第15話「ヌーハラですね」
「高天原ラーメン好きか…?」
「嫌いな人なんているのでしょうか?」
「だよな……」
「何ですか? もしかしてラーメンの番組見てたから急に食べたくなったとか、そんな子供みたいな理由じゃないですよね?」
「飯…喰いに行こうぜ……」
お昼時、うちの質素な冷蔵庫の中身じゃ毎食ご飯と卵焼きと味噌汁ばかりになってしまうから、今日は何をウーバーで頼もうかボンヤリと考えてた時間帯に、たまたまテレビで特集されていた家系ラーメンを見て、無性に喰いたくなった俺は、隣で読書していた高天原を何気なく誘ってみた。
「自分、家系はしょっぱ過ぎて駄目ですからね」
「……何でだよ? あの塩っ辛いスープにヒタヒタに浸かったシナシナの海苔をご飯に乗っけて喰うのが最高なんだろうが」
「古林さん、ご飯おかわり自由の店があったら何杯でもイケる人ですか?」
「ラーメン一杯で最高で五杯は喰える」
「それで帰ってきてドカ食い気絶すると…」
「あのどうしようもねえ満腹感から、何もかも忘れてグッスリと眠れる感覚がたまんねえんだよなぁ…不思議だよなぁ…あれ」
「……それ、血糖値スパイク起こしてるだけですからね」
相変わらずソファーの隅に寄って膝を立てながら読書をしている高天原であるが、何故かあの山田加奈子の家に遊びに行った時以降、手に持つ六法全書を捲る回数が極端に減った。
話し掛ければ矢を打つように次々と言葉が返ってくるのだが、コチラから声を掛けなければ終始無言であり、時おり虚空を見つめては何やら考え事をしているような雰囲気を漂わせているのだ。
「血糖値スパイク? 何だそりゃ?」
「おや、合格率40%台の司法試験を突破した弁護士先生の癖に御存知でない?」
「うるせえよ、いいから教えろ」
パタンと本を閉じた高天原は六法全書を脇に置いて、そのまま膝を抱えて俺を試すような目付きで下から覗いてきた。
「血糖値スパイクとは別名『食後高血糖』の事で、食事を終えた後に血糖値が急激に上がり、その反動で急激に下がるジェットコースターのような乱高下に抗えず、食後一時間半ほど強い眠気やだるさ、集中力の低下やイライラ等の症状が現れる事を言うのです」
「つまり俺の『嫌な事全部忘れてグッスリ安眠』は、それによるものだと?」
「まあ、そうですね」
コクンと頷いた高天原は、またいつものように人差し指を上げて、面倒臭え話をし始めた。
さっきまで上の空で空返事ばかりしていたのに、知識を披露するとなると、急に鼻高々と自慢気に語り出すから、コイツにはいつも講釈垂れやすいような話を振っておけば、ちっとは溜め息の数も減るんじゃねえかなって思った。
「通常の健康診断では空腹時血糖値やHbA1cが正常でも、食後だけ血糖値が140mg/dL以上へ急上昇している危険な状態です。巷で流行っているドカ食い気絶部などは本来なら、病院の先生方から見れば患者が勝手に自分自身を殺しにかかってると言われても差し支えない愚かな行為なのです」
「普通に腹いっぱい飯喰ってるだけなのにか? 人間が食事をするのは生命維持や身体活動に必要なエネルギーを体内で自給できねえから、外から補給する必要があると俺は習ったんだが?」
俺の質問にクスリと笑った高天原は、更に鼻高々と、ピノキオも真っ青なぐれえに鼻を伸ばして語り続ける。
「食べる順番にもよるのですよ。始めに野菜、次に海藻やキノコ等の食物繊維、それから肉や魚などのタンパク質を頂いてから、ご飯やパン等の炭水化物を順番に口に運ぶのです。早食いを避け、よく噛んでゆっくりと、15〜20分以上かけて食べると血糖値のピークがなだらかになります。他には主食を低GIな食品に変える等の方法もありますが、もしそれが出来ないのであれば、食後の軽い運動を常に心掛けると筋肉が糖を消費して急上昇を抑えられるのです」
「……お前は俺の母ちゃんか? それとも医者か?」
「病院の先生やお母さんの言うことは素直に聞くものですよ古林さん? そんなの関係ねえって馬鹿にしてれば将来必ず後悔する日が来ます。会社の健康診断で引っ掛かっても『きっとまだ大丈夫』の気持ちで再検査を受けに行った時に、顔を真っ青にさせて帰る未来が殆どですから…」
───そう言ってから、静かに指を下げた高天原は、今度は床を見て何かを考え込むように蹲り、そのまま黙り込んじまった。
ついさっきまで虚空を見つめたり、窓の外をぼんやり眺めたりしていたのに、灰色の床と向き合う高天原には、いいから大人しく六法全書でも読んどけよって、ついつい言いたくなっちまう。
「はあぁ…何かあったのかよ? その、お前が工場で働いていた時なんかに…?」
「……何もないですよ、何も。ただ元気だった年上の部下がある日、会社の健康診断で引っ掛かって、再検査を受けた次の日の帰りに駐車場で『今までありがとうございました』って言葉を自分にだけ残して、涙ぐみながらひっそりと辞めていっただけですから……」
「病気が見つかったのか?」
「風の噂でステージ5の糖尿病だったと聞きました。色々な会社を経験し中途採用で入った彼は、健康診断を受ける機会を何年も逃し続けて、病気が見つかった時には既に人工透析をしなければ生きていけない状態だったそうです……時おり具合を悪そうにはしていたのですが、まさかそこまでとは…と。もっと早くに気付いてやれなかった自分を激しく責めた記憶があります…」
「そっか…」
「ええ……」
……会社勤めの経験がねえ俺にはよく分からねえが、未だ半信半疑である高天原の話が本当ならば、世の中には訳ありで前職を辞めて中途採用を繰り返す奴等が結構いるって聞くから、40代50代の部下がいたっておかしな話ではない。
そんな奴等を必死に束ねてただろう高天原は、きっとその優しすぎる性格から過剰に感情移入してしまっていたに違いなくて、きっとどんな奴が相手でも必死に良いところを探していたんだろうなぁって、勝手ながらに想像しちまうんだ……
「偏った食生活を続けていけば、調子に乗って未来を考えない食事ばかりをし続ければ、急変動した血糖が血管の内側を傷つけ、何れは彼のように糖尿病や動脈硬化の進行、更には心筋梗塞や脳卒中などのリスクを高めてしまうのです……」
「結構おっかねえんだな…」
「稀にならない人もいますけどね、鉄腕アトモみたいな、強化プラスチックで造られてるんじゃないかみたいな頑丈な人もいますが、それは本当に稀の稀です。自分達はどうしたって10万馬力で働き続ける事は出来ませんから、せいぜい0.1〜0.2馬力を持続的に出すだけで精一杯です」
「そりゃそうだ…」
「ええ、ですから古林さんも気を付けて下さいね」
───そう言って、ようやく顔を上げた高天原は、何かを思い出したかのようにテレビ画面の向こうの壁を見ながら眉を下げてクスリと笑った。
きっと、その年上の後輩とやらの思い出を浮かべてるのだろうが、完全な部外者である俺はそこに横入りする資格はねえから、その綺麗な横顔を静かに眺める事しか出来なかった。
ぐうぅぅぅー……
「……あのさ高天原、取り敢えず明日から食生活には気を付けるから、今日のところは一緒にラーメン喰いにいかねえか? もちろん俺の奢りで」
空気を読めねえ腹の虫に急かされて、仕方なく、本当に仕方なく高天原を誘った俺に対し……
「……仕方ないですね今日だけですよ」
───と、物憂げな女子高生は小さく笑ったのだった。
†††
ズ、ズルズルズルズルズルズルー……
「……あのですね古林さん」
「あんだよ? ……ズルズル、食事中に話し掛けんなよマナー違反だぞ? ……ズルズルズル」
それから近所に出来たばかりの「てつわん家」という家系ラーメン屋に向かった俺は、私服姿の高天原と並んでカウンター席に座り、30分前から鳴り止まなかった腹の虫を治める為、表面に鶏油が張った黄金色のスープの下に沈む麺を勢いよく啜っていた。
ズルズルズルズルズルズルズルッー……
「ご立派にマナー違反だとか指摘する前に『ヌーハラ』って言葉を知っていますか?」
「ヌーハラ? 何だそりゃ? ズルズルズル」
「正式には『ヌードルハラスメント』と言ってですね、日本人がラーメンやうどん等の麺類をすする際に出すズルズルという音が、外国籍の人や敏感な周囲の人に不快感や精神的苦痛を与える事を言うのですが……」
ズルズルズルズル、ズルズルズルズルズルー……
「だからなんだ? ラーメン屋に来てるのにそんな事気にする奴はいねえだろう? 飯喰ってる時にまでハラスメント持ち出すんじゃねえ、折角の飯が不味くなる」
「……いや、ですからね? 自分が何を言いたいのかといいますと、今一番被害を被っているのは誰かって話でー……」
「うるせえ、いいからお前も黙って喰え。ほれ俺の煮卵一個やるからよ、この黄金のスープに絡んだ麺を熱々のうちに早く啜れよハラスメント馬鹿」
────ポチャンッ
「───あ、ちょっ、なに勝手に!?」
「あんだよ? 素直に喜べよ? 俺のトッピング代100円、半分やったんだぞ?」
「で、出所は一緒ですし…しかも食べかけじゃないですか!?」
「なに恥ずかしがってんだよ? 元は同じ男性なんだろ?」
「───で、ですが…」
……こん時の高天原がどうして耳を赤くして固まっていたのか俺にはよく分からなかったが、何故かその後は一言も話さなくなっちまって、暫くスープと睨めっこした後、意を決したようにチュルチュルと薄い唇でラーメンを啜っていたのだった。




