(42)シロとクロとエリンの40日
ドゴ――ンッ!!
衝撃。とんでもない爆音。
『災厄』の力を無理やり引っ張り出された私の身体は、大きな石造りの部屋の床へ、ドカンと叩きつけられた。
砕けた石の破片がバラバラと跳ね、私の体から溢れ出した黒い霧が、冷たい床を這うようにゆっくりと広がっていく。
……それから、どのくらいの時間が過ぎたのか。
気づけば、この見知らぬ場所に放り出されてから、すでに数日が経過していた。
(クロさぁ……どうすんのよ、これ)
意識ははっきりしているのに、指先ひとつ持ち上がらない。身体の重みは感じるのに、まるで他人の肉体を借りているような、ひどく頼りない感覚。
《……むう。なんとも、申し開きようがない》
クロの声が、どこか気まずそうに響く。
あの大陸での最後、あいつは私の胸の奥にあった“彼女”――心臓だった“白き竜の鱗”を、勝手に切り離してヴェラに預けてしまったのだ。
「伝言を頼んだ」とか何とか言っていたけれど、結果として私は今、心臓を置いてきぼりにされたまま、こうして城の床に転がって身動きが取れずにいる。
百パーセント、クロのやらかしである。
そのせいで私たちは今、古びた城の床に転がったまま、ただの「動かぬ肉塊」と化していた。
あの光の剣に貫かれた直後、私たちは確かに世界を越えた。クロによれば――計画通り。とある女神が守護する世界に、転移したらしい。
……本当に計画通りなの? この、ピクリとも動けない状況が?
そしてシロの説明では、あの剣に貫かれた者は、人間と災厄とで別々の場所へ転移する性質を持っているらしい。剣に刻まれた術式の影響だとか。
あの一瞬でそこまで分析するなんて、シロって実は、クロよりずっと有能なんじゃ……。
《クロよ、そう謝るでない。案ずるな》
《こうして三人水入らずじゃ。エリンも本当のところは、我らとの語らいを喜んでいるはずじゃ》
……前言撤回。やっぱりこの二人、セットで適当だわ。
(ヴェラ……サイ……)
動かぬ胸の奥で、大切な人たちの名前を呼ぶ。
返事はない。けれど、不思議と不安はなかった。あのふたりが、私をこのまま放っておくはずがない。
(絶対、迎えに来てね。信じてるから)
*
暗い古城の、玉座みたいな場所。
高い天井の向こうでは、呪いのような雨風の音が止むことなく鳴り響いている。
崩落した天井の穴からは、冷たい雨粒がぽつり、ぽつりと私の頬に落ちてきていた。
《この雨……。どうやら、あの者が降らせているようじゃの》
(……え?)
意識だけで問い返す。
(誰か、いるの? 私たち以外に)
《うむ。どうやら、この城には先客がおるようじゃ。……お前と同じ、『災厄』に成り果てた存在がな》
(それを先に言ってよ!!)
本当に、この人たちのマイペースさには呆れる。
だが、言われて意識を集中させると――見えた。
玉座の奥、深い闇の中に、澱んだ黒い霧を纏った“何か”が、静かにこちらを凝視している。
(……え、これまずくない? 私たち、いきなり消されたりしない?)
《まあ、大丈夫であろう。あちらに戦意はない》
(クロ……その根拠のない自信、どこから湧いてくるのよ)
《あちらも膨大な霊力を纏った同質の存在だ。……だからこそ分かる。あやつ、今は何者とも敵対する気力がないようだ》
(……そういうものなの?)
頼りないようで、意外と頼もしい。こういう時のクロの言葉には、不思議と説得力があった。
(ねえ……あの人の周りの黒い霧、どうにかならないの? シロが全部吸い込んじゃえば、あの子も『災厄』じゃなくなる、とか……)
《それは無理じゃ、エリン》
シロの声は、いつになく冷徹で、哀しげだった。
《……わしが吸い取れる類のものではない。……そうしてやれれば、一番よかったのじゃがな》
(……そっか)
《……大方、元の世界で負の感情を溜め込みすぎたのじゃろう。あの者の、魂の最も深いところから絶え間なく湧き出しておる。》
胸の奥が、鉛を飲まされたように重くなる。
視線の先にいる、名も知らぬ先客。
(ごめんね。私たちじゃ……あなたを、救ってあげられないみたい)
*
《しかし……悪趣味じゃのう、あやつは》
(うん……。趣味がいいとは……言えないね……)
かた、かた、かた……。城のあちこちから、乾いた骨が擦れ合う音が響く。
そこには、無数の骸骨――スケルトンたちがいた。
彼らは見えない錆びた糸で無理やり引き起こされたように、ぎこちない動作で、虚ろな眼窩を彷徨わせている。
(……骸骨に、何か特別な思い入れでもあるのかな)
数は、数百……いや、千を超えているかもしれない。
先客の『災厄』は、その骸骨たちの軍勢を引き連れて、城を離れていった。
そして数日後、深い傷を負って戻ってした。――目に見えて数を減らした骸骨たちを引き連れて。
欠けた頭蓋。砕かれた肋骨。原形を留めず、砂のように崩れゆく仲間を、彼はただ黙って見つめていた。
(……誰かと、戦っているの?)
《そのようじゃ。あの女神が『災厄』をここへ転移させている理由も、おそらくはそれ。……外敵と戦わせるためじゃろう》
無理やり『災厄』にされ、理不尽に戦わされ続ける。
(……可哀そう。あまりにも、救いがないよ)
黒い霧の向こうで、先客の『災厄』が、再び骸骨たちを従えて城の門を出ていく。
私は、その後ろ姿を、動かぬ視線でずっと見送っていた。
黒い霧。歪んだ角。そして、終わりなき戦いへと赴く、孤独な背中。
――光の剣に貫かれて、消える。
――でも、それは“終わり”を意味しない。
(……ねぇ、クロ)
《なんだ》
(前に聞いた『災厄の子』の話なんだけど、聞いてくれる?)
大陸の端へ向かい、恋人と一緒に旅をして――
そこで『災厄』となり滅んだ、って言われてた人。
(あの人……本当に、あそこで“終わった”と思う?)
《分からん》
間を置かず、クロは短く答えた。
《剣に貫かれれば、待っているのは死ではない。ただ、世界を越えるだけだ》
少しの沈黙。
《我らと同じように、別の地へと放り出されたのだろう。それ以上は、我らにも分からん》
それだけだった。
黒き霧。漆黒の角。そして、戦い続ける背中。
町で聞いた噂と、今、目の前にある現実が、静かに、そして残酷に重なっていく。
――もし、あのとき。
――すべてが“終わった”のではなく、この地獄が始まったのだとしたら。
《……》
それまで沈黙を守っていたシロが、ぽつりと、憐れむように言った。
《……エリンが、そう思うのも無理はない話、じゃの》
私は、それ以上、何も言わなかった。
ただ胸の奥で、確信に近いひとつの考えが、消えることなく疼き続けていた。
――それが、あの孤独な『災厄』の後ろ姿を見た、最後だった。
* * *
(……暇だなぁ)
時間の感覚も、昼夜の区別さえも曖昧な暗い古城。
やることといえば、動かない身体の中で、ただあれこれと考えることくらいしかなかった。
(ねぇ、クロ)
《なんだ》
(こんな場所で、ずっと待ってるだけでいいのかな。私たち)
しばらく、返事がなかった。クロも何かを考えているのか、あるいは単に寝ているのか。
(ヴェラたちが、本当にこの世界に渡ってきたとき……私たちに気づくと思う?)
《……案ずるな。“角”を覚醒させるために、お前を貫いたあの剣を持つ者が、この地を訪れるはずなのだ。それが“我ら”の計略なのだからな》
(……角?)
《ああ。かつて我が宿っていた、角のことだ。あの剣には、“角”を覚醒せよと伝言を残してある》
(……ここに、ないよね? その角)
少し、間を置いてから、核心を聞いてみる。
(……サイのおでこに残したままだよね、角。 どうして、ここにあるって思ったの?)
《あっ……》
短く、間の抜けた声が脳内に響く。
(今、気づいたの!?)
《……》
《……案ずるな、エリン。多少の齟齬は、なんとかなるじゃろう》
なるか!
ダメだ、この人たち――。頼りになるんだか、ならないんだか、本当にもう……。
*
(ねぇ、ところでさ)
《ん? なんじゃ》
(どうして、シロとクロは言葉を話せるの?)
《なんじゃ、今さらなことを聞くのう》
(はは……ごめん。今ごろになって、ふと気になっちゃって)
《竜にはな、“並列思考”という能力があっての》
(へいれつしこう……?)
《同時に、まったく別のことを考える能力のことじゃ。竜は、その身にある鱗の数だけ、同時に思考を巡らせることができるのじゃよ》
(えっ……鱗の数だけ!? ……すごすぎる……)
《クロもわしも、もともとは竜の鱗に宿っていた霊力の一部。言うなれば、その“並列思考”のひとかけら。竜本体とは別個で動く“心”のようなものじゃ》
(ほえー……。鱗の一枚一枚に、心があるみたいな感じ?)
《そうじゃ。だからこそ、こうしてお前の話を聞いたり、軽口を返したりできておる》
(じゃあさ、本体の竜が今、何を考えてるかも分かるの?)
《本来ならばな。繋がっておれば、本体の思考を共有できる。だが今はできん。……“別の世界”にまで、わしらの思考は届かんのじゃ》
《そもそも白き竜から剥がれ、お前がいたあの世界に落ちた日から、本体とは共有できておらんのじゃよ》
(……じゃあ、ずっと? 独りぼっちで?)
《ああ。三百年は経つかの》
(……寂しかった?)
《別に。我ら竜の感覚からすれば、三百年など寂しさを感じるほどの長さではないわ》
(ふーん。……本当に?)
《……お前がもっと早く、わしの声に気づいておれば、退屈せずに済んだのじゃがな》
……なーんだ。やっぱり。
(シロ、意外と素直じゃないんだね)
* * *
――ヴェラ。
胸の奥で、その名を呼ぶ。賢いヴェラなら、もうそろそろ世界を渡る方法を見つけているはずだ。
(ねぇ……やっぱりさ。ここにいるよ、って……合図とか出した方がいいんじゃない?)
少し迷ってから、私は二人に提案してみた。何もしないで待っているだけなんて、性に合わない。
《うーむ……やって出来んこともないが、我としてはあまり感心せんな》
(出来るんなら、やろうよ! ヴェラたちが迷わないようにさ!)
《……分かった。後になって文句は聞かんからな》
(いいからいいから。お願い!)
次の瞬間だった。
ボワッ、と――『災厄』と化している私の身体から、どす黒い霧が猛烈な勢いで噴き上がった。
それは、自分でも引くくらい、明らかに禍々しいものだった。
「ひっ……ひいいっ! 出た、出たぞぉ!!」
静まり返っていた城の遠くで、突然、男の悲鳴が上がった。
(……え?)
一拍遅れて、私は気づく。
(誰か、いたの?)
《ああ。この城を見張っていた人間だ。……これで、我らがここにいることは外に伝わったな》
(……それって、まずいんじゃ……)
《やれと言ったのは、お前だぞ》
ぐうの音も出ない。
「で、伝令――!! 伝令を出せ!!」
「魔王城にて……新たな魔王が出現したと――!!」
人間たちが騒いでる……。やばい、完全にやらかした。
クロのやらかしを笑えないどころか、私、自分で自分を「討伐対象」に指名しちゃったようなもんじゃ……。
(だ、大丈夫だよね? 人間たちが大勢で退治しに来たり……しない?)
《ふむ。それもよかろう》
今度は、シロの声が落ち着いたトーンで割って入った。
《これで、我らがここにいることに間違いなく気づくはずじゃ。お前の、待ち人がの》
(……シロ)
《賭けるしかあるまい、エリンよ。なぁに、人間が来たとて、クロとわしが何とかして見せよう》
(……うん、頼りにしているよ)
胸の奥が、少しだけ温かくなる。この適当で、どこか抜けている二人だけど……やっぱり私の味方なんだ。
*
それから、どれくらい経っただろう。
《……おや?》
ふと、シロの声色が変わった。
(どうしたの? シロ)
《わしが宿っていた鱗の気配が……》
(……え?)
《うむ……》
ほんの、わずかな沈黙。
《……気配を逃してしもうた。まだ、かなり遠くにおるようじゃの》
(……え、それって……!)
息を呑んだ。胸が、きゅっと縮む。
(ヴェラたちが……ヴェラたちが、この世界に渡って来てくれた、ってこと!?)
《そうじゃの》
シロは、拍子抜けするほどあっさりと答える。
《うむ。もうすぐ――お前の待ち人が、この地を訪れるだろうよ》
(……っ!)
やった……!
叫び出したいのを、動かない身体の中で必死にこらえる。
《クロが霧を発した日から、日に日に鱗の気配が濃くなっておったからの。まもなくじゃ。よかったの、エリンよ》
(……え。ちょっと待って。クロが霧を出した日から……?)
頭の中で、霧を出したあの日からの時間を数える。
(……おととい、だよね!)
《そうじゃが?》
(ええええ!? 早く言ってよ!!)
《二日前も今も、大して変わらんじゃろ》
(変わるよ!!)
胸の奥が、どくんと大きく跳ねた。
――ヴェラ。サイ。
本当に、来てくれた。信じてた。ずっと、ずっと信じてた。
でも……本当は、ほんの少しだけ、怖くて心細かったんだ。
* * *
《エリン……鱗の気配が》
ふいに聞こえたシロの声から、いつもの軽やかさが消えていた。
(ヴェラたち、見つかったの?)
期待と不安が混ざり合う。けれど、シロの返答は、もっと切実なものだった。
《……今までとは、違う。鱗が――こちらを、呼んでおる》
胸の奥が、ひやりとする。
理屈なんて分からない。けれど、私の半身だったあの鱗が、どこか遠くで悲鳴を上げているような気がした。
《クロ。今すぐ霧を出せ。最大出力じゃ》
《承知だ》
応えるや否や、世界がざわりと揺れた。
ブワッ――!!
城の天井に開いた穴を突き抜け、空を塗りつぶさんばかりの濃密な黒霧が、私の全身から噴き上がる。
《エリン。鱗が、戻ってくるぞ。準備せえ》
(えっ……何の準備?)
《待ち人のいる場所が、はっきりと分かった》
《……こちらから向かうぞえ》
(こっちから、行くの?)
驚く私に、シロは少しだけ間を置いて、問いかけてきた。
《……居場所が分かったというのに。お前はまだ、ここで待つのかえ?》
(……シロ)
胸の奥で、何かがはっきりと定まった。
(もちろん)
(私から――会いに行くよ)
ずっとここで、じっと待っているだけの時間はもう終わり。
私の鱗が、今、戻ってこようとしているんだから。
再会したら、何て言おう。ちゃんと、声が出るかな。
早く――ふたりに、会いたいよ。




