初夜―お兄ちゃん、わたし人間だよ
「やっと、出て行ったね」
マサトと真美が部屋を出て行くと、鮎がそう言って笑みを見せた。映画でよく見る魔法のように霧散して消えるのかと思ったら、普通にドアから出て行ったのは俺には少し意外だった。一体どうやって、この部屋に入っていたのか疑問は残るが、それも些細な問題にしか思えない。一方、あのデカ物はいつの間にか消えている。あれって、鮎の眷属? 確かにそう言ったよな。
「なあ、鮎、お前って……」
「人間だよ。少なくとも、お兄ちゃんにとっては。そうだよね? だって、わたし、お兄ちゃんのお嫁さんなんだから」
うん。分かった。もう何も聞かない。聞いても、今日の出来事を理解することは無理だ。ただ、俺の目の前に鮎がいる。それだけでいい。俺は、言葉の代わりに、鮎の体を抱き寄せて、その唇を奪った。
「俺、鮎を後悔させないように、命をかけて鮎を守る」
激しく舌を絡み合わせ、夢見心地のキスの余韻のまま、そう言い切る俺。
「だめよ、お兄ちゃん。そんなこと言っちゃ。お兄ちゃんを巻き込んでしまったのわたしだもの。マサトの言った通りだわ」
「今日起こった出来事、俺は全く理解出来ていない。あのマサトが言ったことも。でも、俺は今こうやって鮎を抱いている。今は、それだけでいいって思える」
「今はね」
ぽつりとそう言う鮎。
「うん……? 鮎。明日、本当にあいつらと会うつもりか?」
「そう。約束しちゃったもん」
「気が変わったって逃げ出せないのか?」
「無理だと思う。それに、そんなことしたら、お兄ちゃんが……」
「俺が?」
「お兄ちゃんには、もう反逆者としての烙印が押されているの。使徒に捕まったら、ただじゃ済まない、どころの話じゃないと思う」
「あのキョウメイなんたらって話か?」
「うん。共鳴増幅器。わたしも詳しくは知らないし、信じてもいなかったけど、巫女を監視するために身近な物、時には人にも仕掛けられるって話。あ、信じられないなら信じなくていいの」
「まあな。あんな事が起こった後では、神秘関連の話もあながち作り話とは思えなくなった。もちろん、全面的に信じるわけじゃないけど」
俺はそう言って、言葉を続けた。
「それで、俺は、そのなんたらが無力化されたから使徒に狙われるってわけか」
「そういうこと」
「じゃあさ、あいつらの言うことを信じて、あいつらについて行ったらどうなるんだ?」
「分からない。でも、一つだけ、わたしとお兄ちゃん、二人揃って行方不明ってことになると思う。前の姫神候補の兄妹同様。世間から抹消されちゃう」
物騒なことを言いながらも、鮎の吐く息は甘く、トロンとした表情を浮かべている。
「じゃあ、家には? 亜里沙は?」
俺の腕の中で、鮎は静かに首を横に振った。
「家には、もう帰れないよ」
「鮎。それを承知の上で、あいつらに合意したのか?」
「そういうこと。だって、わたしには、十八代目様より、お兄ちゃんの方が大切なの。お兄ちゃんだって、こうやって、わたしを選んだんでしょ? もう、わたしたち後戻り出来ないんだよ。お兄ちゃんは嫌? そんなの」
「もちろん、嫌じゃないけど……」
「それとも、わたしが姫神候補として見ず知らずの男達に妊娠させられた方がいいの?」
「そんなの許せるはずないだろ!」
「じゃあ、決まりね。お兄ちゃん」
鮎は俺の背中に腕を絡ませた。
その時、部屋のドアベルが鳴った。
俺が出てみると、真美だった。ホテルスタッフの服を着ている。
「ルームサービスよ。どうせ、まだ何も食べてないんでしょ。若くて、精力有り余っているからって、無理は駄目よ。ちゃんと休んで、食べて栄養つけなきゃ。安心して、今日は、あなたたちの邪魔する気は無いから」
真美は、二人分の夕食の乗った銀のプレートを置いて立ち去った。
「俺たち、監視されてるのかな? あの人たちに」
鮎と一緒に夕食のテーブルを囲みながら、俺はそう言った。
「でしょうね。わたし、構わないわ。お兄ちゃんと一緒なら」
どこまで見られているんだろう? 気にはなるが、気にしても仕方ないと思った。邪魔をしないと言う以上、いても、いなくても同じだ。
今日はあまりにも色々な事が起こり過ぎた。そして、もう俺たちの歩むべき世界が変わってしまっていることも理解するしかないのだろう。
順番にシャワーを浴びた後、部屋の中を全裸で歩く鮎の姿を俺は眺めていた。場違いにおどけて見せるいつもの鮎だ。衣服という虚飾を捨て、全てを曝け出すと、異性の裸体と言うより、何か神秘的な純真無垢な造形物のように思えた。美しい肌を持つ人間は繊細な生き物だ。こんな夜に、俺の狂暴な肉体で鮎の体を傷つけたくないと思った。
男と女として結ばれるのは、何もかも解決し、鮎の安全が確保出来てからでも遅くない。
今は、二人とも生まれたままの姿、二人きりのホテルの一室、非日常的な状況で、互いに異性としての肉体の特徴を曝け出したまま、不思議なほど自然に屈託の無い会話を交わす俺と鮎。子供の頃の事、旅先での思い出話し、喧嘩して二週間口をきかなかった後仲直りした時の事、俺が夢中になって鮎に呆れられた遊びの事、そんな会話に時間を忘れていた。いや、忘れようとしていた。
パジャマに身を包み、いつものようなおやすみの挨拶とキス。そして、同じベッドの中、一つの毬のように丸まった。まるで、元から不可分の存在であったかのように。体を触り火照った体温を確かめ合い、小鳥がついばみ合うように幾度となくキスを交わしたし、鮎の生乳房にも直に触れ、その豊かな弾力を手のひらでじっくり味わったりもした。相手の存在を確かめ合うだけ、遊びのような、おママごとの延長のような、それでいて、しっかり異性の肉体として意識した交わり。そうやって曖昧に戯れ合いながら、いつしか、俺は眠りに落ちていた。今はただ、鮎の温もりを感じているだけで幸せに思えた。非現実的なこの空間に存在するのが俺だけじゃないことを感じていたかった。明日のことなんて分からない。それは、いつだって同じだ……
夜半過ぎ、目の醒めた俺は、隣で静かな寝息を立てている鮎を残して、ベッドを抜け出していた。熱いシャワーを頭から浴びて、俺は、一旦冷静になって状況の整理に努めた。理解できない事が多過ぎる。ついさっきまで腕の中で鼓動を感じていた鮎が何者かさえ、分からなくなる自分がいる。
鮎は俺の妹だ。今ではむしろそう信じたいほどだ。たとえ父親が違っても、母親は同じはずだ。では、鮎が彼と呼ぶあの眷属は何者だ? 空想上の生き物にしか見えないが、俺は確かにこの目で見た。マサトと真美の慌てようからしても、相当にヤバい奴のようだし、俺にもそうとしか見えなかった。真美はこのビルごと消し飛ばすとか言っていた。そして、月の支配とは何だ? そんなものおとぎ話じゃなかったのか? それから、マサトと真美は、俺の体に一体何をしたんだ? 本当に、彼らを味方だと信じていいのか?
シャワー室から出ると、鮎は白いガウンをまとった姿で大きな窓から聖都の夜景を眺めていた。俺は、鮎の隣に立って、無言で彼女の腰を抱き寄せた。小柄で柔っこい、それでいて膨らむところはしっかり膨らんでいる俺の知っている鮎の体だ。
「ねえ、お兄ちゃん。こんなにいっぱい無数に見える灯りの下で、わたしたちみたいに愛し合っている人たちがたくさんいるんだよね。そう考えると凄いなって感心しちゃう」
鮎は、そう言って俺の方に向き直った。
「お兄ちゃん……、わたしが怖い?」
「どうして?」
「だって、お兄ちゃん……、ううん。見たでしょ。わたし、たぶん、人じゃないから」
「そんなの、大した問題じゃない」
俺は、そう口に出しながら、女としての自己主張をする鮎の胸を優しく揉んでいた。柔らかくて繊細な見た目で壊れやすそうに思えて、それでいて、中身はしっかりした芯があるような感触を手のひらに覚え込ませようとするかのよう。鮎は、もうそれを咎めようとはせず、唇を上向けてキスを求めた。
「わたし、怖いの。いつか、お兄ちゃんを、傷付けるかもしれない。なのに、わたし、お兄ちゃんが欲しいの。狂っちゃいそうなほど。ううん、もうとっくに狂っちゃってる」
長く静かな時を共有するかのようなキスの後、そう言う鮎。
「狂ってもいい。俺も一緒に狂ってやる。俺は、鮎の居場所になりたいんだ」
「うん……。お兄ちゃんを、信じるからね」
「なあ、鮎、あの、マサトと真美、本当に信じていいのか? 正直に言ってくれ。俺を使徒からかばいたいとか、そんなんじゃなくってさ」
「たぶんね」
「信じていいってことか? 鮎、はっきり答えろ。大切なことなんだ」
「信じるしかないって思う。だって、わたし、月の声、聞こえなくなったから」
「月の声? 今まで聞こえていたのか、そんなもの。そして、あいつらに何かされた後、聞こえなくなったってことか?」
「うん、そう。こんなに、長時間、聞こえないのは、初めて……」
「だから、鮎が言ってた月の見張りもなくなったかもしれないということか?」
「うん。だから、わたしたち、月から、逃げられるかも」
「分かった。俺も、あいつらを信じてみる。そうするしかないかもしれない」
窓の外では、すでに空が白み始めていた。もうすぐ俺たちの明日が始まる。鮎の温もりを感じたまま、俺はそう思った。そこにどんな未来が待っているのか。知るには、足を踏み出すしかない。
次回:お姉様って呼んでもいい
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