扱いをする事を不利益取扱いと言う。…まあ簡単に言えば、正当な理由に対し不当な処遇を行うことで、経済的な不利益を相手に与えるって意味だ」
「じゃあ、あの女と薄ら眼鏡はブタ箱行き決定という事ですね」
「……そこまでは言ってねえ。言葉が強すぎるから止めてくれ」
「あ、失礼しました。つい」
母になると無敵にまでなっちまうのか?等の疑問が浮かんだが、あれから黙々と調書に専念している高天原を見て、仕方なく俺も最後の説明に専念する事にした。
「───ゴホンッ。同時にこれは育児介護休業法第11条でも定められていてな……厚生労働省令で定める言動により、当該女性労働者の就業環境が害される事のないよう、女性労働者からの相談に適切に対応する為の必要な体制や整備、雇用管理上必要な措置を、会社側は講じなければならない決まりがある」
「ええ」
「更に同法第25条第一項、第二項でも同じような事が定められていて、アンタが相談してきたマタハラってのは、意外と幅広い法律に引っ掛かるようになっているんだ」
「─────なるほど」
「労働基準法、男女雇用機会均等法、そしていま述べた育児介護休業法…最低でもこの三つの法律に触れていると思うんだが…どうする? いざ戦うとなれば時間も費用も結構かかるぞ? ストレスでお腹の子に負担が掛かるかも知れねえ? それを踏まえた上で、『戦う・逃げる・我慢する』この三つの選択肢からアンタが選ぶのはどれだ?」
「そ、それはー……」
「それは勿論『戦う』ですよね、早瀬さん!!」
「────え、ええ当たり前よ! 我慢して逃げる方がストレスだわ!」
───ガタンッ
これまで大人しく調書していた高天原だったが、最後の最後に横からヒョイッと、でけえ爆弾を投下してきやがった。
立ち上がった高天原に釣られて、同じように拳を握って立ち上がった早瀬洋子のお腹がちょうど目線の位置に来ていて、超自然現象なんてあまり信じてない俺であるが、不覚にもドクンッと、中にいる子供がそんな母親を鼓舞しているように見えたのだ。
『頑張れ母ちゃん』『負けるなママ』ってな?
あり得ねえ話かも知れねえけど、確かに聞こえちまったんだから仕方ねえ。
「……ったく、一応は俺を代理人として立てた示談交渉がお勧めだ。だがそれで合意解決した場合、アンタの慰謝料は事案の悪質性や被害の程度によって異なるが、一般的な相場で換算すると凡そ20万円〜100万円程度となる。しかし俺への着手金と成功報酬を合わせるとアンタの手元に残る金額は殆どプラマイゼロ、もしくはマイナスだ。…それでも良いのか?」
現時点では嫌がらせのみの場合であると考えられるから、得られる金額は多く見積もっても50万円程度で本当にプラマイゼロだ。
恐らく退職を促すような発言をした上司も白ばっくれるだろうし、会社側も「本人達に事情を確認した所そのような事実はなかった」で押し通すつもりだろう。
─────だが…
「問題ありません。私が欲しいのはお金ではありませんから、ただお腹にいるこの子に『戦った私がいるよ』と伝えたいだけですから。言葉で伝わらなくても姿で、苦境に負けず立ち向かう勇気を、困難や絶望の中でも揺るがぬ強い信念を、いつか産まれてくるこの子に、今の内から身を以て教えてあげたいのです」
───と、令和のジャンヌ・ダルクは剣を持って小さな命の為に戦う勇気を見せた。
その覇気に魅せられて、出来るなら火刑で苦しむような最期にさせたくないなと思った俺は、ついつい彼女を護るような盾を差し出しちまった。
「しょうがねえ、格安でやってやるよ。ただし結果は期待すんな、何せ俺は勝率10%未満の三流弁護士なんだからよ?」
「くすっ…はい是非お願いします。弁護士.COMEで評判のハラスメントにお強いお二人に」
「……え? 自分もですか?」
「当たり前だろ、手伝えよ。発破を掛けたのはテメエなんだからよ?」
「うっ…はい」
……きっとこん時の俺はどうかしていたんだろう。
チラリと目が合った高天原に、思わず拳を向けちまって、立ってたアイツが恥ずかしそうにコツン…と、拳を合わせるまで待っていたんだから…
気分はきっと、フランス百年戦争の真っ只中にいたに違いない。
To be continued once more...




