(44)翼
――ゴォォォォッ!
暴竜魔王の足元から、空間そのものをぐにゃりと歪ませるほどの高密度の衝撃波が奔り出す。放射状に広がる黒い波紋が、堅牢な大地を悲鳴とともに根こそぎ裏返していく。
瞬間、地下深くを走る凄まじい衝撃波が、街を下から串刺しにするように一斉に突き上がった。重厚な王城の柱が、乾いた音を立てて飴細工のようにねじ切れる。
空気が破裂する。肺が圧に潰される。耳が、喉の奥が、内臓ごと震え出す。逃げ場のない致死量のプレッシャーが、生きとし生けるものを等しく押し潰そうとしていた。
サイの視界で、仲間たちが次々と圧力に呑まれていく。
暴れるハルトを抑えていたエイデンの膝が折れ、二人がもつれ合うように倒れ伏す。セラを抱きしめるリディアの姿が、ひび割れた結界の光の中で血に染まっていく。
ミナを抱える上位精霊も、ヴェラに取り縋る下位の精霊たちも、もはや形を保つことすらギリギリのようだった。
息ができない。指一本動かせない。この世の終わりを煮詰めたような漆黒の殺意が、サイの鼓膜を、脳髄を、魂を粉々に打ち砕こうとしている。
――そして。
世界が、真っ白に反転した。
――ッ!!!!!!!!
王城の中心から、黒紫の奔流が……すべての事象を喰らい尽くす悍しい霊力の柱が、天に向かって一気に解き放たれた。
周囲の空間ごと削り取るように膨れ上がるその暴力は、精霊たちが決死の思いで編み上げた防護結界の光を紙細工のように砕き散らす。
極太の霊力はそのままの勢いで天頂を真っ二つに穿ち、頭上を覆っていた分厚い黒雲を、凄まじい振動とともに中心から円形に吹き飛ばした。
空が、完全に裂けた。
次に広がったのは、“終わり”だった。
音が重なる。衝撃が重なる。鼓膜の裏側で、世界が悲鳴を上げて潰れていく。
黒い奔流が、津波のように街を呑み込んでいく。石造りの建物が砂の城のように脆く崩れ落ち、白壁がほどけ、塔が歪み、屋根が空中で粉々に砕け散る。触れたものすべてを塵に還す無慈悲な光景は、まるで世界から記憶そのものを削り取られているようだった。
容赦なく、圧倒的な黒い渦が、逃げ場のない視界を完全に奪い去る。
残ったのは、音だけだった。崩れる音。潰れる音。引き裂かれる音。そして、息ができない音。
低く、重く、どこまでも深く、地獄の底から響き続ける。
やがて――すべてを飲み込んだ煙が、ゆっくりと流れはじめる。
最初に現れたのは、黒紫の灰燼と化した無残な景色だった。
塔だったもの。城壁だったもの。屋根、門、街灯、舗道。
それらが折れ、倒れ、絡み合い、泥のように溶けて積み重なっている。そこがかつて美しい王都だったとは、もはや誰にも分からない。建物は形を失い、街路は裂け、広場だった場所は、ただの巨大な絶望の窪みとなっていた。
王都は、完全に崩壊した。
――ただ一か所を除いて。
瓦礫の海のど真ん中。崩落の嵐がすべてを呑み込んだはずのその場所に、ぽっかりと穿たれた、完璧な静寂があった。
半球状に伏せられた、巨大な漆黒の翼。
外界のあらゆる存在を押し返すような、絶対的な拒絶。その黒鋼のような羽の重なりが、瓦礫も爆風も熱も――理不尽に世界を粉砕せんとする暴竜の怨嗟すらも、完全に防ぎきっていたのだ。
煙がゆっくりと引いていくにつれ、その頑なな拒絶の内側だけは、外界の理不尽な破壊とは無縁の、深く静かな『夜の闇』に満たされていることがわかる。
凶暴な光や熱線を一切寄せ付けない、仲間たちを包み込むためだけの、絶対的な守護の深淵。
そのとき――闇の縁が、わずかに震えた。
音もなく、重なっていた羽がほどけていく。ゆっくりと、静かに、“それ”は開かれていく。
翼が、展開する。折りたたまれていた空間が、少しずつ元の世界へと接続されていく。まるで“その存在”が、世界に馴染む準備をしているように。
閉ざされていた静寂が崩れ、外界の光が、ようやくその内側へと滲み込んでくる。
そこは、瓦礫に囲まれた楕円形の避難所だった。言葉にするなら、黒き羽根の中に守られた静寂の胎内。
そして、その中心に――サイはいた。
崩れた石片に囲まれ、膝をついたまま。だが、身体は無事だった。目を向ければ、気を失ったハルトやエイデン、そしてミナやリディアもまた、倒れてはいるが確かな命の気配がある。
その事実が、思考より先に、震えるほどの安堵となってサイの胸を強く打った。
(……生きている)
思考が疑問の形を結ぶより早く、答えはすでに視界の中に現れていた。
煙の向こうに、ひとつの影。
黒い霧をまとい、人の形をしていた。角を持ち、巨大な翼を背に広げた、ひとつの存在。
何も語らず、何も動かず、ただ、そこに在った。嵐の名残の中で、あまりにも静かに。
サイの胸の奥が、強く引かれる。心臓ではない、もっと奥。魂のどこかが、その姿に反応していた。
その輪郭を、彼は知っていた。あれは、ずっと、追い続けてきた姿だった。
……エリン?
(……ちょ、びっくりしたぁ……!)
自分の声が、胸の奥で大きく跳ね返った。遅れて、全身に強烈な震えが走る。
ありったけの黒い霧を『翼』の形に展開し、超高速で墜落するように王都へ飛び込んだ。その凄まじい衝撃の余韻が、ようやく身体の感覚として追いついてきたのだ。
視界の端で、焼け焦げた瓦礫の山が波のようにうねっている。焦げた空気が肺に突き刺さり、血と泥の混じった現実の匂いが喉をえぐった。
(……ひどい……)
瓦礫。ひび割れた地面。飴細工のようにねじれた鉄。
さっきまで人が生きていた街が、ただの崩落した記憶の断片と化している。
(立派な街だったみたいなのに……)
展開した漆黒の翼は、神の如き一撃を防ぎきった熱を孕んで未だに燻っている。焦げた石の匂いが喉に刺さる。
それでも――エリンは翼の隙間から、恐る恐る外を覗き込んだ。
(みんな……無事……?)
その瞬間だった。
「……エリン……なのか?」
声が、胸の奥を一直線に貫いた。
(……この声……!)
鼓膜より先に、心が激しく反応した。呼ばれた。確かに、私が。
大陸の隅で、最後に一度だけ。光に消えゆく私に向けて、必死に絞り出してくれたあの不器用な声。
(間違いない……)
サイだ。胸が、張り裂けそうになる。息が、喉の奥で熱く詰まる。嬉しさと安堵で、涙が内側から一気に込み上げてきた。
(……今すぐ、答えたい……!)
(私だよ、ここにいるって……!)
彼の方へ振り返ろうとした、けれど。
――バリバリッ!!
背後の空気が、致命的に裂けた。思考より先に、身体が本能的に反応する。
背中から、鼓膜を破るような雷鳴と、狂ったような殺気が吹きつけてきた。
暴竜魔王が、再び立ち上がったのだ。全力を放ち尽くしたはずの巨体が、悍ましい黒い鱗に極太の雷を絡ませ、限界を超えて膨れ上がっていく。
周囲の重力すら歪むほどの、異常な気配。
(こいつを……何とかしないと!)
視界が白くなる前に、エリンは地面を蹴って踏み込んでいた。
漆黒の翼を力強く畳み、ようやく自分の意志で動くようになった脚に爆発的な魔力を込める。踏み込みは、地鳴りのように重く響いた。
そのまま砲弾のごとく直進し、暴竜魔王の無防備な巨体に肩から激突する。
ガキンッ!!
硬い鱗がひしゃげる音と、自身の骨にまで響くすさまじい反発の衝撃。同時に、暴竜の纏う高圧の雷が、エリンの全身を容赦なく貫く。
(――っぐ……!)
視界が弾けた。白。紫。金。黒。
光と激痛が、いっしょになって思考を焼き切ろうとする。
それでも、エリンは決して手と足を離さなかった。歯を食いしばり、石畳に足をねじ込み、さらに深く、強く、踏み込む。
(でああああっ!!)
気合の叫びと共に、全身の重みと魔力を叩きつける。
バランスを崩した暴竜魔王の巨体が、たまらず地面に崩れ落ちた。
――ズシンッ!!
地震のような衝撃が、地を這うように広がる。そのときだった。
エリンの視界の端に、何かが目に入った。
(……あれは)
瓦礫の陰。土で組まれた、半壊したドーム状のシェルター。
(ヴェラの……土魔法……?)
次の瞬間、その防壁が完全に崩れ落ちた。崩落。粉塵。土の崩れる音。
そして、その奥から露わになったのは、信じがたい真実だった。
そこにあったのは――ゴーレムの義肢が完全に砕け散り、泥と血にまみれて横たわるヴェラの姿。
小さな精霊たちが泣き叫びながら、必死にその身体を繕おうと光の粉を散らしている。
冷たい石畳に横たわる最愛のひとは、まるで壊されて捨てられた人形のように、無惨だった。
(……え……?)
一瞬、理解が追いつかない。
あまりの惨状に、エリンの呼吸がピタリと止まった。
(誰が……)
(誰が、ヴェラを……!)
思考よりも先に、燃えるような視線が動いていた。
足元で身悶えする暴竜魔王。目の前に、確かに存在する元凶。
(……お前か)
その短い言葉と共に、エリンの中で、決定的な感情が爆ぜた。
(お前かあああああっ!!)
――ゴオオオッ!!
莫大な魔力が、沸点を超えた感情と混ざり合って大気に噴き出す。
周囲の空気が、文字通り一瞬で燃え上がった。意思よりも先に、エリンの放つ炎が竜のように咆哮する。
紅蓮の業火が、暴竜魔王の巨体を完全に呑み込んだ。暴竜の放つ雷をも、嵐をも、容易く圧し潰してしまうほどの異常な熱量。
(私……火加減だけは、得意なのよ……!)
怒りが、理性を焼き尽くす。
憤怒が、底なしの魔力を限界まで駆動させる。
(黒焦げにしてやる!!)
(よくも……よくもヴェラを!!)
――ドゴオオオオッ!!
炎が、爆発的に膨張した。そのすさまじい爆音は天を貫き、見ている者の魂すらも震わせる。
黒き巨躯の表面を覆っていた鱗が、凄まじい熱に耐えきれずドロドロと溶けていく。
「ウオオオオオッ!!」
炎の中で、暴竜魔王の絶叫が空を震わせた。だが、もはやその咆哮に、かつての絶対的な威圧感はなかった。
暴風も、雷鳴も、すべてが圧倒的な熱量によってねじ伏せられ、焼き尽くされていく。
――ズウン……。
暴竜魔王は、ついに姿勢制御を失い、完全に崩れ落ちた。
だが。
奴の纏う黒い霧は、まだ生きていた。地を這い、うねり、何匹もの蛇のようにのたうちながら、再び形を持とうと周囲から貪欲に力をかき集めている。
――そのとき。
《冷静になれ、エリン》
沸騰した頭の奥に、恐ろしく澄んだ声が届いた。
火に焼かれ、暴走しかけていた感情が、その一言で一瞬にして冷たい空気に晒される。
《あの娘は、まだ死んでいない》
(……はっ……はあっ……)
エリンの肺が、ようやく外の空気を吸い込んだ。焼けた喉をかすめて、荒い呼吸の音が響く。
《よく見ろ。義肢の損傷は激しいが、命は繋がっている》
《精霊たちが、支えている》
(……生きてる)
その事実を認識した瞬間、それだけで、その場に崩れ落ちそうになった。
足から急激に力が抜け、一瞬だけ意識がぐらつく。怒りで張り詰めていた全身の緊張が、ふっと解けた。
(……よかった……)
だが、安心の波に身を委ねる暇はなかった。
――ガシィッ!!
黒い霧をかき集め、半身を焼かれた暴竜魔王が、再び立ち上がろうと地面を掻き毟りながら強引に上体を起こそうとする。
エリンは歯を食いしばり、その巨体を上から全身の力で押さえつけた。
(だめ……)
(この黒い霧の暴走を……どうにかして止めないと……!)
バチバチッ!
暴竜の身体の奥底で、稲妻がもう一度不気味に集まり始める。破壊の化身の暴走は、まだ止まらない。
(……シロ、どうすれば……っ!)
必死に問いかけるエリンの意識に、相棒の力強い声がすぐに応えた。
《わしに任せろ、エリン》
エリンの身体から、白い霧が爆発的に立ち昇る。
白き竜の鱗の声が、崩壊した王都の空に鋭く響き渡った。
《黒き竜よ、あなた様の鱗、わしが預かる! 今こそ、あの“剣”を使うときじゃ、そうであろう!》
今度は、上空の嵐を切り裂き、急降下してきた小さな黒き竜――竜神の声が、響き渡った。
《その声、お主は、逆鱗の霊力か! ああ、そうだ。今こそ、その時。その霊力、使わせてもらうぞ!》
白い霧が一頭の白竜の形を成してサイの方へと飛翔し、その角に真っ直ぐぶつかる。
ブォッッ!
白い霧を吸収したサイの角が、まばゆい白銀に輝く。
《我が角を授けし者よ!》
サイが、はっと顔を上げる。上空の竜神の声が、深く、静かに降り注ぐ。
《あの霧を消せ。――今のお前なら、勝てる。感じろ、角に宿った霊力を。お前のその角は、今こそ完全に覚醒した》
「覚醒……」
《感じろ。災厄を屠る――本当の力を》
記憶が、閃光のように脳裏を走る――。
錬金術師と死闘を繰り広げたとき、空に舞った光の粒。
自らの頭を割ったとき、不意に目覚めた未知の力。
そして、レイを救ったとき、黒い霧が晴れたあの瞬間。
「……いる」
サイは、静かに呟いた。
「確かに、ここにある。俺の中に」
《ならば、もう分かるはずだ》
竜神の声が、どこまでも静かに響く。
《行け、サイ》
サイは、荒れ狂う嵐の真ん中で、静かに目を閉じた。
周囲の轟音が遠のき、自身の内側を満たす圧倒的な霊力の奔流だけが、ハッキリと五感に伝わってくる。
(最後に必要なのは……顕現させるための、儀式)
カラン……。
足元の石畳の上に、かつてサイ自身が振るった『天より降る剣』が転がっていた。だが、彼はそれを拾おうとはしなかった。
(災厄を屠る本当の力)
(それは、『天より降る剣』にはなかった)
(元々、あれにあったのは、“正の霊力”で編まれた転移の力だけだ)
胸の奥に、確かな熱と重量感がある。
(本物は――ここにある)
サイは、自らの額に生えた角へと真っ直ぐに手を伸ばした。
指が触れた瞬間、光が脈を打ち、角が微かに震える。
次の瞬間――硬質な光が走り、ねじれるようにして角の形状が急激に変化していく。それは瞬く間に、剣の『柄』の形へと変貌を遂げた。
柄の長さまで変形しきったそれを、サイは両手でしっかりと掴む。
一拍。――そのまま、動かない。
だが次の瞬間。サイの背後で、“何か”が裂けた。
――ブシュッ!!
後頭部から、鋭い刃が生えた。
正確には、頭蓋の奥底に鞘走っていた剣身が、柄を引かれたことで上方へ向かって突き出してきたのだ。
それは外から見れば、サイ自身が頭部を深々と串刺しにされたような、あまりにも異常で凄惨な光景だった。
「ッ……!」
目を見開き、奥歯を強く噛みしめる。
裂けた額から、口元から、赤黒い血がゆっくりと流れ落ちる。
だが、サイの手は決して柄を離さない。むしろ力を込め、さらに強く握り締める。
ズズズ……と、剣が上へと引き抜かれていく。
自分自身の頭を貫いたまま、真っ直ぐな剣身が、骨と肉をこじ開けるようにして“上へ”“外へ”と滑り出す。
皮膚が裂ける音はない。代わりに、骨が砕け、髄が軋むような乾いた音が、背骨の奥深くから響き渡った。
血が滴る。だが、彼に痛みの自覚はなかった。これは苦痛ではない。力を現世に引きずり出すための、覚悟と代償の証明だった。
完全に剣が引き抜かれた瞬間。
サイの身体は大きく前のめりに揺れた。けれど、決して崩れ落ちることはなかった。
そこに立っていたのは、「力を引き抜かれた者」ではなく、自らの意志で「力を引き抜いた者」の姿だった。
サイは、血に濡れたその剣を静かに構えた。
頭から滴るおびただしい血が、剣の鍔を赤く染め上げていく。
そのおぞましくも神々しい立ち姿は、捧げられた生け贄のようで、同時に、神話から抜け出してきた英雄や怪物のようでもあった。
「……すごい……」
「……まるで、神話を目の前で見ているみたいだ……」
圧倒的な重圧から解放され、瓦礫の中で身を起こしたハルトとエイデンが、震える声で呟いた。
「サイ……お願い……」
リディアが、すがるように祈りの言葉を紡ぐ。
サイの手にあるその剣は、あまりにも簡素だった。
装飾はない。複雑な紋様もない。権威を示す象徴もない。ただ、無駄という無駄を極限まで削ぎ落とした、分厚く真っ直ぐな刃。それだけが、静かにそこに存在している。
――それでも。
触れれば、世界が変わる。理由も、理屈もいらない。ただ、絶対的な断ち切る気配だけが、確かにその剣から濃密に滲み出ていた。
《それこそが、お前に与えた角の本来の姿だ》
竜神は、余計な言葉を一切挟まずに言った。簡素に。だが、ひどく深く。
サイは、一瞬だけ視線を落とし、それから、自らの血に染まる剣を強く握り直す。
「この力を――角を、俺にくれてありがとう」
《偶然だ》
竜神は、間髪入れずに短く返した。
《……そうなってしまった、というだけだ》
それは言い訳でも、謙遜でもなかった。ただ、起きた事実をそのまま口にしただけの、静かな声音だった。
「……偶然だとしても」
サイは、剣を真っ直ぐに構えた。
その眼差しにも、切っ先にも、もう迷いの欠片は微塵もなかった。
「これで――みんなを救える!」




