(40)懐かしい匂い
「だから、わたくしにも協力させて。“白き竜”を救いましょう」
「……感謝する」
誇り高き竜神が、ヴェラに向けて深々と頭を下げた。顔を上げた竜神の視線が、ふとヴェラに固定された。
「はて。お主からは……微かにだが、確かな『竜の気配』がするな……」
「え……?」
竜神はじっとヴェラを見つめ、静かに尋ねた。
「そして――隠し持っている、それは?」
ヴェラは胸元へ手を伸ばし、大切にしまっていた小袋を取り出す。柔らかな布を静かにほどくと、掌の上に『白き竜の鱗』が姿を現した。
竜神は、わずかに目を見開いた。
「……白き者の鱗。霊力は宿ってはおらぬが……。そうか、“それ”をそなたが持っていたか」
竜神は静かに息をつき、安堵をにじませた声音で続けた。
「その鱗が、そなたらの世界へ落ちたことは分かっていた。だが……我らとて、支配領域の外へ干渉するのは難しい」
竜神は、わずかに寂しげに目を細める。
「三百年もの間、人間どもに弄ばれていたそれを……よくぞ取り戻してくれた。同族よ。そなたが、見つけ出してくれたのだな」
(わたくしから竜の気配……そうか。わたくしはこの“白き竜の鱗”の霊力で生み出されたホムンクルスだから。だから――この気配が体に残っているのね……)
自身のルーツを静かに噛み締めるヴェラに、竜神は穏やかに告げた。
「そなたに礼を言おう。ありがとう」
「い、いえ……そんな……!」
その光景を、土の上位精霊はひどく落ち着かない様子で眺めていた。そして、耐えきれなくなったように鋭く口を開く。
「精霊王の匂いに、竜の気配……か。契約者よ――お前は一体、何者なのだ?」
「わたくしは――」
ヴェラは困ったように、ただ首を横に振ることしかできなかった。ヴェラの絞り出すような沈黙が、ふと、瓦礫の山に重く沈む。
その静寂の中で、セラは呼吸の仕方を忘れていた。
息を吸おうとすれば、胸の奥が軋むように痛む。吐き出そうとすれば、自分の中の取り返しのつかない大切なものが、一緒に零れ落ちてしまいそうで。
だから、吸うことも吐くこともできずに、ただ浅く、喉の奥だけがひくりと鳴る。
――レイ。
心の中でその名前を呼んだ瞬間、視界がぐにゃりと歪んだ。
(……生きてる)
彼の身体は、確かに目の前にある。
(……でも、目を覚まさない)
その残酷な事実が、一拍遅れて全身に殴りかかってくる。
胸が詰まり、視界が滲む。
ここにいる。確かに、ここにいるのだ。手を伸ばせば触れられる距離に、同じ世界の、同じ空の下に。
――それなのに。
『……レイじゃ、ないの?』
さっき、自分が心の中で零したその言葉が、今になって耳の奥で何度も、何度も反響していた。
違う。他の誰かであるはずがない。
だってこの世界に来て、もう一度彼を見つけ出したとき、最初に気づいたのは――彼の『匂い』だったのだから。
土と風と、少しだけ焦げた魔力の残り香。それに混じる、どうしても忘れられなかった懐かしい匂い。
何度も夢に見て、何度も思い出そうと必死に足掻いて、それでも少しずつ記憶から薄れていってしまった――あの愛おしい匂い。
(……レイ)
祈りながら、死んだ。それだけは、はっきり覚えている。
元の世界で、『災厄』になってしまった彼の無事を祈りながら。自分には何もできない無力さを呪い、ただ祈り続けて、そして――命が尽きた。
『チキュウ』と呼ばれる平和な世界に転生し、前世を思い出して最初に感じたのは、「ここにレイはいない」という絶望だった。
空は青くて、風は穏やかで、ただ生きるには十分すぎるほど満たされた世界だったのに。そこに『彼』はいなかった。
レイのいない新しい生に、意味なんてなかった。
だから、諦めた。何かに期待しないことを覚えて、何も望まないことに慣れて、ただ息をして生きるだけの、空っぽの時間を過ごした。
それなのに。
この世界に来て、もう一度、奇跡のように彼に会えてしまった。
会えた、はずだった。
(……なのに)
ようやく目を覚ましたと思ったら、その口から出てきたのは、知らない声だった。
知らない言葉だった。知らない、圧倒的な存在だった。
頭の奥が、じわじわと熱くなる。息が浅くなり、指先から急速に体温が奪われていく。
(考えちゃだめ)
そうストップをかけるほど、思考は残酷に暴走する。
もし――もし、これが彼が「戻ってきた姿」なのだとしたら?
もし、本当のレイの魂はもう――もう、この世界のどこにも、いないのだとしたら?
(……やだ)
喉が、またひくりと鳴る。視界の端が暗く点滅する。
そういえば――ほんの少し前、自分はヴェラに、こんなことを聞いていた。
『その先は……考えたこと、ある?』
口にした瞬間、自分でも不思議だった。その問いの答えを、自分自身がひとつも持っていなかったから。
“その先”の未来なんて、形にしようとしたことすらなかった。望むこと自体が、ずっと怖かった。
レイがいない世界で、これから先の未来を思い描くなんて、自分には絶対に許されない気がしていたから。
それでも――あの問いを口にしたということは。心のどこかで、考えようとしていたのかもしれない。
レイがいて、生きていて、もう一度、同じ場所に立って笑い合う未来を。
けれど――その続きを思い浮かべる前に。
「レイじゃないの?」と気づいてしまった自分が、胸の奥で、音を立てて静かに崩れていく。
(……だめだ。心が、追いつかない)
奇跡のような再会に。
目の前にいるのに彼がいないという現実に。
そして、自分自身の、この行き場のない感情に。
視界の端がぐらりと揺れ、セラは、暗いめまいの底へと落ちていく。
喜びも、恐怖も、祈りも、後悔も。全部が一度に押し寄せてきて、どれ一つとして、ちゃんと形にできない。
――ぐちゃぐちゃだった。
◇◇◇◇◇
暗い。けれど、光がないから何も見えないわけじゃない。
ただ、目を開ける理由がない――そんな、底なしの闇だった。
時間の感覚は、もうとうに失われている。自分が今眠っているのか、目覚めているのかも分からない。ただ、泥のように沈んだ意識の底で、同じ光景だけが、呪いのように何度も何度も繰り返されていた。
――雨。
――何日も、何日も止むことのなかった、氷のような嵐。
――水を吸って泥濘んだ地面に、彼女が静かに崩れ落ちる音。
自分の巨大な足元で、愛しい人が倒れる。
(……また、だ)
分かっている。これはただの“記憶”だ。絶対に逃げられない、俺の人生の最後の光景。
血の気を失い白くなった指先。動かなくなった冷たい身体。それでも、彼女のその目だけは、祈るようにずっとこちらを見上げていた。
(やめろ……)
声に出そうとしても、音にならない。叫ぼうとしても、俺にはもう人間の喉がない。
彼女は、倒れていた。いや――ゆっくりと、死に向かって倒れていく途中だった。
俺から溢れ出した災厄の瘴気に呑まれ、無情な時間に命を削られ、それでも狂おしいほどの祈りを込めて、こちらを見たまま。
(見るな……)
(頼むから……そんな目で、俺を見るな……!)
逃げたかった。目を閉じたかった。でも、できなかった。
――俺は、俺の身体なのに、指一本動かせなかったから。
理性を失った化け物の奥底に意識だけが縛り付けられ、何もできず、ただ、ただ見下ろしているしかなかったのだ。
愛する人が息絶え、朽ち果て、無残に白骨化していく、その最後の瞬間まで。
(……セラ)
何度も名を呼んだ。心を掻き毟って、呼んで、呼んで、それでも声は嵐の雨音に溶けて消えた。
彼女は、俺の目の前で少しずつ――“形”を失っていった。
返事はない。もう、この世界のどこにもいない。それでも、記憶は終わらない。俺を絶対に許してはくれない。
(……目を覚ましたら)
(目を覚ましたら、また――)
また、セラがいない世界が始まる。
どれだけ喉を枯らして名前を呼んでも、二度とあいつの怒った声が返ってこない、地獄のような現実が。
だから――レイは、決して目を覚まそうとはしなかった。目を開ける理由なんて、どこにもなかった。
この閉ざされた深層の闇の中に引きこもっていれば、まだ“あの頃”が残っている。
セラが呆れたように笑っていて、隣を歩いていて、照れ隠しに俺を怒鳴って名前を呼んでくれる――そんな優しい記憶の残骸だけを抱きしめていられる。
(……ここでいい)
(ずっとここに、いればいい)
深層の闇は、ひどく静かだった。肉体の痛みも、喪失の恐怖も、もう遠い。
ただひとつ、胸の奥にこびりついて離れない『温度』だけが、静寂の中で微かに揺れている。
――ふと。
懐かしい匂いがした。絶対に忘れきれない、あのぬくもり。
(……なんだ)
(この感じ……)
その温度が、少しだけ、近づいてくる。
もう二度と、永遠に届かないはずの場所から。
◇◇◇◇◇
セラの周囲だけ、ひどく冷たい時間が止まっていた。
まるで、その場に縫い留められてしまったかのように。誰かに支えられているわけでもなく、かといって、自分の足で立っているという実感もない。ただ、空間にぽつんと“置かれている”ような、ひどく危うい姿だった。
「……セラ。顔色、すごく悪いわ」
リディアが心配そうに寄り添い、そっと声をかける。
「無理してない? 少し休む?」
セラは、反応しなかった。
けれど、その声が深い泥の底に届いたのか、だらりと下がっていた指先が、わずかに震えた。
次の瞬間だった。セラはふらりと虚ろな視線を上げ、正面に立つ竜神――レイの顔をした圧倒的な存在――を見た。
怒りだったのか、それとも、ただ助けを求めているだけだったのか。本人にも、もう分からなかった。
「……あんたが、入ってるから……」
ひび割れた声が、掠れて喉から落ちる。
「レイは……起きないの?」
それは冷静な問いかけでも、確信を持った非難でもなかった。
ただ、行き場を失ってぐちゃぐちゃになった感情が、たまたま目の前にいる竜神という『理由』にすがりついてしまっただけの――あまりにも弱く、人間的な反応だった。
竜神は、すぐには答えなかった。
レイの顔立ちのまま一瞬だけ静かに目を伏せ、それから、深く澄んだ声で告げる。
「……否」
短く、断定的。それは、紛れもない『神』の声音だった。
「目覚めぬ理由は、我ではない」
セラの喉が、ひくりと鳴る。竜神は静かに続けた。
「この身体の“深層”で、こやつ自身が目を閉じ続けているのだ」
そして、言葉を選ぶように、ほんの一拍を置いて。
「――目覚めた先に、お前がいないと、思い込んでいるからだ」
その瞬間。
セラの中で、張り詰めていた何かが音もなく落ちた。けれど、確かに砕け散った。
「……」
言葉が出なかった。竜神は、視線を逸らさないまま、低く平坦な声で続ける。
「……行き場のない怒りなら、我にぶつけて構わぬ」
謝罪ではない。言い訳でもない。ただ、彼女のぶつけようのない絶望を、事実としてそのまま受け止めた声音だった。
「だがな。彼が永遠の眠りを選んでいるのは、お前を失った“記憶”から逃れるためだ」
セラの血の気のない唇が、震えた。
「……レイに……」
声が、か細く溶けていく。
「私が……“生きてる”って――伝えられないの……?」
願いでも、命令でもない。ただ、すがるような、子供のような問いだった。
竜神は、すぐには答えなかった。だが、やがて。
「……できぬことはない」
その力強い言葉に、死んだように濁っていたセラの瞳が、わずかに揺れる。
「……我は“有能”であるからな」
竜神は、はっきりと告げた。
「だが――我がそれを伝えたところで、目覚めることはないだろう」
そして、静かに、一歩踏み出す。
「行け」
「お前が自ら行って、伝えてこい」
「――お前は、ここにいるのだと」
「……え?」
声になったのは、それだけだった。
「……無事に戻す。お前たちを、二度と引き裂きはせぬ」
竜神が静かに目を細めたその言葉を最後に、セラの足元の感覚が、ふっと失われた。
意識が、白い光に包まれて遠のいていく。倒れたわけじゃない。眠ったわけでもない。ただ、ここではないもっと深い場所へ、そっと魂だけが引かれていく――そんな不思議な感覚だった。
がくりと崩れ落ちそうになったセラの身体を、風の上位精霊が素早く動き、ふわりと支える。
「精霊たち、彼女を頼む」
「はーい!」
土の精霊が柔らかな地を固めてベッドを作り、風の精霊が気流を整えて彼女を包み込む。まるで壊れ物を扱うように、セラの身体は静かに横たえられた。
呼吸はある。鼓動も、確かに打っている。
ただ――意識だけが、レイの深層へと深く沈んでいった。
その一部始終を見ていた土の上位精霊が、思わず感嘆の息を呑んだ。
「……さ、さすがは竜神様……!」
「依り代の深層へ、他者の意識を無傷で導くなど……まさしく、神の御業……!」
畏れおののく精霊たちに対し、竜神は呆れたように鼻で息を吐いた。
「……大げさだ」
そして、愛おしいものを見るような目で、横たわるセラを見下ろしてぽつりと呟いた。
「ただ、“つがい”を引き合わせるだけのことよ」
その温かく不器用な言葉を。
深く沈みゆくセラの意識は、胸の奥で、確かに受け取っていた。
◇◇◇◇◇
――暗い。けれど、怖くはなかった。
まるで深い水の底に沈んでいくような、不思議なあたたかさを帯びた重み。
音はなく、時間の感覚さえも曖昧なその場所で。それでも――ここが間違いなく“レイのいる場所”なのだと、セラは直感的に理解していた。
「……レイ」
名前を呼ぶと、その声は静かな波紋となって闇の奥へと広がっていく。
やがて、足元に一点の白い光が灯った。それは、暗い水面にぽつりと落ちた雨粒のような、静寂の始まりだった。
気づけばそこは、雨の中の世界だった。
叩きつけるような激しさはない。けれど、いつまでも止むことのない、物悲しい雨。空は低く、灰色の雲が地平線の向こうまでどこまでも続いている。
ぬかるんだ冷たい地面に、ひとりの青年が座り込んでいた。
雨に打たれるままの、小さな背中。ぐっしょりと濡れた髪。――レイだった。
年齢も、姿も、セラが一番よく覚えている“あの頃”のままで。
セラは、胸を突かれる思いで息を呑んだ。
「……レイ」
震える声で呼びかけると、その青年は、ゆっくりと、恐る恐る顔を上げた。
一瞬、きょとんとして。それから、その瞳が信じられないものを見たかのように、大きく見開かれる。
「……セラ?」
掠れた声が、震えた。次の瞬間。
「――セラ!!」
レイは弾かれたように立ち上がり、泥に足を取られて転びそうになりながら、一心不乱に彼女へと駆け寄った。
セラは、突き飛ばされるような勢いのまま、反射的にその身体を抱きとめる。
水を吸って重くなった服が、互いの身体に張りついた。雨に打たれ続けた彼の肩は、驚くほど冷たく、けれど、間違いなくそこにいた。
でも、確かに、ここにいる。
「……っ」
声にならない熱い息が、喉の奥から漏れた。
「……ごめん……」
泣きじゃくるような声で、レイが先に言った。
「ごめん……セラ……俺、君を、守れなくて……」
セラは何も言わず、ぎゅっとその小さな背中に腕を回し、力を込める。
「……謝らないで」
鼻の奥がツンとして、声が震えた。
「私が……勝手についてきたんだから……」
言いかけて、セラはそこで言葉を止めた。違う。今は、そんな風に自分を責める場所じゃない。
セラは腕をほどくと、そっとレイの濡れた頬に触れた。
「……私、生きてるよ」
レイの潤んだ瞳が、不安げに揺れた。
「……え? でも、俺、確かに君が……」
「生きてる。不思議だよね……。私も、よく分からないけど」
それから、セラは彼の目を見つめ、はっきりと、自分に言い聞かせるように告げた。
「でも、私。今ここにいるの」
「迎えに来たんだよ、レイ」
レイの唇が、わずかに戦慄く。
「……でも……。目が覚めたら……セラ、いないって……」
その声は、迷子の子供のように幼く掠れていた。
「……起きたら、また……一人になるって……。それなら、ずっとこのまま……」
セラは、逃げようとするレイの額に、自分の額をそっとぴたりと当てた。
雨粒が二人の頬を伝い、ひとつに混じり合う。
「……もう、いなくならないわ」
その瞬間、ざあざあと鳴り響いていた雨音が、嘘のように和らいでいった。
「私が、ここまで来たでしょ。大丈夫。……目が覚めても、ちゃんと隣にいるから」
レイの目から、堰を切ったように涙が溢れ出した。
「……ほんと? 夢じゃない?」
「ほんと。約束する」
短く、けれど揺るぎない確信を込めて答える。そして、ふわりと優しく微笑みかけた。
「……ちょっと姿が変わっているけど、絶対に私だから。驚かないでね?」
レイは、張り詰めていた糸が切れたように力が抜け、その場にふらりと座り込んだ。
セラも、裾が泥に汚れるのも厭わずに隣に腰を下ろし、そっと彼の頭を自分の膝の上に乗せた。
膝枕。
恋人らしいことなんて、ただのひとつも、手をつなぐことすら知らないまま死に別れた二人にとって。
それは、あまりにも遅すぎた、初めての甘い時間だった。
レイは、セラの膝の上でうっとりと目を細める。
「……セラの匂い……」
小さく、深く、その記憶を確かめるように息を吸って。
「懐かしいな……」
セラは、彼の濡れた髪を、優しく、愛おしそうに何度も撫でた。
「……うん」
空からは、静かな雨が降り続けている。けれど、もう寒くはなかった。
「……次、起きるの……」
レイは、心から安堵したように、眠たげな声を漏らした。
「……ちょっとだけ……楽しみだな……」
セラの喉が、きゅっと鳴った。こらえていた熱いものが、目尻からこぼれ落ちる。
「……私も。私も、楽しみよ」
そう答えると、レイは幸せそうに、静かに目を閉じた。
雨上がりの光が、世界の端から差し込もうとしている。
セラは、もう何も言わなかった。
ただ、静寂の中で眠る彼の髪を、壊れ物を扱うように、いつまでもそっと撫で続けていた。




