(38)竜神
ミナの放った光が完全に収まった――その瞬間。
限界まで張り詰めていた糸がプツンと切れたように、転移者たちは次々とその場にへたり込んだ。
瓦礫の山と化した王都の中心。
かつて美しい白壁が並んでいた街並みは、影ひとつ残さず黒紫の灰に沈み、冷たい風がひゅう、と虚しく吹き抜けていく。
「まさか……過去の勇者たち全員で襲ってくるなんて……」
リディアが、震える両腕を抱きしめながら呟いた。
「……おかげで王都は、このざまだ」
崩れた瓦礫に背中を預けてへたり込んだエイデンが、忌々しげに周囲を見渡す。
完全な壊滅。遠くではまだ微かな轟音が響き、崩れる建物の音が風に乗って届いてきた。
「あれを自力で切り抜けるとはな……」
ふいに、空気が重く震えた。
腕の中で眠るレイを抱きしめながら座り込んでいたヴェラの前に、土の上位精霊が姿を現し、憔悴しきった一行を静かに見下ろす。
「上位精霊さま……どうして先ほど、逃げろだなんて……!?」
ヴェラの切実な問いに、上位精霊は沈痛な面持ちで目を伏せ、自身の半透明な指先を忌々しげに見つめた。
「我が……愚かだったのだ。あの女神の力を、我は完全に読み違えていた。先刻の処刑人どもが振るったのは、もはや理の内にある魔法ではない。……神の『権能』そのものだ」
上位精霊は深くため息をつき、逃れようのない現実を突きつけるように言葉を重ねる。
「人や精霊の理では、どうにもならぬ相手だと分かったのだ。……娘よ。もうよい。我ら精霊が命に代えて、お前たちの退路を拓こう。生きて、逃げ延びるのだ」
「……また、そうやって勝手に諦めるのですか?」
珍しく、ヴェラが語気を荒げた。その瞳に宿る激しい光は、あの日、召喚の間で上位精霊を真っ向から叱りつけたミナのそれと、同じ熱を帯びていた。
「わたくしも、ミナと同じ気持ちですわ。女神を倒すと決めて、わたくしたちはここまで来たのです。逃げ延びたところで、女神に見限られたこの世界には滅びの道しかないのでしょう? わたくしは、ここで諦めるなんてできませんわ」
「……ただ逃げろと言っているのではない。とにかく、この王都をすぐさま出なければならぬ……」
「……!? でも、わたくし、先ほどまで極大魔法が使えたわ」
「我は止めたのだがな。下位の精霊どもが、お前のために戦うと、自らの存在を削って魔力を注ぎ込んだのだ。底を突けば、意思のないただの微精霊に戻ってしまうというのに」
その言葉を聞いた瞬間――。
ぽんっ! ぽこんっ! と、ヴェラの周囲に土の精霊たちが一斉に湧き出した。
「上位精霊さまのバカ! それは言わない約束!」
「あんまりです!」
「デリカシーない!」
「無慈悲!」
四方八方から、ピーチクパーチクと非難の嵐が飛ぶ。
「やかましいぞ……! 約束などしておらぬ。次から、我が命を違えるな。よいな?」
厳格に睨みつける上位精霊を無視して、精霊たちはヴェラの周りをわちゃわちゃと飛び回る。
「ヴェラ! 今度は僕が助けるね!」
「次はわたしが力を貸すわ!」
「おいらに任せて!」
そして精霊たちは一瞬顔を見合わせると――「「「あっかんべー!!」」」と、揃って上位精霊に向かって舌を出した。
「……ふふっ、あなたたち……」
張り詰めていたヴェラの顔から、ふっと毒が抜ける。
「ありがとう。でも、無理はしないで。わたくしからもお願いよ」
「ヴェラがそう言うなら……」
「……仕方ないな」
「もう無茶はしないよ……」
母親に諭された子供のように、精霊たちは一斉にしゅんとしてしまい、上位精霊はやれやれとここめかみを押さえた。
「さあ、精霊たちよ。王都脱出の準備を始めるぞ。ここを出さえすれば、あのような無理をして魔力を捻出する必要もなくなるのだ……」
「……そう急ぐことはないんじゃない?」
ひゅうと、心地よい風とともに、軽やかな声が降ってきた。
そこにふわりと姿を現したのは――土の上位精霊とは対照的な、飄々とした空気感を纏う“風の上位精霊”だった。
「やあやあ。こうやって会うのは、久しぶりだね、“土”の」
「お前は“風”の……。どうして、このような死地に……?」
「だって。僕だってその子に加護を与えたんだから、助けにくるのは当然でしょ?」
風の上位精霊はくるりと宙返りをして、ヴェラにウインクを飛ばす。
「こんにちは、君。僕は風の上位精霊だよ」
「……え? 風の上位精霊さまも、わたくしに加護を?」
ヴェラが目を丸くする。
「言ってなかったな。あの契約の儀式で加護を与えたのは、我だけではないのだ」
土の上位精霊が渋い顔で言った。
「そうだよ! 君はあの時、火、水、風、土の『四大精霊』すべての加護を受け取ったんだ! でもさー……っ」
風の上位精霊は、突如として大粒の涙をボロボロとこぼし、土の上位精霊にすがりついた。
「何でこの子、土魔法しか使ってくれないのさぁぁっ!?」
「こっちを見るな……。我が土ばかり贔屓したわけではない。この娘の魔法構造……いや、出自が関係しているのだろう」
「そうだったのですね……。風の上位精霊さま、せっかくの加護を……申し訳ありませんでしたわ」
ヴェラが困ったように苦笑する。
「いや、君は悪くないよ! ぐすっ。……そうだ、こうして来たのはね、魔力がなくて困っているかと思って」
「その通りだ。この王都周辺、霊脈が枯れておる。急ぎ、ここを離れねばならぬのだ」
「だーかーら、急がなくてもいいじゃないって。……あ、やっと話が戻った!」
風の上位精霊が、涙を引っ込めてにこりと笑う。
「地の霊脈が枯れていても問題ないさ。ここに、“風の霊脈”を繋げてあげる」
風の上位精霊が指を鳴らした瞬間。
四方から心地よい風が吹き抜け、重く淀んでいた王都の空気が、明らかな『力』を帯びて循環し始めた。
土の精霊たちが、嬉しそうにぴょんぴょんと跳ね回る。
「魔力だ……! 魔力がこの地にやってきた!」
「魔力がたくさん降ってきた!」
「魔力がこの地に戻ってきたよ!」
「ふふん。僕の風霊脈は、どうだい? どんな障害物もこの流れを遮ることは出来ない。地霊脈なんかより、とっても便利だろう?」
得意げに胸を張る風の上位精霊に、土の上位精霊が鼻を鳴らす。
「……その代わりに、魔力の総量は地霊脈に比べれば微量であるがな」
「はい、そこ! 負け惜しみ言わない!」
ぎゃーぎゃーと言い合うふたりの上位精霊と、喜んで飛び回る下位精霊たち。
そのあまりに緊張感のない光景に、ヴェラは自然と微笑みをこぼしていた。
精霊たちの巻き起こす賑やかな騒ぎが、この地獄のような王都から、黒くまとわりつく悲壮感を心地よく洗い流していくようだった。
崩れた瓦礫に背中を預けて座り込んでいたサイが、ふと息を吐き出して苦笑した。
「はぁ……。それにしても、上位精霊の加護を四つも受けてたなんて。ヴェラ、すげえな」
「本当に、わたくし自身が一番驚いてますわ……」
ヴェラも困ったように苦笑いで返す。
そのやり取りの中、サイはふと思い出したように、自分の額にある“角”をトントンと指でつついた。
「そういえば、俺にもひとり……いざって時に、手を貸してもらえそうなデカい存在がいた気がするんだが……」
「あ……竜神さま、ね……」
ヴェラが小さく返す。
「レイを救出したとき、たしかに声が聞こえたんだよな……」
サイがぼやいた、その時だった。
「……それがな、我も困っているのだ」
唐突に、ヴェラの腕の中で眠っていた子供――レイの小さな口から、地を這うような重低音が響き渡った。
「え? レイ……?」
「……やれやれ。この身体、ようやく動かせるようになったか……」
舌打ちでもしそうなその声音は、愛らしいレイのものではなく、完全に“別の高位存在”のものだった。
「レイ……じゃない?」
セラが戸惑いながら問いかける。
次の瞬間――先ほどまでわちゃわちゃと騒いでいた上位精霊と土の精霊たちが、顔色を変えて一斉にその場に平伏した。
「あ、あなたは……まさか、竜神様……!」
「うむ。我は竜神。そこのお前たち人間でも、おとぎ話や伝説には聞いたことがあろう」
子供の顔で尊大に頷くレイを前に、サイの間の抜けた声が響いた。
「えっと……」
竜神は、サイの額にある角をじろりと一瞥する。
「お主……。あの時、せっかく声が届いたというのに、話も聞かず、さっさとこやつを連れて出ていきおって……」
「あー……」
サイは気まずそうに頭をかいた。
「もしかして、あの空間にまだいたの……?」
「おったわ! あれから、ずっとな……!」
竜神は、レイの大きな瞳にうっすらと涙を浮かべてサイに訴えた。神としての威厳が、子供の顔のせいで台無しになっている。
「それは……。ごめん。あのときは、レイを救出することで頭が一杯で……」
サイが素直に謝ると、竜神はふんっと鼻を鳴らした。
「ここに置いて行かれた我は、ほとほと困り果てたのだぞ……。だが、この者の身体、不思議と霊力が流れやすくてな。ようやく、こうして“竜界”より繋げた霊力で身体を動かせるようになったのだ」
「レイは、負の霊力を纏う『災厄』になった身だから、霊力に馴染んでいたんだろうな……。そうだ、困っているって、言ってたよな?」
「うむ。その角……それに仕込んでいた我が霊力が空っぽなのだ……なぜだ!?」
その言葉に、ヴェラがひどく申し訳なさそうに、そっと手を挙げた。
「あの……その霊力は、“エリン”って子にすべて吸い取られてしまって。わたくしたちも色々と、想定外が重なってしまったの……」
「吸い取った……? ……まさか、我の計略が上手くいってなかったと……!?」
「計略って……まさか……」
「そうだ。我がつがいの白き竜を、“連れ去った者”から救い出す計略だ」
竜神の言葉に、サイの顔つきが少し変わった。
「俺のこの角は、あんたが自分の鱗で作った。『災厄』となったように見せかけるための、黒い霧を仕込んで……」
「なんだ、お主。見かけによらず、理解が早いではないか」
「見かけって……。それで、女神に『天より降る剣』を振るわせて、この世界への座標を見つけたんだったな」
「その通り。そして、我があの鱗に仕込んだ霊力には、三つの仕掛けがあってな。ひとつは剣に宿る霊力の“所有者”を我に書き換えること。二つ目は、剣を手に入れた者への“伝言”だ」
「……伝言ね。えっと……。俺が受け取ったのは、竜界の過去とこの角の“正体”。それから、剣の持つ“転移”の能力について」
「うむ。しっかり伝わっているではないか。それと、計略とは関係ないが、白き竜の鱗を三百年弄んだ人間どもへの“苦言”もだ」
「あー……、確かにそれも受け取った。それから……『災厄』となってこの世界に転移した者の、角を“覚醒”する方法」
「そう、それが三つ目だ。その剣を使い、覚醒すれば、我の霊力がその角まで届くようになる。そして、角に宿らせた黒い霧によって、我はこの地に“顕現”できるはずだったのだ」
「……ところが、角に霊力は残っていなかった……。しかも、その角を持たぬこの身体に繋がる始末……訳が分からぬ」
(それは、俺がレイの額に思いっきり頭突きしたせいかも……)
サイは内心で冷や汗を流しながら、そっと目を逸らした。
「それで、困っていたのね……」
ヴェラが同情するように相槌を打つと、サイはずっと心に引っかかっていた疑問を口にした。
「……そもそもさ……その計略、穴だらけに思えるんだけど……」
「何故だ? 我の計略に穴などないわ!」
「……だって、実際に上手くいってないよね?」
「ぐッ……」
図星を突かれた竜神が言葉に詰まるのをよそに、サイの容赦ない追及が始まる。
「この“剣”、誰に拾わせる気だったの? ただの人間が触れたら死んじゃう奴だよね…? それに、自分からこの物騒な剣に貫かれるなんて、普通しないと思うんだけど……」
「むう……」
「それに、この世界に転移させた“災厄”だって、無事とは限らないよね? 事情を知らなけりゃ、あそこの五人に討伐されていたかもしれないんだぞ」
「ぬぬッ……」
「あんた、角にカモフラージュした鱗を適当に送り込んでさ……。この世界に“角を授けし者”と“剣を授けし者”を転移させること自体は、そりゃ上手くいったよ」
「でもさ、送り込んだ後どうなるかなんて……鼻っから完全に“運任せ”だったよね!?」
その一言を耳にした瞬間、平伏していた上位精霊ふたりの顔から、サァァッと血の気が引いた。
「小僧、不敬が過ぎるぞ……! お前、分かっていないのか? この御方はただの竜などではない。因果さえも操り、我ら上位の精霊ですら足元にも及ばぬ、絶対的な高みの存在なのだぞ!」
サイの首根っこを掴まんばかりの勢いで、土の上位精霊はさらに声を潜め、必死に言い聞かせる。
「いいか、その御心の怒りに触れたくなければ、今すぐその減らず口を閉じるのだ……!」
(……高位の存在、めんどくせぇ……!)
サイはあからさまに顔をしかめた。そのやり取りを見ていたヴェラが、見かねて優しく口を挟む。
「サイ、今、この子を責めても仕方ないわ」
「……我は、子供ではない!」
「あっ……。ごめんなさい。見た目がそんなだから、わたくしったら、つい……」
ヴェラが慌てて口元を押さえる。竜神は深くため息をつくと、尊大に腕を組んでみせた。
「……まぁ、よい。そこの小僧の無礼も許そう。『霊力を吸い取った』と言ったな。その者は、この世界にいるのだな?」
「ええ。わたくしたちは、その子を追って、この世界にやってきたの。この世界のどこかに、きっといるはずですわ」
「分かった……その者については、ひとつ支度が整い次第、我が探そう。その前に、重要な話がある」
竜神はレイの小さな口元に薄く笑みを刻み、ゆるりと周囲を見渡す。
「女神の居場所を突き止めた――と言ったら、どうする? お前たち」
「……!?」
一同が同時に息を呑んだ。
信じられないという顔をする転移者たちを満足げに見回し、竜神は話を続ける。
「この肉体の“深層領域”に、女神が直接介入してきたのだ。……お前が死にかけていた時だな」
サイが腕を組んで、眉をひそめる。
「ああ、あの時か」
「うむ。だがあの時は一瞬で逃げられた。……それゆえ、我はずっと“待っていた”のだ」
疲労困憊のエイデンが、瓦礫から身を乗り出して興味深げに問う。
「つまり……条件が整う“合図”を待っていたってことか? 何を?」
竜神は、レイの小さな胸をポンと軽く叩きながら続けた。
「――女神がこの肉体にもう一度、“意識を向ける瞬間”を、だ」
全員が唾を飲み込む。
「意識を向ければ、その“意識の爪痕”がこちらに触れる。その刹那、我は女神の居場所を逆算できる」
圧倒的な力を持つ神ならではのロジックに、全員が引き込まれていく。
「そして……つい先ほどだ。あやつがこの者を思い浮かべた瞬間――我は逃さなかった。女神の居場所を、完全に“捉えた”のだ」
圧倒的な絶望の中に差し込んだ、確かな反撃の糸口。竜神はすぐさまその幼い顔に、神としての重い威厳を宿して言葉を継いだ。
「しかし、ここが女神の“絶対領域”である以上、簡単には我もこの地に干渉することは叶わぬのだ……」
「――“絶対領域”……」
真剣な解説の中、ぽつりと呟いたハルトの顔面に、隣から物理的な痛みを伴うほどの『ジト目』が突き刺さった。
「……ハルト?」
「ち、ちがっ……! そういう意味で反応したんじゃなくて……!」
ハルトは慌てて顔の前で手を振り、ミナの氷のような視線から逃れようとする。
――『絶対領域』。それが、ミニスカート(またはショートパンツ)とニーハイソックスの間に存在する、太ももの魅惑の素肌を指す言葉でもあることを知っているのは、この場においてニホン人であるハルトとミナのふたりだけだった。
竜神は、そんなニホン人のどうしようもない動揺など気にも留めず、淡々と解説を続ける。
「“絶対領域”とは、我ら竜界からですら観測できぬ特別な場所。竜や神といった存在がそれぞれに持つ固有の領域であり――その支配者以外、何者も侵すことはできぬ」
竜神はゆるりと姿勢を正し、転移者たち全員を見渡した。
「だが。ようやく……ようやくだ。あの女神に我が爪が届いたのだ……。お前たちは女神を討とうとしている。そうであろう?」
リディアが力強く頷く。
「ええ。魔王の出現と、勇者・聖女召喚の狂ったループを終わらせるため」
サイも続く。
「二度と『災厄』で、あの世界を傷つけさせないため」
エイデンも、静かに言葉を重ねた。
「二度と、俺たちのような望まぬ異世界転移が起きないようにな」
それぞれの固い決意を受け止め、竜神は深く息を吸い――告げた。
「我は女神の居場所を突き止めた。……その代わり、一つ頼みを聞いてほしい。もちろん、我も持てる限りの手を尽くす」
ヴェラが先に、その真意を察して頷いた。
「“白き竜”を――救いたいのね」
竜神は目を閉じ、静かに頷く。
「ここが女神の“絶対領域”である以上……こうしてお前たちに頼る以外にないのだ。だから……どうか」
「……わたくしたち、あなたのおかげで、エリンのいるこの世界へ辿り着けたの」
ヴェラは、白き鱗が眠る胸元を、両手でそっと抱きしめるように押さえた。
「だから、わたくしにも協力させて。“白き竜”を救いましょう」
「……感謝する」
誇り高き竜神が、ヴェラに向けて深々と頭を下げた。
その横で、セラは一人、静かに目を伏せていた。
(レイ……じゃない?)
彼女の脳裏に浮かんだ疑問。だが、セラはそれ以上、深く考えることを自ら拒絶した。
考えてしまえば、足の震えが止まらなくなり、ここに立っていられなくなると分かっていたからだ。
胸の奥が、軋むように痛む。嫌な予感が、はっきりと黒い形を持ち始めていた。
――目の前にいるのに、本当の『彼』はどこにもいない。
目を背けたくなる残酷な現実に。
セラは、唇を強く噛み締め、何も言わなかった。
言葉にしてしまえば、それが取り返しのつかない“確かな絶望”になってしまう気がして。




