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(37)護りの勇者と癒しの聖女

 女神レグナの滑らかな眉間に、ぴしりと醜い皺が走った。

 先刻まで反芻していた過去への“怒り”も、思い通りに盤面を支配しているという“優越感”も、完全に消え失せている。

 胸の奥に、泥水を飲まされたような、ひどく不快で得体の知れないざわつきが広がっていく。


 視線――。

 どこかから、射抜くような強烈な視線が突き刺さってくる。

 しかもそれは、単なる監視の目でも、下等な生物からの敵意でもない。

 “隠れていた自分を、正確に捕捉した絶対者の視線”だった。


 レグナは血の気の引いた顔で、ゆっくりと周囲を見渡した。

 果てしなく続く白の虚空。霧のように漂う神性の粒子。ここは外界から完全に隔絶され、同じ神格の者ですら座標を特定できない、レグナだけの“絶対領域”。

 本来、誰ひとりとしてたどり着けるはずのない場所だ。なのに――


「……誰?」


 声は震えなかった。だが、黒檀の玉座の肘掛けを掴む指先が、限界まで白く強張っている。


 その瞬間だった。

 ――ぐにゃり。

 世界そのものが“たわんだ”ような、悍ましい音が響いた。

 何もない純白の空に、まるで薄い膜を強引に突き破るようにして――真っ黒な亀裂が、雷のように走ったのだ。


「っ……!?」


 ひび割れた空間の奥から這い出してきたのは。

 黒鋼(くろがね)のような漆黒の鱗に覆われ、神の領域の理すらも強引に塗り潰すような、禍々しい霊力を帯びた、巨大な“竜の腕”だった。


 ズ、ズズズ……ッ!!

 空間が断末魔の悲鳴を上げるように歪み、その腕はゆっくりと、しかし絶対的な必然に導かれるように伸びてきて――玉座に座るレグナの華奢な腕を、ガシッと鷲掴みにした。


 バチィンッ!!と、神の結界が弾け飛ぶ音が鳴る。


「ひぎゃあああああああああああッ!!?」


 ……それは到底、慈愛の女神の口から出たとは思えない、あまりにも無様で醜い悲鳴だった。

 肩が跳ね上がり、腰が抜けそうになる。爪先から頭頂部まで、総毛立つような原始的な恐怖が、骨の髄へと雪崩れ込んでくる。


(な……なに……!? 竜神……!? あの、竜神なの!? こんな秘匿された場所に干渉できるわけが――)


 だが、次の瞬間。暗い亀裂の奥から、地を這うような重い声が直接脳に響いた。


 《――捕まえたぞ、レグナ》


 ぴたり、とレグナの呼吸が止まった。

 “見つかった”。


(うそ……嘘よ……ありえないわ! ここはわたくしの座……この場所だけは、絶対に不可侵のはず……!)


 胸の鼓動が爆発しそうなほど跳ね上がる。神の心臓が、恐怖で早鐘を打っている。

 世界の外側にいる竜神に、この箱庭の管理室が見つかるはずがない。辿り着けるはずもない。それがこの“領域”の絶対の理だった。

 それなのに――今、現実に腕を握り潰されんばかりに掴まれ、死の宣告のような声を聞いた。


(……わたくしが、遊んでしまったせい……?)


 致命的な後悔が、脳裏をよぎる。


(あんな“竜神に見つかった世界”なんて、捨てるって決めたんだから、さっさと丸ごと消してしまえばよかったのに……っ!)

(『もっと面白いこと思いついちゃった』なんて、余計なゲームを始めたから……!)

(やめて、来ないで……! まずいわ…早く逃げないと…わたくし……。いやっ、いやよ……消されるなんて!! )


 パニックに陥ったレグナは、荒れ狂う嵐のように神力を解き放ち、拘束を振りほどこうとする。だが、竜の腕はびくともしない。

 むしろ、逃がさぬとばかりに掴む力が増していく。

 メキィ……、ガキィ……ッ!

 神の骨が、軋む音を立てた。


「やっ、やだ、やだやだやだッ!! 離しなさいッ……やめ、やめてぇぇぇッ!!」


 完璧だった女神の仮面が剥がれ落ち、声が完全に裏返る。

 だが――その極限の恐怖と痛みの最中で、領域の所有者としてのレグナの思考が、ひとつの異常な事実にたどり着いた。


(……違う。この腕……竜神“そのもの”じゃないわ……!)

(どこかの座標にある『媒介』を経由して、あいつの力の“欠片”だけを強引に結像させている……?)


 腕の根元、次元の亀裂の向こう側から広がる霊力の波の出処を読み取って――レグナは絶句した。


 竜神に気づかれる原因となった、あの目障りな人間(混入物)を始末しようと神力を送り込んだ――まさに、わたくし自身がこの世界への『穴』を抉り開けてしまった、あの現場(ポイント)


「……まさか。この腕……“第三十魔王”の、中から……?」


 そう。竜神は直接ここへ顕現しているのではなかった。

 この腕は――下界にいる第三十魔王“レイ”の器の内側に潜んでいた竜神の欠片()が、“外へ向けて強引に伸び”、“空間を繋ぎ”、“女神の領域へと到達した”ものだった。

 つまり。


「……この腕の“根”は……外界……しかも……王都……?」


 今まさに――竜神が魔王の器を通じて存在位置(座標)を完全に割り出し、こちらへ距離を詰めてきているのだ。

 レグナの心臓が、冷たい手で直接掴まれたように縮み上がった。


(ちょっと待って!? なんであの半端な魔王がまだ生きているの……!?)

(それに、魔王のすぐそば……あの勇者たちまでいるじゃない!)

(あいつらの仕業……? わたくしの天啓に従って動く、ただの無害な駒だと思っていたのに……!よくも、よくもわたくしに、こんな汚らわしい真似をッ!!)


 ギリィッ! と竜の腕がさらに締まり、レグナの神力が逃げ場を失って弾け散る。


「は、は……早く……! こ、こ、この腕……どけないと……! な、な……なんとか……しなきゃ……!!」


 呼吸が乱れ、視界が恐怖で激しく揺らぐ。腕の圧が強まり、このままでは神の器ごと潰されてしまう。


「……ッ切り落とす……! この腕の繋がりごと、下界の器をすべて消去しなさい!!」


 ヒステリックな叫びは、絶対の命令としてただちに下界へと届いた。


 炎に包まれた王都の只中。

 無機質な破壊を繰り返していた“黒き勇者”と“黒き聖女”たちが、糸を引かれた人形のように一斉に動きを止める。彼らの空ろな眼差しが、明確な殺意を宿して一点――ハルトたちのいる方向へと向けられた。

 そして、王都の闇に紛れて進軍していた最凶の異形が、ゆっくりと、赤黒い瞳を開いた。


 “暴竜喰らい”――かつて世界を救い、女神に名誉を奪われた悲劇の英雄。


 恐怖で顔を歪めながら、レグナは口から泡を飛ばす勢いで叫んだ。


「王都にいる……!! 第三十魔王とあの勇者たちを――今すぐ、一匹残らず殺しなさいッ!!」


 * * *


 地獄と化した王都を、転移者たちは必死に駆け抜けていた。

 ヴェラは、子供の姿のままのレイをしっかりと抱え、飛んでくる瓦礫を弾き飛ばしながら走る。

 背後で爆ぜる黒紫の炎。断末魔を上げて折れ曲がる時計塔。空からは瓦礫が雨のように降り注ぎ、女神によって無理やり『災厄の子の角』を植え付けられ、すでに事切れた民たちの亡骸を無慈悲に押し潰していく。


 逃げ惑う悲鳴すら上がらない『死の街』に、破壊音と追撃者の足音だけが不気味に響いていた。


「城の人たちを、あんな無残に皆殺しにして……! それでもまだ、足りないって言うのかよ!!」


 ハルトの怒号が、爆音に掻き消される。

 その時だった。

 ――声にならない“声”が、天から降りてきた。


 音ではない。言語ですらない。なのに、脳の奥に直接「意味」が焼き付けられる不快な感覚。

 それは管理者から駒へと下される、絶対的な“天啓”。


『――王都にいる第三十魔王と勇者たちを。一匹残らず、殺しなさい』


「……女神……レグナか!?」


 一同は、その殺意の質量に足を止める。

 空を覆う黄金の雲が、どす黒い神力に染まり変貌していく。


「殺しなさいって……私たちを……?」


 ミナの膝が、ガチガチと震える。

 隣でエイデンが抜剣し、鋭い眼光で瓦礫の山を睨みつけた。


「ああ。俺たちは今、神に『敵』として認定されたわけだ。そして、その処刑人は……」


 ズ……ズン……。

 重厚な金属音が、霧の中から響く。

 瓦礫の隙間から、黒い霧をゆらゆらとまとった影が、一人、また一人と姿を現した。


「な……何、この人たち……。あの黒い霧を浴びて、どうして平気なの……?」


 リディアが頬を引き攣らせて問う。エイデンは、苦いものを噛み潰したような顔で低く応えた。


「いや、平気なはずがない。彼らは――とっくに命を失っている。肉体すら、とっくに腐り落ちているはずだ」


「え……?」


「あれが、女神に棄てられた“過去の勇者”たちの末路。そして、彼らこそが、俺たちを殺しに来た“処刑人”だ」


 その言葉を合図にするかのように。

 空から数多の“黒き聖女”たちが音もなく降下し、冷酷な円陣で一同を包囲した。

 かつて世界を救ったはずの英雄たちは、瞳の輝きを失い、ただ黒い粘泥のような魔力を噴き出している。


「王都を襲っていたのは……“過去の勇者”たちだったの……!?」


「死んでなお、魂まで女神の操り人形にされているなんて……反吐が出るぜ……っ!」


「……この数……。冗談じゃない、絶望的すぎるでしょ……!」


 黒き勇者の剣先が一斉に上がり、背後の聖女たちが不気味な重奏詠唱(ポリフォニー)を始める。


「――っ、やらせるもんですか!!」


 先陣を切ったのはリディアだった。


「吹き荒べ、氷冠の嵐アイシクル・テンペスト!!」


 放たれた絶対零度の猛吹雪が、黒き勇者たちを呑み込もうとする。だが――彼らは足を止めることすらしない。

 背後で大魔術の重奏を続ける“黒き聖女”たちのうち、数名が冷ややかな視線を向け、その片手間でごく短く言葉を紡ぐ。

 たったそれだけの、息をするような小詠唱。直後、勇者たちの前面にどす黒い光を放つ魔法障壁が瞬時に展開された。


「……ッ!? 防がれた……!?」


 リディアの誇る高位の冷気は、かつて聖なる力と呼ばれたその禍々しい防壁に触れた端から、あっけなく相殺され霧散していく。


「なら、これで……ッ!」


 セラが鋭く指先を突き出し、黒き勇者の足元に幾重もの『弱体化の呪縛エンフィーブル・バインド』を叩き込む。

 本来なら、どれほど屈強な戦士であっても筋力を削ぎ落とし、その身動きを半分以下にまで封じ込めるはずの、セラが得意とする高位のデバフ。


 しかし。


(……っ!? 嘘、抵抗(レジスト)すらされないの!?)


 黒き勇者は足元に絡みついた呪いの鎖を、まるで見えていないかのように、ただの一歩で引きちぎった。

 弱体化するどころか、その挙動には一点の淀みも、一瞬の遅れすら生じない。


「……嘘でしょ。私の弱体化(デバフ)が、一ミリも通じないなんて……!」


 格下の呪いとして弾かれたのではない。

 まるで、最初から「弱体化」という概念そのものが存在しない世界から来たような不気味さに、セラの顔が青ざめる。


「退け! リディア、セラ!!」


 エイデンが双剣を抜き放ち、旋風の如く踏み込む。

 かつての『英雄』に相応しい、瞬きすら許さぬ神速の連撃。上下左右、あらゆる死角から急所を抉る無数の刃の雨。

 だが、対峙する黒き勇者は、意志を感じさせない無機質な動作で、その嵐のような斬撃をすべて片手の剣だけで容易く弾き落としていく。


 ガガガガガキィィンッ!!


「……っ、バカな……! 俺の剣速を、すべて完璧に見切っているというのか!」


 エイデンが驚愕と共に体勢を崩した、その側面。


「うおおおおッ!!」


 サイが白銀の長剣の切っ先を真っ直ぐに向け、エイデンに迫る黒き勇者へ向かってがむしゃらに突っ込んだ。

 女神のスキルも精霊の加護も持たない彼にとって、この剣だけが唯一の頼みの綱だった。


 刃が近づくにつれ、剣から放たれる清浄な光が、勇者の纏うどす黒い霧(負の霊力)をシュゥゥと音を立てて吸い込んでいく。正の霊力を纏う剣、武器としての相性は最高のはずだった。


(いける……! 霧さえ剥がせば……っ!)


 サイが確信し、素人の力任せな一撃を振り下ろした、その直後。

 黒き勇者は――剣を振るうことすらしなかった。


「え……?」


 サイの網膜から、勇者の姿がブレて消えた。

 最小限の体重移動だけで大振りの軌道を躱した黒き勇者は、がら空きになったサイの腹部へ、無機質で無造作な前蹴りを叩き込んだ。


「ガはッ……!?」


 ドゴォッ!という鈍い音と共に、サイの身体が「く」の字に折れ曲がる。

 武器の力を活かす以前の、純粋な実戦経験の圧倒的な差。防具ごと内臓を揺らされたサイは、抗う間もなく数メートル先まで蹴り飛ばされ、無様に石畳を転がった。


「サイッ!!」


「わたくしが、時間を稼ぎますわ……!!」


 腕の中のレイを庇いながら、血を吐いてうずくまるサイの前に躍り出たヴェラが、額に汗を浮かべて極大の土魔法陣を展開した。


「目覚めなさい、大地の守護兵団(グランド・レギオン)!!」


 ズゴゴゴゴ……ッ!!

 地面から、重厚な石材で組み上げられた百体を超えるゴーレムが、軍隊の如き整然とした陣形で出現する。

 あるものは巨盾を構えて黒き勇者たちの進路を塞ぎ、あるものは巨大な拳を振り上げ、多角的な包囲網で圧殺せんとし――。


 しかし。


 ズシャア――ッ!!


「な……」


 己の魔力を注ぎ込んだ最強の軍勢が、ただの一振りで『消失』する光景に、ヴェラが絶句する。

 だが、立ち尽くしている猶予などなかった。背後の“黒き聖女”たちの重奏詠唱が、ついに臨界に達しようとしていたのだ。


「させませんわ……! 堅牢なる大地の城壁(ガイア・フォートレス)!!」


 ヴェラが悲鳴のように叫び、即座に仲間たちを覆い隠す巨大な土壁をせり出させる。

 だが――。


 ゴ、ドォ――ッ!!


 無情にも、黒き聖女たちの重なり合う詠唱が完了する。

 空から降り注いだ神罰のような黒い雷光が、ヴェラの誇る難攻不落の土壁を一瞬にして粉砕した。

 凄まじい爆風に吹き飛ばされ、一同は一切の遮蔽物のない「丸裸」の戦場へと無防備に投げ出される。


 瓦礫に倒れ込みながらも、三度目の詠唱を始めようとしたヴェラの腕を――上位精霊の厳格なる声が止めた。


「やめよ、娘……! 眷属(精霊)もろとも、お前の命が保たん!」


「でも、私がやらなきゃ……っ!」


「ならぬ! 奴らが振るうは魔力ではない……すなわち『神の権能』そのものだ! ――次元が違いすぎる。我ら精霊が命に代えて退路を拓く、お前たちは走れ!!」


 上位精霊の切実な警告とともに、ヴェラが展開しかけた魔法陣は、音もなく霧散した。

(……あの女神の力を、我は完全に見誤っていた。これほどの理不尽を、これほどの数、操るとは……)


 上位精霊が、己の視座の甘さを噛み締め、抗うことの無意味さに戦慄した、その時。


「……エイデン、みんなを頼む」


 静かな声が、爆音を切り裂いて響いた。

 膝をつき、肩で息を吐く仲間たちの前へ。

 一歩。

 力強い足取りで、ハルトが踏み出した。


「ハルト……!? ダメだ、あいつらはバケモノだ、一人でなんて……!」


 エイデンの制止を、ハルトは振り返らずに片手で制した。

 その背中は、つい先ほど「イカれた世界ごと救ってみせる」と断言した時よりも、さらに大きく、揺るぎないものに見えた。


「みんな、早く。……ここから、少しでも遠くへ逃げろ」


 仲間たちの前に進み出たハルトが、大剣を静かに構える。


「あいつらは……俺がここで食い止める」


「――絶域守壁(ぜついきしゅへき)ッ!!」


 ハルトの叫びと共に、彼の前面に分厚い光の結界がドーム状に展開される。彼に最後に残された、絶対防御のスキル。


「ハルト!? それ使ったら、一歩も動けなくなるって言ってたじゃん!!」

 ミナが悲痛な声を上げる。


「だから言ってるだろ……! ここは俺に任せろって!!」


「馬鹿な! ハルト、お前を見殺しにして逃げるなど……ッ!」


 エイデンが血を吐くような声で叫ぶ。その悲痛な制止に被せるように、ミナも涙声で叫んだ。


「そうだよバカ!! そんなマンガみたいな死亡フラグのセリフ、言わないでよ!!」


 ハルトは振り返らず、ただ前だけを向いていた。


「エイデン。……ミナを頼む。無理矢理にでも連れて逃げてくれ」


「しかし……ッ!」


 エイデンがギリッと奥歯を噛み締める。仲間を逃がす殿(しんがり)としてのハルトの凄絶な意志が、その背中から痛いほど伝わってくる。


「ミナ……頼む。逃げてくれ。お前だけでも……生き延びて、元の世界に帰ってほしいんだ!」


「何で!? 私だけ帰っても意味ないよ!!」


「意味ならあるさ!! 帰って……本当の“母親”に会えよ!!」


 直後、轟音が二人の会話を掻き消した。

 黒き勇者たちの剣閃と、黒き聖女の魔法陣から放たれた火柱が、一斉に結界へと殺到する。

 防御は完璧に機能していた。結界の内側にいる転移者たちは無傷だ。

 だが――ハルトの顔色は、一瞬にして死人のように蒼白になっていた。


「また来るぞ!!」


 ハルトが大剣を深く地面に突き立て、歯を食いしばる。

 攻撃の質が、さらに一段跳ね上がった。黒き勇者たちの纏う霧が唸りを上げ、先ほどの倍の密度で斬撃が降り注ぐ。空では黒き聖女たちの魔法陣が二重、三重に重なり、地獄の業火が間断なく叩きつけられる。

 結界の表面が悲鳴のように軋み、王都の石畳が爆ぜて吹き飛んだ。


「……っは……はぁ……!」


 ハルトの肩が大きく上下する。結界は維持できている。しかし、その代償はあまりにも残酷な形で彼の『生命力』を削り取っていた。


「ハルトを置いていけないよ……! だって……」


 ミナの声は震えていたが、その瞳の奥にある意志は、少しも揺らいでいなかった。


「私……見たこともない生みの親より……ハルトのこと、本当の家族だって思ってるんだから! だから……絶対に置いてなんか、いかない!!」


「ミナ……頼むから……っ」


 結界の外は、神がもたらした地獄の炎。結界の内側では、ただ一人、ハルトの命の火が削られていく。

 徐々に、光の壁に亀裂が走り始める。

 それを見るたび、セラは両手に魔力を込めかけて――激しく首を振り、止めた。


(……ダメだ。私の支援(バフ)で結界を強化すれば、耐える力は上がる。でも……それに伴う生命力の消耗が、もっと跳ね上がる……!)


 セラの唇から血が滲む。

(今の限界ギリギリのハルトに、私の魔力を“乗せたら”……即座に、死ぬ……!)


 セラが支援すら出来ず絶望に縛られる中、ハルトの顔色はすでに紙のように白く、滴る汗と震える膝が限界を物語っていた。


「……私だってね!」


 ミナが叫ぶ。


「ハルトだけは……絶対に生かして帰さなきゃって思っているの!!」


 ミナの足元に光が集まり、ハルトへと注ぎ込まれる。単体治癒魔法だ。

 一瞬だけハルトの顔色に生気が戻り、呼吸が整う。だが――結界に叩きつけられる処刑人たちの連撃は、地獄の鼓動のようなリズムでさらに加速していく。回復量を、削り取られる命が上回っていく。


「ミナ……っ、やばい……これ、続けても……!」


「やめない!!」


「ミナ!! もうやめてくれ!! 魔力が尽きたら……お前まで命を削ることになるぞ!!」


 涙を堪えきれず、大粒の雫をこぼしながら、ミナは叫んだ。


「やめない……!! ハルトを死なせるくらいなら、私が削られた方がマシなの!!」


 ――このままじゃ、ハルトが死ぬ。

 ミナは悟った。単発の回復では間に合わない。

 だから、覚悟を決めた。


「私……絶対に誰も失いたくないんだよ……!」


 ミナは、涙でぐしゃぐしゃになった顔で、不敵に笑ってみせた。


「だから、守りたい人くらい……私に守らせてよ!!」


 空気が、大きく震えた。

 ミナの足元に、かつてない規模の魔法陣が展開される。彼女が持つ最大の切り札。広範囲・最大出力の全域治癒魔法。

 それは本来、傷ついた仲間を「一斉回復」するためだけのもの。敵を攻撃する意図など、一ミリも含まれていない、純粋な慈愛の光。


「やああぁ……っ! ――遍界聖癒ホーリー・サンクチュアリッ!!」


 爆発的な、眩い光が弾けた。

 光は奔流となってハルトへ、そして結界の内の仲間たちへと流れ込み、彼らの傷と疲労を瞬時に癒していく。

 そして光は結界を透過し、外の世界へも溢れ出した。

 黒き勇者たちへ。黒き聖女たちへ。


 ミナは気づいていなかった。彼女はただ、目の前のハルトを死なせないためだけに、持てる全てを振り絞っただけだった。


 だが――。


「……っ!?」


「ぎ……、あ……!」


 光に包まれた瞬間。

 黒き聖女たちが、声にならない悲鳴を上げて空から次々に墜落していく。

 黒き勇者たちの手から剣がこぼれ落ち、その身を覆っていたどす黒い霧が、陽光に焼かれる雪のように浄化され、消滅していく。


「え……これって……」


 呆然と立ち尽くしていたサイが、信じられないものを見るように呟く。


「治癒魔法を……受けて……?」


 ヴェラもまた、声を失っていた。


 仲間たち全員が、息を呑んでその光景を見つめている。

 ――つまり。

 ミナが放った純度百パーセントの『全域治癒魔法』は、神に魂を弄り回されたアンデッドである“黒き勇者・聖女”たちにとって、いかなる攻撃魔法をも凌駕する『全域殲滅魔法』として機能したのだ。


 光が収まり、王都に静寂が戻る。

 周囲には、動かなくなった処刑人たちの残骸だけが転がっていた。


「え……」


 ミナは、自分の両手を信じられない表情で見つめていた。


「わ、私……こうなるって考えてなくて……! ただ、ハルトを助けたくて……!」


 混乱するミナの前で、光の結界がふっと解除される。

 肩で息をしながらも、確かな生命力を取り戻したハルトが、ミナの肩にそっと手を置いた。


「はは……こんなベタな弱点、本当にあるなんてね」


 その温かい手の感触に、ミナの目からぽろりと大粒の涙がこぼれ落ちた。


「……これで……みんなで、逃げられる……ね……?」


 ミナは、泣き笑いしながらハルトを見上げた。


「うん。……ミナのおかげで、全員、生きてる。よくやったね」


 煤と涙で汚れたミナの笑顔は――ハルトにとって、先ほどのどんな聖なる光よりも、眩しく輝いて見えた。

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