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(6)河口の町

 丘を越えると、色とりどりの屋根が重なるように連なった町が、ヴェラたちの視界に入ってきた。

 開拓村よりもずっと大きく、そして活気に満ちている。


 入口の守衛は、ぼんやりと立っているだけで、彼女たちの身なりに注意を払う様子もない。


「ようこそ、河口の町へ」


 気の抜けるような穏やかな声がかかり、ヴェラは拍子抜けしながらも、ごく当たり前の礼儀として背筋を伸ばし、優雅な会釈を返した。


「ええ、お世話になりますわ」


「お世話になります!」


 隣で、エリンが元気よく頭を下げた。

 守衛が「お、おう……?」と面食らったような顔をしたけれど、ヴェラはそれに気づかず、町への一歩を踏み出した。


 ――まだ気を抜くわけにはいかない。そう思いながら町へ踏み入った、その瞬間だった。

 鼻をくすぐる、暴力的なまでの匂いが流れてきた。炭火で焼いた魚と、焦げた甘いタレの香り。


 胃を直接掴んで揺さぶるようなその香りに、ヴェラの腹がぐうと盛大に鳴り響いた。


「……」


 ヴェラは無言で天を仰いだ。


「ヴェラ、お腹空いてるんだね」


 エリンが茶目っ気たっぷりに覗き込んでくる。ヴェラは頬が熱くなるのを自覚しながら、平静を装って咳払いを一つした。


「……仕方ないでしょう。もう何日も、まともな食事をしていないのだから」


「あはは、そうだね! 何か食べよう!」


 エリンの明るい声に救われた気がして、ヴェラも小さく微笑みを返した。


 ――けれど、すぐに胸の奥が冷える。

 お金がないのだ。開拓村の小屋に、有り金全部を置いてきてしまった。まさか、あんな形で夜逃げ同然に旅立つことになるとは思っていなかった。


 ヴェラが黙り込むと、エリンも彼女の視線の先に気づいたように、少しだけ眉を下げた。


「お腹は空いているけれど……やっぱり、無理かしらね」


 鼻腔をくすぐる匂いに抗いながらヴェラが呟いた、その時だった。


「なあ、よかったら昼を奢ってやろうか。その代わり――」


 声をかけてきたのは、漁師風の男だった。三十手前、日に焼けた顔に刻まれた笑い皺。見た目の無骨さに反して、声には意外なほど柔らかさがある。


 だが、ヴェラは即座に視線を鋭くした。


「……何が目的ですの?」


 睨むように問いかけると、男はすぐに両手を上げて笑った。


「いやいや、変な意味じゃないさ。あの定食屋、うちの母親の店でね。人手が足りなくて困ってるんだ。少しの間でいいから、手伝ってくれないかって話さ」


「私、やります!」


 エリンが元気よく手を挙げた。


「エリン?」


「だって、お腹空いたし! それに、酒場で働いたことあるし! きっと役に立てるよ」


 男は嬉しそうに笑った。


「助かるよ。雇ってた子が怪我してさ、戻るまでの間でいいんだ。よろしく頼むよ」


 連れて行かれたのは、海沿いの小さな食堂だった。炭火の香りに、魚の焼ける匂いが重なる。

 出されたまかないの定食は、どれも素朴で温かかった。エリンが幸せそうに頬張る姿に、ヴェラもようやく警戒を解き、一口、口に運んだ。


(……あら。これ、驚くほど美味しいわ……)


 食後、男が厨房から母親を呼び出した。恰幅のいい女性で、柔らかい声の持ち主だった。


「ほんとに助かるわ。すぐにでもお願いしたいところだけど……この制服、あんたに合うかしら?」


 エリンが制服を受け取り、嬉しそうに顔をほころばせた。

 その瞬間、ヴェラはほんの少しだけ彼女の頭にある角のことを案じたが、エリンは心得たように袖口からあのメイド帽を取り出した。


「これがあるから、平気」


 エリンは声を潜めてささやくと、ウインクをひとつして着替えに走っていった。

 ――ならば、わたくしにもできることを探すまで。


「……わたくしにも、働き口を紹介していただけないかしら」


 男の方へ向き直り、ヴェラは努めて真剣に言った。


「体力には自信があるの。漁港があるのでしょう? 力仕事なら、何かあるはずよね」


「嬢ちゃん、君もか?」


 男は目を見開いた。


「魚市場なら人手が欲しいが……体力仕事だぞ? 男でも音を上げるやつがいるくらいだ」


「構わないわ。力仕事には慣れているの」


 彼は度肝を抜かれたように目を丸くし、やがて腹を抱えて笑った。


「こりゃあ、面白い姉妹だな!」


 それからの日々、ヴェラは魚市場で働いた。市場の朝は早く、冷たい海風が肌を刺すが、身体を動かしていれば気にならない。

 彼女は周囲の男たちが二人掛かりで運ぶ氷漬けの魚箱を、当たり前のように一人で持ち上げ、指定の場所へと運んでいく。


 最初は、ヴェラの挨拶や所作に「なんだ、このお嬢ちゃんは」と鼻で笑っていた男たちも、彼女が三箱、四箱と涼しい顔で積み上げていくのを見て、次第に言葉を失っていった。


「……おい、嬢ちゃん。あんた一体どこで、そんなに鍛えたんだ?」


 ヴェラはふふっと小さく笑みをこぼした。


「わたくし、ただ人より少しだけ効率的な体の使い方を知っているだけですわ。さあ、次はあちらの木箱を運べばいいかしら?」


 汗ひとつかかず、常に穏やかな表情で重労働を淡々とこなすヴェラの姿に、男たちはやがて「うちの市場の秘密兵器」と呼んで、一目置くようになった。

 休憩時間になれば、「これでも食って一休みしろ」と、市場の端で焼いたばかりの串焼きや、包みたての包子(パオズ)を差し入れてくれる。


「……あら。恐縮ですわ、いただきます」


 ヴェラがいつものように礼を言って受け取ると、男たちは「あのお嬢ちゃんに礼を言われると、なんだかこっちまで背筋が伸びちまうな」と、照れくさそうに頭を掻いていた。


 一方で、エリンはあっという間に食堂の「太陽」になっていた。

 夕方、仕事終わりにヴェラが食堂へ迎えに行くと、そこには開拓村で見せた表情よりも、ずっと生き生きとした彼女の姿があった。


「はい、ガンスさん! ワタたっぷり、イカの肝醤油焼き一丁! 香ばしいうちに食べてね、お酒が進むよ!」


 客の名前をすべて覚え、好みのお酒を間違いなく運び、時には酔客のくだらない冗談を適当にいなす。生まれてたったの五年とは思えない、その圧倒的な社交性。

 ヴェラが呆気に取られて見守っていると、店主の母親が笑いながら話しかけてきた。


「あの子、天才だわ。あんたの妹が来てから、店の売り上げが倍よ。……ねえ、本当に行っちゃうの? ずっとここに居てくれてもいいのよ」


 その言葉に、胸が少しだけ熱くなる。

 彼女たちは「家畜」ではなく、ここでは一人の「働き手」として必要とされていた。


 宿に戻り、並んでベッドに潜り込んだ夜。


「エリンって……本当に凄いのね。わたくし、少し驚いてしまったわ」


 ヴェラの呟きに、エリンはシーツから顔を出して、満面の笑みで「えへへ」と返した。


「そうかな? 私、ただみんなとお話しするのが楽しくて。……それにね、一生懸命働いた後のご飯って、美味しくなるしね!」


 やがて、怪我をしていた店の娘が戻ってきた。

 別れの朝、彼女たちはこれまでの労働に見合う、ずっしりと重い給金を手に入れた。


「旅の途中で食べなさい。あんたたちの働きには、これくらいじゃ足りないくらいだわ」


 店主の母親から、脂の乗った干物の包みを二つ、押し付けられるように受け取る。

 市場の男たちも、仕事の手を止めて大声で叫んでいた。


「嬢ちゃん、またいつでも戻ってこいよ! その怪力、忘れねぇからな!」


「……失礼ね。わたくし、怪力ではありませんわ!」


 ヴェラは膨れた財布を懐に仕舞い、背負った荷物をぐいと引き上げた。

 確かな手応えと、町の人々からもらった温かな余韻を携えて、彼女たちは次なる目的地へと踏み出した。


 * * *


 港町特有の磯の香りが、少しずつ遠ざかっていく。

 ヴェラたちは河口の町を背にして、海岸線に沿ったなだらかな街道を歩いていた。


 右手には、どこまでも透き通った碧い海が広がり、寄せては返す波の音が、心地よいリズムを刻んでいる。


「ヴェラ、見て! 海がキラキラしてるよ!」


 エリンが弾んだ声で指差す先、午後の陽光を反射した海面が、まるで砕いた宝石を撒き散らしたかのように輝いていた。


「ええ、本当に……美しいわね」


 市場で得た給金と、お母さんからもらった干物。

 それらが詰まった荷物の重みは、心地よい手応えとなって彼女の肩に馴染み、自分たちの力で手に入れたという実感が、ヴェラの足取りをかつてないほど確かなものにしていた。


(……あら。わたくし、先ほどから鼻歌なんて歌っていなかったかしら?)


 自分の浮き立った心に少しだけ戸惑い、ヴェラはあえて表情を引き締めた。

 外の世界は未知の連続だ。どのような時でも、周囲の異変を見落とすような隙を作ってはならない。


 だが、その懸念は、最悪の形で的中することとなった。


「――ヴェラ。何か、来る」


 エリンの声から、先ほどまでの明るさが消えた。ヴェラは足を止め、彼女が凝視する北の空を見上げる。


 眩しい太陽の光の中に、ポツリと、黒い点が浮かんでいた。それは羽ばたく鳥の動きではない。風を切り裂き、最短距離でこちらを目指す、機械的で冷徹な軌道。


「……飛行型のゴーレム。あの人、もうあんなものを完成させていたのね」


 空気が擦れるような、嫌な風切り音が次第に大きくなる。

 ヴェラは静かに右手をかざした。掌の先に、幾何学的な紋様を描く青白い魔法陣が鮮やかに展開される。


 四枚の薄い羽根を震わせ、獲物を探す猛禽類のような姿をした無機質な石の塊。あの塔で、自分たちを「家畜」として閉じ込めていた主の、冷たい執念が空を舞っている。


「エリン、わたくしの後ろに」


 ヴェラは穏やかな海を背に、ゆっくりと腰を落とした。せっかくの美しい景色を汚された、静かな憤り。それが魔法陣の輝きを一層強く、鋭く変えていく。


「……わたくしたちの旅を邪魔する不躾な方は、叩き落とすしかありませんわね」


 魔法陣から放たれた圧縮土弾は、空気を切り裂きゴーレムの急所へと迫った。

 だが、敵は鳥の如きしなやかさでその一撃をヒラリと回避する。


 直後、空から無数の光弾が降り注いだ。


「っ……!」


 ヴェラは義肢の出力を一気に高め、地面を蹴った。錬金術の粋を集めたこの足は、彼女の意思に応じ、人間を遥かに凌駕する速度で海岸線を駆け抜ける。敵の注意を引き付けるように立ち回り、反撃の隙を伺った。

 だが、空中の敵はあまりに素早い。放つ弾丸はことごとく空を切り、次第に彼女は回避に専念せざるを得なくなった。


(……不味いわ。このままではジリ貧ね)


 焦燥が胸をよぎった、その時だった。


「ヴェラ、私も戦う!」


 エリンが叫び、着ていたローブと上着をバサリと脱ぎ捨てた。

 下着一枚になった彼女の背中から、淡い光を纏った半透明の翼が、滑らかな音を立てて広がっていく。


「私、飛べるみたい! 私の中の何かが、そう言っているの!」


「エリン!? あなた、何を……!」


 ヴェラの驚愕を尻目に、彼女は力強く羽ばたき、一直線にゴーレムへと肉薄した。宙を舞う彼女の口から、猛烈な炎が放たれる。

 だが、魔法耐性の高い石造りのゴーレムに、炎は決定打にならない。


「石が火に強いからって……!」


 エリンはひるむことなく、敵の背後へと回り込んだ。


「でも、その薄い羽なら、耐えられるかな!」


 彼女は強引にゴーレムの背に飛びつき、その繊細な四枚の羽根に向けて、至近距離から炎を叩きつけた。

 高熱に炙られた羽根がひび割れ、飛行型ゴーレムの高度がガクリと落ちる。


「落ちろーっ!」


 エリンがその小さな体で無理やり体勢を崩すと、重鈍な石の塊は彼女を巻き込んだまま、錐揉み状態で落下を始めた。

 砂煙を上げて激突する、その刹那。


 エリンはヒラリと宙へ逃れ、叫んだ。


「ヴェラ、今だ!」


「ええ、よくやったわ……!」


 ヴェラは反射的に、地面へと両手を叩きつけた。手の平の下で、かつてないほど巨大な術式が鮮烈に起動する。


「……穿て」


 キィン、と鼓膜を劈くような高音が響く。地面が大きく裂け、地下から這い出た無数の鋭い岩槍が、墜落したゴーレムの胴体を無慈悲に貫き通した。


 沈黙が訪れる。

 砕け散った硬質な羽と、砂煙の中に横たわる残骸。


「やった……!」


 エリンが空からふわりと舞い降り、ヴェラの元へと駆け寄ってきた。

 ヴェラの胸は、激しい鼓動とともに、言葉にできない熱い感情で満たされていた。


 * * *


 騒がしかった海岸線に、再び穏やかな波の音が戻ってきた。

 ヴェラは、脱ぎ捨てられたエリンの服を拾い上げ、彼女の肩にそっと掛けた。


「……危なっかしい真似を。わたくし、心臓が止まるかと思ったわ」


「えへへ、でも、勝てたでしょ?」


 鼻をこすって笑う彼女の背中には、先ほどの翼が名残惜しそうに消えていく光の粒が漂っていた。

 ヴェラはふと、自分の手の平を見つめる。


 あの塔にいた頃の彼女たちは、ただ奪われるだけの存在だった。けれど今は、こうして互いの手を借り、自分の意志で道を切り拓くことができる。

 河口の町で手に入れた自信と、今日、命を預け合って戦った記憶。それらが、彼女たちを「家畜」から「旅人」へと変えていく。


「さあ、行きましょうか。まずは、服をちゃんと着直して。……女の子がそんな格好で歩くものではないわ」


「あはは、ヴェラはまたお説教だ!」


 潮風が彼女たちの背中を押し、影が長く伸びていく。

 次の町まで、まだ距離はあるけれど。この二人なら、どこへだって行ける。


 ヴェラは少しだけ誇らしい気持ちで、水平線の先を見つめた。


 ◇◇◇◇◇


 サイを拾って三日目の午後遅く。

 草原とまばらな林が続くこの道に、ようやく人の暮らしの気配が見え始めた。


 行く手に小さな集落の影がぼんやりと浮かんでいたけれど、彼女たちはあえてそこを避けるように林沿いの細道へと足を踏み入れた。

 無用な接触が、意図せぬ火種になることを今の彼女たちは知っている。


 エリンは、ヴェラに背負われているサイの顔を覗き込みながら、いつものように楽しげな声を投げかけていた。


「――という感じで、あの空飛ぶゴーレムもヴェラがドォン!ってやっつけたし……無事に町を出られてよかったよね。ね、サイ?」


 背中から、かすかな寝息が聞こえてきた。

 慣れない旅の疲れか、それともエリンの話を聞いて安心したのか。すっかり気を許して眠ってしまったようだった。


「ぷぷっ……見てよヴェラ。いい年をした男の人が、女の子におぶさって寝ちゃうなんて。まるで赤ちゃんみたい」


「……その“赤ちゃん”を背負って歩いているわたくしは、何に見えるのかしらね」


 思わずため息混じりに返すと、ヴェラはわざとらしく肩をすくめてみせた。


「これではまるで、二人目の子供を育てている気分ですわ」


 エリンは目をぱちくりさせてから、「あ……」と声を漏らし、気まずそうに笑った。

 自分が生まれたばかりの頃、ヴェラがどのように彼女を連れ歩いたかを思い出したのだろう。


「……ねえ、ヴェラ。今さらだけど、なんだかゾッとしちゃった。あんなのが町の中で暴れてたらって思うと……。……みんなを巻き込まずに済んで、本当によかったね」


 エリンが不意に、真剣な声音で話を戻した。

 ヴェラは、背負った男の重みを確かめるように一歩を踏み出す。


「ええ、本当に。滞在中に何も起きなかったのは、ただの幸運だったと言えるでしょうね。……わたくしたちが手に入れた『平穏』は、常にあの塔の影と隣り合わせだということを、忘れてはならないわ」


 空を飛んだエリンの、あの力強い羽ばたき。

 守られるだけではない彼女の成長を誇らしく思う反面、その力が招く未来への不安が胸をかすめる。


 エリンはサイの寝顔を覗き込みながら、小さく呟いた。


「……あんな怖い追っ手には勝てたけど、この人の中にいる『災厄』には、ドォン!ってできないんだもんね。このまま、ずっと静かな人間(ひと)でいてくれたらいいのに」


「ええ。でも……この人にも、いつまでも眠り続けてもらうわけにはいかないわ」


 ヴェラは、夕闇が迫る街道の先を見据えた。

 この男――サイが背負っている『災厄』という名の宿命。それは、今の彼女たちが背負っているものと、似ている気がした。


「辛いかもしれないけれど、向き合ってもらわなければ。……わたくしたちが、そうしてきたように」

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