第26話「マタハラですね➀」
母親ってのは、子供にとって一番最初に深く関わる大きな存在らしい。
無条件の愛を与えてくれて、安心感や自己肯定感を育む中心的な役割を果たしてくれて、十月十日お腹に宿して産むという身体的な繋がりから、心理的にも深い一体感を持つ事が多いのだと、今観てるドラマでも語られている。
「その無条件な愛情も、医学的には『オキシトシン』と呼ばれるホルモンが、出産時や授乳、スキンシップの際に多く分泌されることで『愛おしい』『お世話したい』と感じる母性本能を呼び起こすから出来ると言われていますけどね」
「オキシトシン? なんだそりゃ?」
「オキシトシンは、脳の視床下部で合成され、下垂体後葉などから分泌される9個のアミノ酸からなる神経伝達物質です。別名『幸せホルモン』や『愛情ホルモン』とも呼ばれていて、心身の健康や人との絆に深く関わってくることで知られています」
救急車内での急な出産に立ち会った主人公が何かを発する前に、産まれてきた赤ん坊を抱きかかえながら感動的な台詞を発する前に、珍しく読書ではなく隣でテレビを観てた高天原が、水を差すようにそんな解説を始めてきやがった。
「ミノとかハツとかレバーじゃなくてか?」
仕方なく乗ってやって、涙を流す女性医師を横目に、ソファーの隅に座る高天原に会話の続きを促す。
「……焼肉から離れて下さいよ弁護士先生。医学的に確立しているオキシトシンの主な働きは、出産時における子宮平滑筋の収縮促進、授乳時における母乳を押し出す射乳反射の促進の二つが挙げられます。更に研究されて分かっている事を挙げますと、ストレスや不安の緩和、リラックス効果など、信頼感や親密感、社会的な絆の形成を支える重要な働きをしていると言われていますね」
「いわゆる幸せの特効薬みたいな感じか…?」
「そのような万能薬では無いですけどね。陣痛促進剤などの医療用薬品はありますが、過剰に摂取すれば身体的リスクを伴いますし、類似した承認されていない怪しげな薬を使用すれば更なる危険性が伴います。まあ女性にそれほど縁がない古林さんが使いたいと言うなら止めませんけど。ええ、自分は止めませんけども?」
「……何で二回言った?」
「さあ? 御自身の胸に聞かれてみては?」
パジャマ姿で膝を抱え、人差し指を上げながら話す高天原は、ようやく三日前の夜の出来事を忘れてきたようだった。
人の肩に寄りかかって、二時間以上絡み続け、言いたい事を一通り話し終わったコイツは、あろうことかそのまま寝息を立て始めやがった。
声を掛けようかと思ったが、通常より多めのアルコール量を摂取していた俺は、坊主の念仏より長く、数える羊がいなくなるほど長い愚痴を聞かされた後だった為、 起こすのも抱えて移動させるのも面倒臭くなって、そのまま高天原の頭を枕代わりにして眠ってしまったのだ。
「……なあ、ところで三日前の事なんだがー……」
「その話は止めて下さいって言ってるでしょうが!!」
朝起きた時と同じように顔を真っ赤にさせながら高天原は吠える。
せっかく忘れていた記憶を掘り起こした俺も悪いとは思うが、意外と毎週楽しみにしていたドラマのクライマックスシーンを潰された腹いせだと考えてくれると有難い。
ドラマでは何とか危機を乗り越えた女医に向かって、イケメンの救急隊員が「おつかれさん」とか言って、ガードレールに寄り掛かりながら、どっかの誰かの好みと同じブラックの缶コーヒーを路上で手渡していたのだった。
†††
そんな小難しい説明を受けた次の日の午後の事である。
将来的に何かある訳でもなく、そんな予定がある訳でもない俺達が、柄にもなく母性本能について語り合った次の日の出来事である。
「最近、御客さん来ませんねえ…この前相談に訪れた相良さんも弁護士.COMEに書き込んでくれたというのに不思議です」
「元々こんなもんだ。たまに来る客の相談を受けては、仕方なくする事になった示談交渉を失敗したり成功したり、失敗したり失敗したりの繰り返しで細々と、大家の血管が切れるギリギリの家賃を支払って、何とかこれまで生き延びてきたんだ。……それに、この前の依頼人が去ってからまだ一週間だろう? 伸ばした首を引っ込めるのはまだ全然早すぎるんじゃねえのか?」
「それはそうですけど…あの、なんか失敗の数多くないですか?」
「この前はマジで十回に一回あるか無いかの成功例だった。毎回あんなに上手く行ってたら家賃なんか滞納してねえし、こんな曰く付きの物件すぐに出て行くに決まってんだろ?」
窓の外に流れる秋風をボンヤリ眺めながら、別なテーブルで読書する高天原と話す。
月一回あるか無いかの面倒臭え示談交渉を引き受けながら、何とかギリギリ生活してきた俺は、キリンの首より短い高天原にピシャリと釘を刺した。
「あ、あのそれ! ずっと気になってたんですけど、このビルが曰く付きって言われる理由は何なんですか? マスターに聞いても首を振るだけだし、織音さんも『ひょっひょっひょっ』と嗤うだけだし、誰も何も教えてくれないんですが…」
「何だ? まだ何も知らなかったのか?」
「ちょっと、意味ありげな皆さんの様子が怖くて、その先はなかなか踏み込みづらくて……」
「もしかして幽霊苦手な口か?」
「ええ、恥ずかしながら……って、待って下さい今なんて仰いました!?」
────ピンポーン、ピンポーン、ピンポー…ン
噂をすれば影が差す、噂を言えば主が来る。
ビビリの高天原が呼び込んだ者は果たして……
「……も、ももも、もしかして幽霊ですか?」
「はっ、バーカ幽霊がわざわざチャイムなんか鳴らすかよ、客だよ客。お待ちかねの迷える子羊が満を持してやって来たんだよ…ほれ、何も怖い事ねえから行って対応してこい。ハルカスより首の短いせっかちなキリンさんよお?」
「だ、誰が天○寺動物園で飼育されてるキリンですか!? 大体にしてあのハルカスは、担当者以外を見つけて警戒し、首を水平に曲げてじーっと眺めていたからそう見えただけで、実際には首が長かったじゃないですか!」
────折角のホラーな展開に行きそうだった所であるが、残念ながらそれは久しぶりに訪れた迷える子羊によって、次回への持ち越しとなる。
首の短いキリンさんが、その話を忘れた頃にきっと謎は解ける筈だ。
「……まったくもう。はいはい今開けますよー」
ソファーから立ち上がって、狭い廊下へパタパタとスリッパを鳴らして歩いて行った高天原は、今日も何時もと同じ、もはや見慣れた制服姿である。
───ガチャリ
「はーい、古林春信法律事務所の助手、高天原佳澄です。今日はいったいどのようなご相談でしょうかー……って、えええ?」
「あ、あの初めましてこんにちは。実は私いま妊娠していまして…きょ、今日は今度産休に入るにあたって会社側の対応に少し不満があってご相談に参りましー……って、えええ? 女子高生!?」
「こ、こここ、古林さーん、妊婦さんです。妊婦さんの相談者がいらっしゃいました! タバコは絶対に吸わないで下さいねー!」
いくら噂をすれば主が来るって言っても、あまりにもタイミング良すぎだろうがって思った俺は、実は朝からまだ一本も吸っていなかったタバコに危うく手を伸ばしそうになり、すんでの所で手を止めて、握った拳でソファーを殴りつけた。
「……あーくそ、何だか面倒臭え予感がプンプンしやがるぜ」
仰け反りながら天井を見上げ、そんな愚痴を煙の代わりに吐き出す。
玄関口から聞こえてくる女同士のキャイキャイした会話が、異様に耳障りに感じる。
「────え、もしかしてコスプレ? それともここの制服? だとしたら来る場所間違えたかしら?」
「コスプレでも無いですし、制服でも無いですし、コンカフェ等でも無いので大丈夫です。ここは歴とした法律事務所なので御安心ください。まあ上司はかなり変わった人ではありますが……」
さて、久しぶりに訪れた依頼人は、果たしてすんなり俺の言う事を聞いて引き下がってくれるのだろうか…
正解はきっと「母は強し」というからには、戦う気満々なのだろうなと、まだ見ぬ依頼人の顔を浮かべながらそう思ったのだった。
……To Be Continued。




