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(41)急襲

「王都にいる……!! 第三十魔王と勇者たちを――殺しなさい!!」


 その叫びは、天上の神の座から放たれた。

 それは命令であり、逃れられぬ呪詛であり――世界そのものの理に刻み込まれる、拒否を許さぬ“絶対指示”だった。


 ◇◇◇◇◇


 王都。

 入り組んだ石畳の路地裏。崩れた煉瓦の壁。焼け焦げた地面。

 つい先ほどまで、女神に操られた黒き勇者と黒き聖女が狂気とともに暴れ回っていた痕跡が、生々しく残る戦場。

 だが、瓦礫に囲まれたその一角だけが、今は嵐の目のように不気味な沈黙を保っていた。


 遠くで巨大な建物が轟音を立てて崩れる音が響くなか――この場だけは、真空に包まれたような静けさが漂っている。


「……セラ……会えてる、かな」


 ミナの震える呟きに、誰一人として明確な答えは持たなかった。

 それでも、サイがわずかに視線を伏せ、「……ああ」と、短く確信を込めて返す。


「……会えていると、いいですわね」


 ヴェラが、白き鱗の眠る胸元に手を当てたまま囁く。そのまま、そっとエリンの面影を追うように目を伏せた。


(それだけで……きっと、彼女は少しは救われる――)


 その祈るような静寂を破るように、レイの姿をした竜神がサイに問いかけた。


「お主に聞きたい。この身は“負の霊力”を纏った『災厄』だった。そう言ったな」


「ああ。そうだけど……」


「では、この身にあった霊力はどうした?」


 竜神の問いに、サイは自身が握りしめている『天より降る剣』へと視線を落とした。


「それなら、この剣に吸収されているはずだけど」


「ならば、その剣を貸せ。我が霊力が“ここ”にない以上、その霊力で顕現を試みる……あまり期待はできぬがな」


 竜神の突拍子もない提案に、ヴェラがすかさず不安げな声を上げる。


「……でも、レイの身体は霊力に耐えられるの? また『災厄』に戻ってしまわないの?」


「その心配はないだろう。……ただし、この者が目覚めぬのなら、再び霊力に飲まれるであろうな」


 淡々と告げられた残酷な条件。その言葉の裏にある意図に気づき、ヴェラはハッと息を呑んだ。


「つまり、試すには……レイが目を覚ます必要があるのね。そういう意味もあって、セラに手を貸してくれた……」


「……そうだ。本来の肉体とはいかないまでも、少しは飛び回れる姿となることができれば僥倖。我が霊力を持つ者を探すことも出来よう」


「……!?」


 ヴェラの翠の瞳が、大きく見開かれる。


「本当に……エリンを探してくれるの……?」


 先の見えない不安に包まれていた彼女の胸に、かつてないほど強く、確かな希望の光が灯った。その震える横顔を見て、サイは小さく息を吐き出す。


「そういうことなら、分かった。剣を貸すよ。いいだろ? ヴェラ」


「え……ええ……。お願いするわ」


 サイは剣の柄を握り直し、レイの小さな手を借りた竜神へと、その物騒な神造兵装を差し出した。


「その代わり、くれぐれもレイが『災厄』に戻らないように、慎重に頼むぜ」


「我を誰だと思っておる?」


 竜神は尊大に鼻を鳴らし、その剣をしかと受け取った。

 そして、精霊たちが幾重にも編み上げた結界の中で、静かに横たわるセラへと視線を向ける。その瞳は固く閉ざされたまま、意識の気配は現世のどこにもない。ただ、かすかな寝息だけが、真空のような静寂の中で微かに揺れていた。


「だが、この者が目覚めるかは、あの娘次第……。結果を待つとしよう」


 その孤独で、けれど確かな愛に満ちた対話を、今はただ、何があっても邪魔はさせない。

 彼らの背中には、そんな静かな決意が宿っていた。


 その時だった。

 低く、濁った不快な揺れが地の底から響いた。

 重力そのものが変質したかのように、地面がわずかに沈み込んだ。


 空気の色が変わる。目に見えぬ巨大な圧が、じわじわと全員の肺を押し潰していく。

 ひどい耳鳴りを伴う沈黙。急激に沈む気圧。ガチガチと震える石畳。


「……っ!?」


 誰かが息を呑んだ。エイデンが、反射的に顔を跳ね上げる。


「……何か来るぞ!!」


 その警告の瞬間、世界が爆ぜた。

 暴風が路地を抉るように吹き込み、視界を奪うほどの豪雨が世界を黒く染め潰す。頭上で雷鳴が狂ったように弾け、大気が悲鳴を上げて割れた。


「な――っ、何だよ、これ……!!」


 ハルトが咄嗟に防御詠唱を始める。だが――遅い。

 破壊の化身がそこにいた。

 漆黒の風と雷が避けて描く、異様な空白の中心。

 そこに――“何か”が、立っていた。


 人の形をしている。けれど、明らかに人ならざるもの。

 天を突く漆黒の角。脈打つほどの過剰な霊力。ただ存在するだけで空間を歪ませ、拒絶を強いる異形の影。


「……勇者、なのか……?」


 誰かが、かすれた声で漏らした。だが、それは違った。

 その“何か”――暴竜喰らいが、ゆっくりとこちらを向く。

 目が合ったわけではない。ただ、「見つけ出された」という確信だけが、死の予感と共に背筋を駆け抜けた。


 一歩、踏み出す。

 たったそれだけで石畳は粉々に砕け散り、周囲の空気が圧壊する。

 ヴェラがとっさに、眠るセラの前へと飛び出した。


「……セラは、まだ戻ってませんわ……っ!」


 ヴェラの悲痛な叫びは、冷え切った大気の中に虚しく消えた。

 背後のセラは今も、意識を飛ばしたまま、深層の奥で魂を繋ぎ止めている。

 ――戦えない。守りきれるのか。

 背筋が凍り、息が詰まる。これは、まともな「敵」ですらない。自分たちを、確実に抹殺するためだけに放たれた、神の猟犬なのだ。


「……クソッ、やるしかないっ……!!」


 ハルトが剣を握り直し、心臓が跳ね上がったその刹那。

 溜め込まれた嵐が、ついに解き放たれた。


 すべてを飲み込むはずの暴風。だが――。

 何も、起きなかった。いや、起きなかったのではない。

 暴竜喰らいの拳は、ハルトの眼前に迫ったまま――その濁った瞳で彼を真っ直ぐに捉え、ピタリと止まっていた。


「……ユウシャ……」


 地を這うような、濁った声が洩れる。


 ギリ、ギリギリィッ!!


 暴竜喰らいの魂を縛り付けていたはずの『絶対指示』の理が、おぞましい音を立てて軋み、内側からひび割れていく。


「……アア……勇者……」


 溢れ出ていたどす黒い殺意が、霧が晴れるように消えていく。

 神の強制力すらも凌駕する、底知れぬ凄まじい執念が、彼から女神の猟犬としての殺戮衝動を削り落としていく。


「……俺モ……」

「……ソウ……ダッタ……」


 握りしめられた異形の拳が、わなわなと震える。


「……帰ロウト……」

「……タダ……ソレダケ……ダッタ……」


 風が、低く慟哭するように唸る。


「……仲間……」

「……皆ンナ……」


 そして、その声は裂けるような絶叫に変わった。

 魂を縛っていた神の呪詛が、完全に砕け散る。


「……殺サレタ……!! 全員、女神に殺サレタんだ……!!」


 膨大な霊力が、爆発的に拡散した。


「……アイツ……!!」

「……女神ィィ――!!!」


 天が割れた。

 再び牙を剥いた嵐が、ハルトたちを飲み込むかと思いきや、そのすべてが転移者たちを避けるように渦巻く。雷は天を貫き、風は咆哮する。

 そのすべてが、ただ一柱の神を――天を裂くために、放たれている。


「女神ィィィぃぃ――ッ!!!」


 あまりにも深すぎる怨嗟の声に、王都の空気が震える。


「……それほどまでに、女神が憎いのね……!」


 ヴェラが、猛烈な風に逆らって叫んだ。


「わたくしたちも――同じよ!」

「……あなたたちから帰る場所を、大切な人を奪ったあの女神を――討ちたい。そうなのでしょう!?」


 ――――バチッ!


 咆哮の余韻が重く残る、雨の静寂の中で。

 暴竜喰らいの、血を滴らせたような赤黒い視線が。

 ゆっくりと、磁石に吸い寄せられるように――ヴェラを、真っ直ぐに捉えた。


 ――何だ。


 暴竜喰らいの胸の奥が、不快な音を立ててざわつく。

 理由は分からない。金の髪。翠の瞳。ただそれだけなのに、どうしても視線が離せない。


(……なぜだ)


 懐かしいのか? ――違う。だが、この女の姿を見た瞬間、視界が赤く染まるほどの異常な憎悪が、腹の底からあふれ出してきた。

 混ざり合っているのだ。本来、この男の魂にはあるはずのない猛烈な殺意が、肉体の奥底でドロドロと脈打っている。


 そして――世界が、音を立てて反転した。

 かつてこの身は、世界を救う勇者だった。魔王を屠り、その存在をすべて喰らい、ついには災厄へと堕ちた。

 ――だが、今は違う。封じ込めていた胸の奥から、黒く重い“何か”が、内側から食い破るように這い上がってくる。


(……やめろ……)


 勇者の意識が拒絶を試みるが、それはもはや通じない。

 かつて喰らったはずの存在。その絶望。その意志。

 ――第二十六魔王、すなわち『暴竜魔王』。

 喰らわれたはずの怪物が、今度は勇者の記憶と意識と、その存在すべてを逆に――内側から喰らい尽くした。


 視界が、血の色に定まる。

 金の髪。翠の瞳。今度は、剥き出しの憎悪と共に、はっきりと理解できた。


(……皇族……フェルゼンの、血……!!)


 暴竜喰らいの身体が、限界を超えて軋む。

 骨が鳴り、鱗が擦れる。内部で、何かが狂暴にのたくり、せり上がってくる。

 喉から漏れる咆哮が、獣のそれから、どす黒い呪詛へと変質する。


「……憎イ……」


 不意に、脳裏に血の匂いが立ち込めた。

 ――ギィ……。錆びついた蝶番が悲鳴を上げる、あの耳障りな音。

 カツン――カツン――。静寂を切り裂く、規則正しい軍靴の足音。


『出てこい! 災厄の子!』


 背後から浴びせられる、正義を盾にした暴力。


『世界のために死ね! 感謝して死ね!』


 腕がへし折れる音。骨が砕ける音。逃げ場のない、嘲笑の囲い。


「……帝国……フェルゼン……ッ!!」


 重く濁った、地獄の底から響くような声が漏れる。

『悪いのは……お前たちだ。僕じゃない、お前らが『災厄』を生んだんだ……!』


「……許サナイ……ッ!!!」


 その一言とともに――ぎ、と。暴竜喰らいの巨躯が、物理的にきしむほど歪んだ。

 猛烈な殺意が指向性を持ち、その視線が――ヴェラを、魂ごと貫いた。


 距離が、消えた。

 構えも、助走もなかった。ただ――瞬きをした一瞬後には、彼は目の前に肉薄していた。


「――っ!?」


 丸太のような豪腕が、容赦なく振り抜かれる。

 空気が爆ぜ、その軌道上にあったすべてが、塵となって吹き飛ぶ。


「防げ――!! 全力で!!」


 上位精霊の切迫した声と同時に、土の精霊たちが一斉に呼応する。

 大地が凄まじい勢いでうねり、ヴェラの前に幾重にも重なる巨大な土の壁を築き上げた。

 物理的な干渉。防護。――間に合った。

 否。“そのはずだった”。


 ヴェラの真下、足元の石畳から――暴力的な風が、爆発的に突き上がった。


「……っ!?」


 足場が消失する。鉄壁のはずの土の壁が、内側から膨れ上がる風の圧力に耐えきれず、粉々に弾け飛ぶ。

 ヴェラは瓦礫とともに空へと跳ね上げられ――世界が、高速で回転する。

 嵐が地を這うように吼え、豪雨が身体を叩きつけ、数多の紫電が空を縦横に裂いた。


「く……っ! 何て、出力だ……!!」


 エイデンが激しい乱気流に煽られた、その視界の先。

 狂った嵐の中心。ひとつの影が滞空していた。風が厚く幾重もの壁を成して彼を守り、その内側を、無数の稲妻が獰猛に奔る。


(……偶然じゃない……)


 胸の奥に、かつて探り出したあの記述が重なった。竜を思わせる超越的な力。王都の外れ、忌まわしき封印の塔に秘匿されていた禁忌の記録。

 パズルのピースが、嫌というほど正確に重なっていく。


「……暴竜喰らい……!」


 震える声で呟いた。だが――。


「違う……」


 稲妻の檻、暴風の壁。それは記録にある「暴竜喰らい」の能力であると同時に、彼がかつて倒したはずの“あの魔王”の姿、そのもの。


「……第二十六魔王……」


 心臓が氷に浸されたように冷えていく。


「……暴竜魔王、だ……」


 その言葉を肯定するように――ひときわ鋭い雷鳴が、空を真っ二つに引き裂いた。

 天が叫びを上げ、嵐がさらなる狂気を孕んで加速する。

 そして、その異形の王はふたたび――標的であるヴェラを、真っ直ぐに見た。


 暴風が、空間そのものを切り刻むように唸る。

 豪雨が、この世のすべてを隠すように視界を濁らせる。

 ヴェラの、その翠の瞳が見開かれる。


 ――見覚えが、あった。

 けれど、それは彼女の短い人生の中で“知っているはずのない景色”だった。

 荒れ狂う空。奔る稲妻。引き裂かれる大地。

 その光景がフラッシュバックするたび、胸の奥がきりきりと、抉られるように疼く。


(……違う。知らない。わたくしは、こんな景色なんて……っ)


 必死に否定する声が、内側から漏れ出る。けれど――。

 世界が、音もなく反転した。

 ヴェラの魂に刻まれた“フェルゼンの刻印”が、その憎悪に応えるように、ゆっくりと脈打ち始めた。


 *


「姫――姫様!」


 焦燥に駆られた声が、白亜の回廊を駆け抜ける。

 かつて荘厳だった城は、今や軋みながら崩壊の途にあった。


「もう、この城は危険です! あなた様が最後の皇族です。どうか……どうか、ご無事で……!」


 老騎士の、節くれだった手が強く引かれる。


(……あ……)


 胸が、締めつけられるように疼く。これは誰の記憶か。なぜ、こんなに悲しいのか。


「……神様って、死んじゃったのかな」


 揺れる馬車の中、幼い少女の声がひとりごとのように洩れる。


「姫様――」


「ふふっ、もう姫様じゃないわ。王太子妃になって一年……子どもまで授かったというのに」


「も、申し訳ございません。長年の癖でして……」


 慈しむようなやり取り。安堵。

 だが、その穏やかな時間は、魔導器のノイズのような不気味な声によって断ち切られる。


「これはこれは、帝国の姫君であらせますな」


 湿った、蛇のような声。深緑のローブを纏った男。

 ぞわりと背筋を這い上がる、吐き気を催すほどの嫌悪。


「ふん……流石は皇族といったところか。この私などより、“器”にこれほど相応しいとはな」


(……知らない。これは、わたくしの記憶じゃない……っ!)


 そう訴えるように、頭が割れるような痛みに軋む。

 ――戻らなければ。現実へ。けれど、混濁した意識はもはや肉体を支えきれなかった。

 ヴェラの意識はふっと遠のき、世界が急速に色彩を失っていく。


 *


 意識を失ったヴェラの身体が、糸の切れた人形のように、暴風の中へと力なく落ちていく。


「ヴェラッ!!」


 誰かの叫びが響くが、それは狂暴な風の唸りに一瞬で引き裂かれた。

 すかさず土の上位精霊が、悲鳴に近い詠唱を走らせる。


「――土よ、娘を受け止めろ!!」


 大地が猛然とせり上がり、彼女を受け止めるための高い足場を築こうとする。

 だが、次の瞬間――。

 解き放たれた暴風が、そのすべてを容易く穿った。


 築かれたはずの土の塔は紙細工のように破砕され、瓦礫と共に空へと吹き飛ぶ。

 視界を塗り潰す豪雨。鼓膜を震わせる雷鳴。

 嵐が、ついにその本性を現した。

 荒れ狂う風と雨の帳を突き破り、そこから“それ”が姿を現す。


 空を覆い尽くすほどの巨大な影。すべてを噛み砕かんとする、おぞましい顎。

 まさしく、世界を滅ぼす災厄そのものの姿。


「……皇族――」


 濁った、地を這うような声が、地の底から響き渡る。


「――殺してやる。一人残らず、根絶やしにしてやる」


 暴竜喰らい。否――その身に魔王を宿した、暴竜魔王。

 その巨体が、落下するヴェラへと、逃れられぬ死の速度で襲いかかる。

 避ける術も、防ぐ手段も、もはやどこにもない。


 ――そして。

 冷酷な金属音を伴って、巨大な上顎と下顎が、ヴェラの細い身体を――無慈悲に挟み込んだ。


 ガシャンッ……!!


 ゴーレムの義肢がなす術なく粉砕され、剥き出しになった生身の肉が悲鳴を上げる。赤い飛沫が――血が、雨に混じって鮮烈に散る。


「ヴェラぁぁぁぁぁ!!」


 サイの絶叫が路地裏に木霊するが、それさえも嵐の咆哮にかき消される。

 その、絶望の只中。


 ヴェラの胸元から、彼女が大切に抱えていた“白き竜の鱗”が――。

 主を失った蝶のようにひらりと宙を舞い、狂った嵐の中へと、音もなく零れ落ちていった。


 *


 ――音が、遠のいていく。


(ここは……培養液の中……?)


 重さも、自らの輪郭さえも定まらない、ぬるま湯のような浮遊感。


(……わたくし、また……)


 意識の端々から、忌まわしい記憶が黒いインクのように静かに滲み出してくる。


(あの男に……身体を、溶かされたのね……)


 耳の奥で、粘りつくような男の声が反響する。


『……そうだ。次は、子を産んでもらおうか』


 冷酷で、実験動物を品定めするかのような淡々とした声音。


『――子ならば、人工生命体の枠を超えられるかもしれん』


(子供……を? わたくしが……?)


 混濁する思考が追いつかない。けれど、その悍ましい声に重なるように、別のあたたかな声が、遠い日の風に乗って届く。


『も、申し訳ございません。長年の癖でして……』


『ふふっ、王太子妃になって一年。子どもまで授かったというのに。なかなか呼び方が抜けないのね、ばあや』


(ばあや……?)


 懐かしい。ひどくあたたかい。胸の奥に――確かに残っている、柔らかな陽だまりの感触。


(そうだ……わたくしには、もう……)

(……男の子が……)


 否。


(違う。男の子じゃない。わたくしが産んだのは――)


 その瞬間――。

 逃れられぬ激痛が、腹の奥を内側から無慈悲に引き裂いた。

 叫ぶ間もない。肉が裂け、内臓が軋み、熱い血が溢れ出す。

 そして――。

 その血の海の中で、何かが産声を上げた。


 角。羽根。

 血に濡れた、小さく、けれどあまりにも神々しい身体。


(……あ……)

(そう……だわ……)

(わたくしが……この腹で育て、産み落としたのは――)


 胸の奥に、愛おしい名が弾ける。


(エリン)

(“白き竜の鱗”に宿る神気を糧として、この身から命を授かった――)


 わたくしの、たった一人の、愛しい女の子。


(……エリン……っ)


 視界が、涙と血で滲んでいく。


(……どこに……いるの……?)


 震える手を伸ばす。けれど、その指先は虚空を掴むだけで、愛娘の温もりに触れることは叶わない。


(エリン……)

(……ごめんなさい。もう一度……もう一度だけでいいから、あなたに会いたかった……)


 その掠れた心の声は、狂った嵐に吹き荒れる現実世界には届かない。

 ただ、深く、暗い深層の海だけが――親子の絆を引き裂くように、静かに、冷たく揺れていた。

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