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(43)瓦解

 石畳に、何人もの身体が容赦なく叩きつけられた。


「……っ、うぐっ」


 狂暴な風が、世界そのものを叩き潰すように吹き荒れている。路地を引き裂く暴風、頭上で何度も炸裂する雷鳴。誰かの声も、周囲の音もすべてが圧し潰され、ただ暴力的な嵐だけがそこにあった。


 肺から空気を吐き出させられたサイが、反射的に顔を上げる。視界いっぱいに広がっていたのは、絶望を象ったような巨大な顎だった。


 ――ガチィィィンッ!!!


 凄まじい質量で噛み合わされた絶対的な力が、彼女の身体を容赦なく引き裂いた。

 ヴェラの身体を支えていたゴーレムの腕が、空中で惨たらしく分離する。遅れて、脚。支えを失った胴体は、血飛沫を散らしながら暗い嵐の中へ落下を続けた。


 ――グシャッ。


 雷鳴すらもかき消すほど、その嫌な音だけがやけにはっきりと耳に届いた。

 石畳の上を、何かが転がる。


 サイは、それを見て――すぐには、理解できなかった。

 転がった腕。精巧に作られた、ゴーレムの――腕。


 ……あれは。


 思考が、そこで完全に停止する。遅れてやってきた重たい衝撃。吹き飛ばされた身体が、再び放り出されるように地面へ叩きつけられた。

 息が、できない。世界が、現実が、ひどく遅れて追いついてくる。


「い……やだ……いやああああああああ!!」


 悲鳴が、分厚い嵐の壁を突き破った。リディアの声だった。その凄惨な光景を真っ先に理解してしまったがゆえに、到底抑え切る術のなかった魂からの叫び。

 その絶叫を合図に、弾かれたように身体を動かした者がいた。


「――ヴェラ!!」


 ミナが、駆け出していた。

 考えていない。見ていない。勝算など判断していない。ただ、無残に倒れゆく仲間のもとへ、本能のままに。


「まだ……! まだ……!!」


 虚空へ手を伸ばし、残された魔力を強引に叩きつける。癒しの光が、弾けるように彼女の手のひらから広がった。


「ミナ、やめろ!!」


 ハルトの制止の声が飛ぶ。ミナの魔力は、先ほどの戦いですでに底を突いていたはずだ。これ以上の無理は、命を削る。

 ハルトの危惧した通り――光は、続かなかった。


 ぷつりと、まるで張り詰めていた糸が切れたように、治癒の輝きが唐突に消え失せる。

 次の瞬間、ミナの身体からすべての力が抜け落ちた。


「ミナ――ッ!」


 ハルトが呼び切るよりも早く、彼女の膝が折れる。

 そのまま硬い石畳へ倒れ込もうとしたミナの身体を、空間を裂くように滑り込んできた影が力強く掴み取った。

 土の上位精霊だった。

 だが、その動きにいつもの厳格な落ち着きはない。余裕を剥ぎ取られた焦燥が、そのまま荒々しい動作となって表れていた。


「来い! 早く来い!!」


 怒鳴り声が、嵐の中で立ちすくむ下位の精霊たちを激しく揺り動かす。


「風の内側だ!! あの娘を――ヴェラを、今すぐ救い出せ!! 絶対に、死なせるな!!」


 それは命令というより、悲痛な叫びだった。

 同時に、上位精霊は気を失ったミナの身体を抱え込み、自身の魔力を惜しみなく注ぎ込み始める。周囲の風が乱れ、精霊の放つ光が明滅するように揺れた。


「魔力が底を突いていたはずであろう……! 治癒は我に任せればよいものを!」


 その声は、完全には取り繕えていなかった。

 怒っているのではない。それは誰かを叱る言葉ではなく、自分自身へ向けられた、あまりにも遅すぎた猛烈な後悔だった。


「なぜだ。なぜ、あのような無謀な真似を……」


 己の生命力を削ってまで、仲間を護る絶対の盾となったハルト。自らの限界を超え、共に生き残るためだけに魔力を振り絞ったミナ。そして、ヴェラのために存在の消滅すら厭わず、笑って力を差し出した我が眷属たる下位の精霊たち。

 その愚かで真っ直ぐな姿が、土の上位精霊の脳裏に焼き付いて離れなかった。


 高位の霊的存在である彼にとって、それはあまりにも非合理で、理解し難い行動だった。個の消滅は絶対の恐怖であり、避けるべき事象のはずだ。


「このようなところで命を散らすなど、お前たちの望みではなかったはずだろう……!」


 誰かを救うために、自らのすべてを捨てる。そんな愚かしい自己犠牲を前にして、なぜ自分の胸の奥が、これほどまでに熱く軋むのか。

 崇高な使命も、絶対的な力も持たない彼らが、その瞬間、ひどく眩しく見えた。

 自分には決して踏み出せない一歩を踏み出した彼らの狂気を、愚かさを――我は確かに『羨ましい』と、そう思ってしまったのだ。


 黒き勇者。黒き聖女。そして、女神。

 あの絶望的な戦いで、敵の底知れぬ力に戦慄し、「逃げる」という選択を彼らに強いたのは自分だ。それは、高位の存在として理にかなった、冷徹で正しい判断だったはずだ。……しかし。


 ――あのとき、もし。


(……あのとき、我が……抵抗することを諦めず、もっと前に出ていれば)


「……っ」


 上位精霊に、もはや迷いはなかった。

 自身の根幹たる魔力を、限界までミナへと流し込む。乱暴に、必死に。大地を司る精霊としてではなく、ただ目の前の命を“助けたい”という、ひどく人間臭い衝動のままに。


 だが――ミナは、何も言わない。

 痛みに顔をしかめることもなく、何も気づかないまま、深い意識の底へと沈んでいた。

 魔力は届いている。命の灯火も、確かにそこにある。

 それでも。ミナの小さな身体を抱き抱える上位精霊の指先が、微かに、けれどはっきりと震えた。


(……私は)


 胸の奥で、言葉にならないドロドロとした感情が蠢く。

 そのとき、不意に脳裏をよぎった。精霊の契りを交わしたあの場所で、腕の中の少女が、無邪気に笑いながら言い放った言葉を。


『そっかー……飛べないのかぁ。なんだ、上位精霊さまも、案外たいしたことないんだね』


 身の程を知らぬ、軽い調子だった。

 冗談のようで――本来であれば、絶対的な存在である自分に対して決して許される物言いではなかった。


 ――けれど。


「……お前の言う通りだ」


 土の上位精霊は、ピクリとも動かないミナを強く抱きしめたまま、ポツリと、嵐の中に懺悔を零した。


「我は……本当に……たいしたこと、ない……」


 何百年という永遠を生き、世界の(ことわり)に雁字搦めに縛られてきた自分とは違う。どうしてこの小さな人間の心は、かくも縛りなく、自由でいられるのだろうか。

 神の威圧にも屈せず、上位精霊の権威にも臆することなく、ただありのままに世界を見つめる彼女の『心』というものが、彼はたまらなく愛おしく、そして無性に知りたくなったのだ。


「……必ず、助ける」


 祈るように、誓うように。土の上位精霊は、その冷たい頬に自分の額をすり寄せた。


「だから目を覚まして、我に教えてくれ、ミナ。お前のその……軽やかで、美しく、自由な心が何であるかを」


 嵐は、まだ狂ったように吠えている。暴風の内側で、精霊の光が弱々しく揺れる。誰かが、必死に手を伸ばしている。

 それを、サイは冷たい石畳に這いつくばったまま、ただ見つめていた。


 竜神に『天より降る剣』を託した彼の手の中には、もう何の武器もない。指先は微かに痙攣するように動くが、空っぽの掌が泥を掻くだけだ。それでも、身体が起き上がらなかった。

 息を吸うたび、絶望で胸の奥がひどく軋む。視界は、地面にへばりついたままだった。


 カラン。


 主を離れた義肢の乾いた音が、幻聴のように耳の奥で鳴った気がした。まただ。地面に伏したまま、何もできずに、大切なものが奪われていくのを見ているだけ。

 唇が、震えた。言葉は、出なかった。


「……愚か者が!!」


 悲痛な怒声が、嵐を裂いた。土の上位精霊は、石畳に膝をついたまま、意識のないミナを力強く抱きしめている。その鋭い視線が、地に伏すサイを射抜いた。


「何を目を伏せている! ヴェラが私と契約したのは、自分が強くなるためだと言っていたが、違う」


 上位精霊の言葉が、暴風雨を突き抜けてサイの鼓膜を殴りつける。


「――あの時、お前が死にかけていたからだ。このままでは、大切な誰かを失う。そう恐れていたからだ」

「だから、ヴェラは我のもとへ来たのだ。お前を、絶対に失わないためにな!」


 間を置かず、さらに続ける。


「お前が、生還を信じないでどうする! 這いつくばったままでいい。だが――決して目を逸らすな!!」


 石畳が、やけに近い。呼吸をするたび、胸の奥が軋む。

 武器を持たない空っぽの手の中に、『自分の無力さの重み』だけがずっしりと残っていた。サイは、血が滲むほど強く、その掌を握りしめた。


 そのとき――喉を引き裂くような叫びが響いた。


「うわあああああああ!!」


 ハルトは、叫びと同時に、決死の覚悟で暴風の中へ飛び出していた。

 だが次の瞬間、背後から強烈な衝撃。太い腕が絡みつき、胸ごと力任せに締め上げられる。


「離せ!!」


 身体を捻る。振りほどこうとして、さらに強く拘束された。


「クソッ……!」


 足が空を蹴る。それでも、前へ進めない。


「う、うあああああ!!」


 喉が裂けるほど叫ぶ。


「行かせろ!! このままじゃ――!!」


「ダメだ!!」


 エイデンの怒声が、至近距離で叩きつけられた。


「離せよ!! 見てるだけなんて、できるかよ!!」


 暴れる。力任せに、腕を振る。だが、歴戦の傭兵であるエイデンの羽交い絞めは、びくともしない。


「放せ!! 放せって言ってんだろ!!」


「――放さない」


 短く、強い声。


「お前を、無駄死にさせたくないんだ!!」


 その切実な叫びに、ハルトの呼吸が一瞬だけ詰まった。


「……っ」


 それでも、ハルトは叫ぶ。


「う、うああああああ!!」


 声は、無情な嵐に叩き潰される。凄まじい雷鳴が重なり、狂暴な風がもがき苦しむ二人を包み込んだ。


「……セラ……」


 精霊たちが死に物狂いで維持する結界の中、リディアは、意識のないセラを庇うように身を低くしていた。

 細い腕に、ありったけの力を込める。恐怖で震えが止まらない。


「だいじょうぶ……だいじょうぶだから……」


 声は掠れて、風の唸りに掻き消えそうだった。

 瓦礫も、嵐も、雷も、すべてが彼女たちを押し潰そうと迫ってくる。


 それでも、リディアはセラを抱きしめる腕に、これ以上ないほどの力を込めた。壊れてしまいそうなほど、強く、強く。


 戦えない。逃げられない。

 それでも、大切な仲間を庇うことだけは、決してやめなかった。


 ――遥か遠くの竜界で、竜神はかつてない焦燥を感じていた。見えない綱が、ギリギリの限界で張り詰めている。

 片方は、竜界。もう片方は――女神の座。世界の壁を超え、レイという器を媒介としてついに女神を捉えたが、その腕が今にも剥がれそうだった。


(……ぐうっ……まだこのような切り札を……!)


 霊力をほとんど残していない子供の身体では、掴んだ手を維持するだけで精一杯だった。


(……この腕だけは、何があっても離さぬ!)


 その瞬間だった。


 カラン。


 乾いた音が、瓦礫の底で小さく跳ねた。砕けた石の隙間に、白い鱗が転がっている。

 それはヴェラの胸元からこぼれ落ちたもの。血と泥にまみれながらも、その表面だけは、かすかに淡い光を宿していた。


(……鱗?)


 竜神は、思わず息を詰めた。


(……落ちたのか。あの娘のもとから)


 ――わかる。竜神には、はっきりと感じ取れた。白い鱗が、何かに強烈に引かれている。かつて鱗が宿していた力、霊力を持つものへと、必死に。


(……この鱗にあったはずの霊力……その近くに、もうひとつの霊力が……?)


 竜神は、はっとした。かつて、あの角に宿した力。この世界で、あれほど濃く、荒れ狂う霊力はひとつしかない。

 竜神の意識が、鋭く定まる。


(――あそこか!)

(だが、この肉体の主は眠ったままだ……。頼む、目を覚ましてくれ……!)


 嵐の中心で、巨体が動かなくなった。

 わずかに、嵐の質が変わる。無差別な破壊ではなく、恐るべき“収束”へ。

 暴竜魔王の踏みしめた足元から、風が巻き上がる。暴風は円を描き、重なり、異常なほどの厚みを持っていく。


 雷が、空を走った。一本、二本ではない。無数の稲妻が、まるで意思を持っているかのように同じ一点へと引き寄せられていく。

 音が、変わった。鼓膜を破るほどの轟音だった嵐が、低く、重く唸るような音へと圧縮されていく。


 暴竜魔王の周囲。もはや空間そのものが、ひしゃげるように歪んでいた。

 光が集まる。風が押し固められる。雷が、内側へと幾重にも折り畳まれていく。

 ――まだ、放たれていない。だが、次に起きることだけは、誰の目にも明らかだった。


「……っ」


 息を呑む音が、どこかで重なる。

 暴竜魔王の胸の奥。黒く、重く、禍々しい“核”が、どくンと脈打った。


 一拍。世界が、限界まで張り詰める。


 ――これ以上、溜め込めば。

 ――これが放たれれば。王都は、跡形もなく吹き飛ぶ。


 暴竜魔王は、ゆっくりと顔を上げた。その視線が、空を――いや、“天”を睨みつける。


「……帝国……ッ」


 低く、呪詛のように濁った声。次の瞬間、嵐が、完全に――不気味なほど静止した。

 それは、破滅の臨界点だった。


 ――まずい。

 レイの目に映るその絶望的な光景を、竜神は否応なく突きつけられていた。


 しかし、次の瞬間。

 “その時”が訪れた。


(――目を覚ましたか!)


 深層の闇から、確かな魂の鼓動が返ってくる。竜神が、握りしめていた『天より降る剣』を天高く掲げると、そこに収められていたはずの黒い霊力が、ぶわっと爆発的に吹き出した。

 黒い霧がレイの身体を覆い尽くしたかと思うと、一気にその体内へと吸い込まれていく。


(白き竜の鱗よ、いや、『逆鱗(エリン)』よ。お前を依り代とし――この世界に、我が意思を、我が力を受肉させてもらうぞ!)


 目覚めたレイの身体から解き放たれた強大な霊力が、今度は、すぐ近くの石畳に転がっていた“白き竜の鱗”に向かって激流のように流れ出す。


 レイから引き抜いた霊力。竜神の意思。そして、その場に残された一枚の鱗――。

 それらが一つに交わった瞬間、血と泥にまみれていた鱗が、まばゆい神気を放ちながら猛烈に膨れ上がった。


 それは今、猛烈な引力で、本当の主であるエリンを求めて叫んでいる。

 骨組みが肉を成し、それは瞬く間に、神聖なる“小さな黒い竜”の姿へと変化を遂げていく。


(やはり、“顕現”というには不十分ではあるが……今は飛べさえすればいい……!)


《精霊よ、ここは任せる! 我が戻るまで、耐えるのだ!》


 そう力強く言い残し、白き竜の鱗(エリンの心臓)と一体となった小さな黒い竜は、一直線に引き合う霊力――エリンの元へと飛翔した。


 そのとき――暴風の内側。

 絶対的な死の領域に、淡い光が、無理やり裂け目をこじ開けた。


「ちょ、ちょっと待ってよ!! 風つよすぎ!!」

「聞いてないんだけど!? こんなの!!」

「でも行くよ! 行かなきゃでしょ!!」


 半泣きの声を振り絞りながら、土の精霊たちが、風に押し潰されそうになりながらも踏ん張る。地面を強く掴み、必死に崩壊を支える。


「足場つくる! ほら、今!!」

「ずるい! わたしも! わたしも支える!!」


 風の精霊が、吹き荒れる渦の隙間を縫うように、弾丸の速度で突っ込んだ。


「うわああ、無理無理無理!!」

「文句はあと! 今は前!!」


 水の精霊が、瓦礫の底の血と熱に触れた瞬間、弾かれたように声を上げる。


「……っ、ひどい……」

「ヴェラ……これ、ほんとに……」


 義肢は砕け、肉は裂け、命の灯火は今にも消え去ろうとしている。あまりの凄惨さに、精霊たちは一瞬、言葉を詰まらせた。

 ――だが。


「でも!!」

「だから!!」


 精霊たちは、涙声で声を重ねた。


「絶対、死なせないから!!」

「約束したもん!!」


 光の手が、一斉に伸びる。砕けた義肢に触れ、裂けた胴に触れ、そして――


「ヴェラ!!」


 確かに、“彼女”の命に、触れた。

 次の瞬間。それを拒絶するように、嵐が鼓膜を破るほどの唸りを上げた。


「うわっ!? ちょ、怒った!?」

「怒ったねこれ!!」

「でも、絶対に離さないよ!!」


 精霊たちの放つ光が、嵐に抗うように一層強く輝く。


 ――まだ、連れ戻せてはいない。

 ――それでも。


「ねえ、聞こえる!?」

「起きなさいよ!! 返事しなさいよ!!」


 賑やかで、優しくて、必死な声が、死の嵐の中心で食らいついていた。


 ――爆発の、直前だった。

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