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(7)第一歩

 日が傾きかけたころ、林の縁に開けた平地を見つけた。草は短く、地面も乾いている。ここなら、今夜は安心して眠れそうだ。


 早速、野営の準備に取りかかった。ヴェラの背からそっと下ろされたサイは、まどろみから覚めたように瞬きをし、彼女たちの姿を順に確かめた。


「サイ、起きて。食事ができるまで少しの間待っててくれる?」


 エリンが声をかけると、彼は小さく頷いた。三人で焚き火を囲み、簡素な食事を取る。最後に立ち寄った町で仕入れた食材も、いよいよ底を尽きかけていた。


「明日は、あの集落で調達しないとね」


「ええ。これ以上、空腹で歩くのは効率が悪すぎるわね」


 食事を終えると、ヴェラは火を挟んでサイの正面に座り、居住まいを正した。


「サイ。あなたの額に、角が現れていることは――覚えているかしら?」


 彼は一瞬、顔をこわばらせたが、すぐに小さく頷いた。


「では、それがいつからか、覚えているかしら?」


 サイはふと顔を上げ、空を見上げる。木々の隙間から見える、鋭く光る下弦の月。彼はしばらく考え込んだあと、地面の柔らかな土に、指先で言葉を刻んだ。


『災厄は次の満月』


 ヴェラはその文字を見つめ、隣のエリンと視線を交わした。


「……あと三週間ほどね」


 ヴェラが小さく呟くと、エリンは表情を引き締めて頷いた。

 それは、もはや猶予がないという意味でもある。けれど――備えるための時間が、まだ残されているということでもあった。


 * * *


 焚き火の火が爆ぜ、ヴェラの影を不気味に揺らしている。

 眠りについたエリンとサイの寝息を聞きながら、彼女は独り、薪をくべ、思考の糸を編み直していた。


 あの海岸線で飛行型を墜としたあの日から、もう数ヶ月。あの男――あの忌々しい錬金術師は、一度たりとも彼女たちを逃がそうとはしなかった。

 忘れるどころか、忘れる間もないほどに、次々と刺客を送り込んでくる。森を抜ければ地を這う獣型が、夜道を歩けば影に潜む暗殺型が。彼女たちの歩みは常に、返り血と、砕け散ったゴーレムの石屑で汚されてきた。


(……二度と、あのような場所に、エリンを戻させはしないわ)


 握りしめた薪が、みしりと音を立てる。

 執拗な追撃を振り払いながらの行軍。本来の予定通りに『前回の災厄の地』を目指していたら、今頃彼女たちは、あの男が周到に用意した網に、疲弊しきった状態で絡め取られていたはず。もしそこで敗れれば、エリンは『天より降る剣』すら届かぬ、永遠に滅びぬ災厄として固定されてしまう。


 意志を奪われ、生を弄ばれ、終わりのない輪の中で何度でも産み落とされる……。


「捕らえられたら終わりですわ。……あそこに戻れば、わたくしたちは、ただの実験材料。わたくしの意志も、エリンの未来も、すべてあの男の身勝手な論理に塗りつぶされる」


 だからこそ、サイを拾い、あえて「目的地」を捨てた今の状況は、彼女たちの唯一の勝機。サイが災厄へと変貌するその瞬間、彼女たちは特等席にいることになる。あの男が盤面を整えるより先に、彼女たちが災厄の源流に触れる。

 それこそが、エリンの霊力を制御し、あの男の目論見を粉砕する唯一の「毒」となるはず。


「……サイを連れてきたのは、間違いではないわ」


 自分に言い聞かせ、強いるように森の奥を見つめる。けれど、その胸に渦巻く懸念を完全に拭い去ることはできなかった。

 本当に霊力の制御などという奇跡に辿り着けるのか。そして……災厄となったこの青年を、救う術はあるのか。


「それでも……可能性があるのなら、進むしかないわ。わたくしは、もう、あの人の『家畜』ではないのだから」


 焚き火の炎が爆ぜ、火の粉が夜空へと吸い込まれていく。

 ヴェラは、冷たく光る下弦の月を見上げ、この静かな夜が、一日でも長く続くことを願わずにはいられなかった。たとえそれが、叶わぬ願いだと知っていても。


 * * *


 翌日。

 午前の陽が傾きかけた頃、ヴェラは独りで集落へと向かっていた。野営地にサイを残すのは気がかりだったけれど、彼を担いだまま人の目に触れるのはあまりに目立ちすぎる。


「わたくしひとりで行ってくるわ」


 そう告げると、エリンは力強く頷いてくれた。「サイとお留守番、任せて!」と。数ヶ月の旅を共にしてきた彼女だ。今の彼女なら、万が一の時も正しく動いてくれるだろう。


 集落は、静かでこぢんまりとしていた。

 木組みの家々に、新しく葺き替えられた藁屋根。道沿いの畑には、力強く葉を広げる根菜や豆類が見える。


「旅人、かい?」


 畑の脇で荷を運んでいた男が、足を止めて声をかけてきた。驚きよりも、こんな辺境の地に現れた珍客への純粋な興味が勝っているようだ。


「少し、食料を分けてもらえないかしら。代金は、銀貨で払えるわ」


 小袋から銀貨を差し出すと、男は目を見開いた後、ぱっと顔を綻ばせた。


「そりゃ助かる。ここは物々交換ばかりだからな。銀貨の方が都合がいいんだ」


 噂を聞きつけた村人が数人加わり、獲れたての豆や芋、干した果実まで、次々と用意してくれた。ヴェラは手際よくそれらを選んで袋に詰め、礼を言って集落を後にする。


「気をつけてな。あんたみたいな人……どこか遠くから来たんだろう?」


 背後から投げかけられた問いに、ヴェラは曖昧な笑みを返すことしかできなかった。


 急ぎ足で野営地へ戻ると、そこには思いがけない光景が広がっていた。

 林の縁、陽だまりの平地。そこに、エリンとサイが並んでいた。手を取り合い、サイがふらつきながらも、自らの足で大地を踏み締めている。


「あっ、おかえり!」


 エリンが弾んだ声で手を振った。


「見て見て!ヴェラ。サイが歩く練習をしたいって。だから手伝ってるの!」


 ヴェラは驚きのあまり、抱えていた荷物を思わず地面に置いた。


「本当に……立っているのね。……すごいわ」


 ヴェラが感嘆の声を漏らした瞬間、サイがこちらを向き――そして、弾かれたように顔を背けた。

 見る間に、彼の耳までが真っ赤に染まっていく。


「……あら?」


 ヴェラが首をかしげた途端、隣のエリンがぷっと吹き出した。


「ぷはっ……! ごめん、笑っちゃだめなんだけど……だめ、無理……っ!」


 エリンは肩を激しく震わせ、ひぃひぃと呼吸を乱しながら笑い始めた。


「えっとね、ヴェラが出かけた後……サイ、筆談がすごくスムーズになってきて。二人で色んな話をしていたの」


「話?」


「うん。そしたらね、ふと『おんぶ』って言葉が出てきて……。そしたら、本人が気づいちゃったの。拾われてからずっと、ヴェラにおぶわれてばっかりだったって……!」


 エリンはお腹を抱えて笑い転げ、うつむくサイを指差した。


「それで、顔を真っ赤にして『歩く練習をしたい』って書いて……! ははっ、今も、ヴェラを見たらまた赤くなって……!」


 サイはその場に崩れ落ちるようにしゃがみ込み、恥辱に耐えかねたように両手で顔を覆ってしまった。


「……もう、だめ……っ、サイ、可愛すぎる……!」


 笑い転げるエリンの姿を見ていたら、ヴェラの中の何かが決壊した。


「あははっ……! もう、何よそれ……っ!」


 普段の彼女なら、こんなふうに声を上げて笑うことなんて、決してない。

 けれど。

 サイのあまりに見事な打ちひしがれぶりと、エリンの突き抜けた笑い声が、ヴェラの凝り固まった心を一気に溶かしてしまった。


 止まらない笑いの中で、胸の奥がじんわりと熱くなる。

 サイが、自らの意志で動こうとしている。エリンが、こんなにも無邪気に笑っている。


 今はこの一瞬だけで、十分だと思えた。


 ◇◇◇◇◇


 その夕暮れのことは、遠い未来、神の座で何度も語られることになる。


「――そんなことがあって、ヴェラが声を上げて笑ったの!」


 女神の話に夢中な妖精たちは羽をばたつかせ、やいのやいのと大騒ぎだった。


「それでそれで? 三人はずっと一緒にいられるの?」

「このまま幸せが続くの?」

「満月に何が起きるの?」


 女神は苦笑しつつ、妖精たちを宥める。


「落ち着いて。……あの山を越えて、満月の夜を迎えて……本当のヴェラの旅は、これからなの――」


 ――集落を発ち、さらに数日が経った。

 三人は、止まることなく歩みを続けていた。時に野営をし、時に吹き付ける風に逆らいながらも、前へ進む。


 サイの回復は、想像以上に早かった。あの時の極限の衰弱は、主に飢餓によるものだったようだ。十分に栄養を摂取した今では、普通に歩行できるばかりか、走ることさえ可能になっている。

 声こそまだ戻らないが、その瞳に宿る意志も、表情に浮かぶ感情も、確かな輝きを取り戻していた。


 三人は当初の進路――「前回の災厄が滅んだ地」を目指す、東から北へまわる道を外れていた。

 彼らが選んだのは、あえて南東へと向かうルート。険しい山を越え、森を抜けた先。そこに広がる未踏の地を、「次の災厄発生の場」に見定めたのだ。


 だが、問題はその進路上に横たわる、険しい山だった。


「……だから、言っているでしょう? あんな急斜面の登山は、まだ無理ですわ」


 ヴェラの声には、珍しく頑なな響きが混じっていた。

 対するサイは、断固として首を横に振り続けている。両者の間には、わずか数歩の距離と、互いに一歩も譲らぬ意志が火花を散らしていた。


「いい加減にしなさい、サイ。これはもう、根性の問題ではないのよ」


 サイは「絶対におぶられない」という強い決意を全身で主張していた。

 だが、ヴェラも退かなかった。


「……ほら、見て」


 そう言って、彼女は静かに右手を差し出す。指先から手首、そしてその付け根まで。そこには、淡く目立たない継ぎ目が走っていた。まるで工芸品に嵌められた球体関節のように――人の血肉とは異なる、どこか無機質な構造。


 サイは目を細めてその手を見つめ、戸惑いながらも、そっと触れた。関節の縁をなぞるように、確認するように、彼の指先が彼女の手の構造をなぞっていく。顔を上げたサイと、ヴェラの視線が重なった。


「この手と足は、ゴーレムと同じものですわ。……わたくしは、あの男に『ゴーレムの姫』と呼ばれていたの」


 少しだけ悔しそうに、ヴェラは言った。だが、その表情に怒りはもうなかった。今となっては、戦闘にも移動にも、これほど都合のいい肢体はない。彼女自身、それを誰よりも理解している。

 そのやりとりを傍らで見ていたエリンが、くすりと笑って口を挟んだ。


「それでね、私が頼んだの。彼女に名前をつけてあげてって。なんて呼べばいいか分からないからって、もっともらしい理由をつけてね」


「……ええ。それで、『ヴェラ』と名付けられたのですわ。『真実』という意味なんですって。ゴーレムらしい、いい名前だろう、と」


 ヴェラは諦めたように続けた。

 ヴェラ。それは、ゴーレムの完成儀式――額に「真実(emeth)」の文字を刻むことで術式を起動させるという、錬金術の仕上げを想起させるものだった。まるで彼女を「モノ」として完成させるかのような、あまりに皮肉な名だ。


 あの名は、最初は好きではなかった。けれど、エリンが楽しげに、愛おしそうに、何度も何度もその名を呼ぶたびに――不思議と、嫌いではなくなっていった。


「だから、ね?」


 ヴェラは再び正面を向き、彼の瞳を真っ直ぐに見据えた。


「あなたをおぶって山を越えるくらい、平気なのよ」


 そのときだった――

「それでね!」


 エリンが唐突に身を乗り出し、大声を上げた。


「このお尻は本物なの! ちょうど義足との接合部だから、このきれいな形は一生保てるわけ! ねっ、ヴェラって格好いいでしょ!」


「なっ……!」


 ヴェラの顔が一気に真っ赤に染まった。言葉を失い、慌てて両手で腰を隠す。

 サイは目を泳がせたまま、なぜか視線がヴェラのヒップラインに吸い寄せられ、そして――すぐに弾かれたように逸らした。


「…………っ!」


 ヴェラの目が鋭くなり、同時にさらに顔の赤みが増す。


「ぷっ……。くくっ…………あはは! だめ、楽しい……っ!」


 一人腹を抱えて笑い転げるエリンに、ヴェラは羞恥と呆れが入り混じったため息を深く吐き出した。


「もう……エリンったら。いくら何でも、最近サイをからかい過ぎですわ」


 エリンはひとしきり笑った後、目尻の涙を拭いながら、前方にそびえる険しい山脈へとちらりと目をやった。


「あはは……って、そんな冗談を言っている場合じゃないよね。山越えは大変そうだし」


 これ以上お説教されないよう、さらりと強引に話を切り替える。


「私は登山、全然平気だよー」


 エリンは全く悪びれる様子もなく、ふんすと胸を張って明るく続けた。


「竜の力を持ってるもん。火も吐けるし、空も飛べる!」


 そう言って、ローブの腰紐をきゅっと結び直し、フードごと頭から脱ぎ下ろした。その下に着ていたのは、背中の大きく開いた、キャミソールのような軽装だった。エリンがくるりと背を向けると、そこから滑らかに翼が広がった。

 半透明の鱗膜に陽光が透ける。そして、ふわりと風をまとって舞い上がった。


「だからね。ついていくのが大変なのは、サイだけってわけ」


 サイは、目を丸くしてその姿を見上げていた。火を吐けることは知っていたが、飛ぶ姿を見たのは初めてだった。

 露出の多い姿に視線のやり場に困りながら、顔を真っ赤にして目を逸らす。


「……というわけで」


 サイを捕まえたヴェラは、そのまま彼を抱き上げた。がっしりと両腕で、まるで壊れ物を扱うように。

 それは、偶然にも「お姫様だっこ」の形になってしまっていた。


「……あ、これ、楽かもしれないわ」


 サイを抱きかかえたまま、ヴェラは駆け出した。山へ向かって。風を切るように、まっすぐに。

 大きな荷物を両手にぶら下げながらも、エリンは空中を軽やかに舞い、ヴェラたちのあとを追っていく。


 サイは、あまりに予想外の展開に、反射的に両手で顔を隠した。羞恥心が一気に沸点を超え、脳内のどこかで警報が鳴っている。もう何がどうなっているのか、理解が追いつかない。

 あれこれ考えることすら馬鹿らしくなり、彼は力なく顔を伏せた。肩を落とし、腕の中でがっくりと項垂れる。


 ――たぶん今日が、生涯で一番恥ずかしい日になる。


 羞恥のキャパシティを超えた彼は、すべてをあきらめたように、もう全部なかったことにしたい――そんな世界に全力で逃げ込んでいた。


 ……。

 これが、わたくしと『災厄の子』との出会い。


 運命に抗い、自らの手で未来を切り拓こうとする無邪気な強さ。

 運命を受け入れ、誰も傷つけまいとする不器用な優しさと。

 正反対の軌跡を描く二つの光を、どちらも守り抜きたいと願った瞬間――わたくしの内にあった空虚は、かけがえのない「願い」へと変わった。


 わたくしはもう、鎖に繋がれた人形などではない。

 作り物だったわたくしが、ひとりの人間として歩み出した旅。それは、満月の夜を越えた、あの朝から始まったのだった――

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