第9話「スモハラですね」
───最近、高天原の様子が少しおかしい。
「なあ、あのさ…」
「は、はい。何でしょう?」
「……何でそんなソファーの端に座ってんだ?」
「ベ、別に自分が何処に座ろうと勝手じゃないですか」
「いや、そうなんだけども…」
ポツポツポツと、窓を打つ雨が毎日のように続く中で、特に外出する予定もない俺は、こうして寛ぎスペースのソファーの上からテレビを眺める日々を重ねているのだが、その代わり映えしない風景の中に、3日ほど前から不思議な違和感が混ざり込んできた。
「ぶっちゃけ、俺なんか嫌われるような事したか?」
「……してないですよ」
「タバコの匂い、実は嫌だったりするのか?」
「……副流煙は慣れっこですから、別に気にならないです」
───等と、この高天原は俺の自虐的な質問に「そんな事はない」と首を振るのだが、じゃあいったい何故、これまで逆にこっちが意識してしまうくらい隣にピッタリ座ってた奴が、どんな心境の変化があってあんな隅っこに行ってしまうのか……
ソファーの縁に身体を寄せて、膝を抱えながら溜め息を繰り返す加湿器みてえなシケた面の奴に、これ以上湿度を上げないでくれという想いを込めながら聞いてみた。
「なんか悩み事があんなら聞くぞ?」
「……何度言っても自分の事を正確に理解しようとしない古林さんに、相談する事なんて1つもないです」
「おい、今度は俺から蒸気が溢れそうなんだが…」
「ヤカンみたいにピーピーですか? やめて下さいね、これ以上部屋の湿度を上げるのは」
「テメエ……」
減らず口は一向に変わってないのに、態度はこれまでと丸っきり違う。
この3日間ずっとこんな遣り取りばっかりで、これ以上論争しても無駄だと悟った俺は、灰色な空の景色に誘われるように、天井を見上げながら呆れ果てて白い煙を吐き出した。
「あのですね、嫌ではないのですが…それも相手によっては立派なハラスメントに該当するという事を覚えておいた方がいいですよ?」
「路上でもねえし、禁煙席でもねえし、学校や病院、児童福祉施設などの敷地内禁煙の場所でもねえんだから良いだろうが」
「〝相手が嫌がったら〟の場合ですよ弁護士さん」
「法律違反をしてる訳でもねえのにか?」
「そこがハラスメントと法律の難しい境目なんですよね…ハラスメントは『不快感や苦痛を与える嫌がらせ行為』全般を指すのに対し、法律は『社会秩序や労働環境を守るための公的なルール』を指しているのですから、ハラスメントを理由に相手を訴える場合、単に『ハラスメントを受けた』と主張するだけでは足りず、どの法律に違反しているかを明確にする必要があるのですよね」
相変わらずテレビの画面をボーッと眺めながらツラツラ話す高天原は、心なしか少しだけ以前のような調子が戻ってきたように感じる。
仕方なく身に付けた知識だと言っていたが、やはりコイツにはハラスメントという話題はカンフル剤として必要なようだった。
「……まあ確かに、全てが法で裁ける訳ではねえから、だからハラスメントは面倒臭えんだけどな」
「年々厳しくはなっていますが、未だに正当に訴える事が出来るのは労働施策総合推進法に触れるものと、男女雇用機会均等法と育児介護休業法に触れるものだけですからね…」
弁護士顔負けの知識を披露する高天原は、きっと歩むべき道を間違ったんじゃねえかなって思う。
まだ若いからこれからなのかもしれねえが、しかしもし本当に、コイツの中身がオジサンだった場合を考えると、俺と同じ大学に行って、共に勉学に励んでいた方が絶対良かったんじゃないかと思えてくるのだ。
「因みに、今の古林さんが行なっている行為は『スモークハラスメント』と言って、巷ではスモハラだ等と、若い世代に略して呼ばれている事で有名です」
「……聞いたことねえぞ、どこの巷だ?」
「───具体例を挙げますと、会議室や車内などの密室で非喫煙者の存在を無視してタバコを吸った場合や、または上司が部下に喫煙を強要した場合だったり、喫煙所への同行を無理矢理迫ったりする例があります。更には喫煙後に戻ってきた際の衣服や髪についた強い臭いで相手に不快感を与える事や、飲み会の席などで非喫煙者の近くで喫煙を続ける行為も、このスモハラに該当するのです」
「だから、どこの巷だっての」
「一応日本です。引きこもりの古林さんには少し難しいお話でしたかね?」
「弁護士舐めんなクソッタレ」
「───ふふっ、すみません」
いけしゃあしゃあと話す高天原は、ようやく元の調子が戻ってきたみたいで、膝を抱えたまま人差し指を上げて、軽く口角を上げてニヤリと怪しく笑って俺を見た。
「……ちっ、恐らくそのスモハラだとか言うやつは、2020年に施行された改正健康増進法に纏わるやつの事を言ってるんだろ?」
「おや、御存知でしたか」
「だから舐めんなっての、職場での受動喫煙対策や分煙の徹底が事業者の責務となって、喫煙専用室の設置や就業時間中の禁煙ルールも厳しくなって、更には周囲への配慮を促す社内研修の実施がその年の四月に有効とされるようになった事ぐらい…弁護士なら誰だって知ってるっての!」
一応、法的な知識は身に付けてはいるものの、端から量が多過ぎて、覚えるのが面倒臭えと考えてる俺の頭には、ハラスメントの名称までは詳しくは入っていなかった。
だから、この高天原に馬鹿にされるのも仕方ないのであるが……
───ズイッ
「───そう! 正しくその通りですね。しかしその一方で、非喫煙者が喫煙者を過度に責める『逆スモハラ』にも注意が必要とされ、双方が配慮できる環境づくりが今の世の中では最も重要視されているんですよ!」
「……っ出たよ逆、そんなんがあるからハラスメントってやつは更に面倒臭くなるんだ」
───ズズイッ
「その回答には概ね同意です。なんだ、ちゃんと分かってるじゃないですか古林さん! ハラスメントの真髄なるものを!!」
「……お、おう。一応弁護士だからな?」
────ズズズイッ
「ふむふむふむふむ、素晴らしい! 実に素晴らしいですよ古林さん!」
「……あ、あのよ」
「何ですか!!」
「……近えよ、少しな…」
「───え?」
急に元気を取り戻した高天原は、ソファーの上を四つ足で這いずりながら、興味のある話に惹かれ無意識にコッチに移動してきてた。
流石に近過ぎると思い、やんわりと注意をしたのだが、細い人差し指を俺に向けていた高天原はそれを聞いて、大きな瞳を見開いたまま呼吸もせずに硬直してしまった。
「「…………………………」」
……見つめ合うこと数分、いや正確には1分も経過してなかったかもしれねえが、とにかく俺にはその変な時間がやたらと長く感じられた。
「……す、すみません」
「……いや、こっちこそ。ヤニ臭くなかったか」
「以前の職場で慣れてるので、そこまでは……」
「そっか……」
「は、ははははいぃー……」
────ズザザザザザッッ
どうやらハラスメントに該当しなかったらしい俺の口臭であるが、しかし次の瞬間には後退りしてソファーの影に隠れちまった高天原を見て、怯えた猫のように縁から顔を出してコッチを覗いている姿を見て……
「……明日から少し本数減らすかあ」
───と、髪の毛を逆立てながら顔を真っ赤にして威嚇する同居人に、これ以上嫌われたくない一心から、俺は柄にもない節煙宣言をしてしまったのだった。




