(35)黒き勇者、黒き聖女
まったく、お姉さまったら――ほんとうに、頑固ね。世界の一つくらい、さっさとくれればいいのに。たくさん持っているくせに、あの女。
あらゆる理から隔絶された白の虚空。
女神レグナは、薄闇を纏った黒檀の玉座に深く腰掛けながら、ひどく退屈そうに唇を尖らせて呟いた。磔にされた姉神エルフェリアからは、相変わらず何の返答もない。
「まぁ、いいわ。いくら強情を張っても、結局は、わたくしのものになるんだもの。お姉さまが持っているもの、ぜーんぶ」
その愛らしい瞳が、ふと虚空のどこか遠くを見据える。レグナはゆっくりと立ち上がると、ふわりと豪奢なスカートを翻し、誰もいない玉座の上でステップを踏むように、くるりと一回転した。
「ふふっ。新しい世界を手に入れたら、今度は何をしようかしら?」
無邪気に笑うその顔は、新しい玩具をねだるただの少女のようだ。だが、次の瞬間。
「――あぁ、そうだ。レグナリア。あの怒り狂った竜神に見つかっちゃった、あの世界。あれはもう、いらないわね」
ポイッと、飽きたぬいぐるみをゴミ箱へ放り投げるように。
レグナは、三百年かけて弄んできたひとつの世界の“廃棄”を、あっさりと決定した。花が綻ぶような無邪気な笑みが、その顔に浮かぶ。けれど、その鈴を転がすような声音は、底なしの破壊と悪意を孕んでいた。
「だったら、最後に派手に楽しみましょう」
レグナは、白く細い指を一本ずつ折り曲げながら、楽しげに数え上げる。
「だって、もう全部やったじゃない? 魔王、勇者、聖女、祈り、戦争、信仰、裏切り――」
最後の小指を折ったところで、彼女はくるくるとその場で回り、パッと両手を空に向かって大きく広げた。
「王国の人間、ぜーんぶ、死んじゃえ!」
その言葉は、恐るべき神の権能となって下界へ降り注いだ。
「もう、だーれもいらない。だーれも要らない。神様ごっこも、信仰ごっこも、全部おしまい。……ああ、スッキリする!」
――その直後である。下界の聖レヴェリア王国全土で、兵士や家臣たちの額から一斉に角が突き出し、彼らが血を吐いて絶命したのは。
レグナは虚空に映像を投影し、苦悶の中で息絶えていく人間たちの姿を、まるで面白い喜劇でも見るかのように眺めていた。
「――あはは。みーんな死んじゃった」
やがて、『災厄の子』として角を宿したまま冷たく横たわる無数の亡骸たちから、システムに組み込まれていた竜の霊力が、黒く濁った霧となってゆらり、ゆらりと立ち上り始めた。
「あはは。黒い霧、あんなに漏らしちゃって」
映像の中で空へ昇っていくドロドロの霧を見つめ、レグナはふと首を傾げた。
「あはっ。この霧、使えない?」
指先でくるくると虚空をかき回しながら、彼女の口元がにやりと邪悪な弧を描く。
「うふふ。もっと面白いこと、思いついちゃった」
レグナが視線を向けた先――魔法の映像が切り替わり、王都の外れにある“封印の塔”の地下空間が映し出される。
そこには、黒曜石のように漆黒で、重苦しい封印の紋が刻まれた異様な棺の群れが、ずらりと静かに眠っていた。本来ならば、決して開いてはならぬもの。歴代の勇者と聖女たちの成れの果てだ。
空間に投影されたその棺群の幻像に、レグナはすっと人差し指を翳す。そして、まるで直接その表面に触れるかのように、虚空でつーっと円を描いた。
「さあ、起きなさい。あなたたちには“次のお仕事”があるの」
レグナが指を弾くと、王都中に散らばっていた黒い霧が、意思を持ったように塔の地下へと吸い込まれていく。
「この黒い霧、『角の力』を――全部、あげる」
「神の領域から“贈った”この力で、あなたたちの殻を破ってちょうだい」
レグナは、とびきりの笑顔で、呪いの言葉を紡いだ。
「そして、すべてを壊してきてね」
「この世界を、ぜんぶ――ぐちゃぐちゃにして、おしまいにするの」
* * *
王都の外壁のさらに先――。
忌まれ、忘れ去られた“封印の塔”のある地下深く。神の狂った命令と、膨大な黒い霧の力に応えるように。いくつもの漆黒の棺が、きぃぃ……と、重く、悍ましい音を立てて開き始めた。
棺の隙間から、意思を持ったように黒き霧が流れ込む。やがて、その重苦しい蓋を内側から突き破り、一本の錆びた剣が天高く突き上げられた。
きぃぃ……、ガコンッ。
地下室に反響する不気味な音と共に、漆黒に染まった鎧、顔を隠す歪な面頬、そして一切の光を宿さない空ろな眼差しを持った者たち――。
かつてこの世界を救うために召喚され、“勇者”と讃えられた者たちの亡骸が、次々に立ち上がった。
その傍らから、かつては純白であったはずの法衣を泥のように黒く染め上げた女性たちが、禍々しい黒い聖光をまといながら静かに歩み出る。
“黒き聖女”――かつて人々の傷を癒し、勇者を支えた祈りの力は、今や純然たる闇の呪力としてその手に宿っていた。
彼らは、ただ神に命令された通りに動き出す。ゆっくりと。
塔の地下から、地上を蹂躙し、すべてを更地にするために――這い出していった。
それは、王城の奥深くにいる転移者の誰ひとり気づいていない、この狂った世界を完全に壊すための“第一手”だった。
死のような静寂に包まれた王都の丘。
地を穿って現れた漆黒の影の群れが、まるで夜そのものを引き連れるように、王都の中枢へと進軍を開始した。
その歩みは決して速くはない。だが、どんな障害があろうとも絶対に止まることはない、確実な破滅の行軍だった。
王都レヴェリアの堅牢な城壁が見えてくると同時に、辺りの空気が一変した。
まるで天地そのものが恐怖に凍りついたかのように、風がピタリと止まり、月を隠すように雲が避け、すべての環境音が死に絶えた。
城壁を守る兵士はいない。逃げ惑う住民もいない。祈りを捧げる神すらも、とっくに彼らを見捨てている。
ただ、冷たい石造りの大地と、三百年間の偽りの栄華を飾っていた美しい白い塔群だけが、黒の影の前に無防備に立ちはだかっていた。
ズン……ズン……ズン……。
それは足音ではなかった。圧倒的な死の“揺れ”だった。世界が、なんの抵抗もなく泥沼へ沈んでいくような、悍ましい質量のうねり。
最初に動いたのは、身の丈ほどもある大剣を背にした一人の黒勇者だった。
鉄の面頬の奥から、音もなく獣のような咆哮が漏れたかと思うと、彼はその重装備からは信じられない軽やかさで空へ跳んだ。
大気を裂き、振り下ろされたその黒き大剣は、ただの一撃で、難攻不落を誇った王都の白い城壁を真っ二つに断ち割った。
ズン――ッ!!
鼓膜を破る轟音と共に、誇り高き白壁が巨大な粉塵と化して崩れ落ちる。
次に動いたのは、双剣を帯びた小柄な黒勇者。
彼は崩れゆく壁の隙間へ音もなく滑り込み、重力を無視したように空中を舞うと、彫刻めいた美しい建造物の柱という柱を、すれ違いざまに次々と斬り払っていく。
キィン――バキィィィン……ガラガラガラ……!
優美な王都の街並みが、まるで薄い紙細工のように無惨に切り崩されていく。
屋根が崩れ、芸術的な尖塔が折れて倒れ、綺麗に敷き詰められた石畳が裂ける。
かつての勇者たちは、そのすべてを「何の意味もなく」ただ破壊していく。
彼らは何も語らない。叫ばない。怒りすら見せない。
ただ神に命じられたまま、壊れたからくり人形のように機械的な破壊を繰り返すだけ。
かつて「命を救うため」に振るわれた正義の剣が、今は「命のない空っぽの街」をただの更地へと変えていく。
倒壊していく王都の瓦礫の中、ただひとつ残るのは、“勇者たち”が踏み荒らした真っ黒な足跡だけだった。
* * *
王都の街並みが、黒き剣によって無慈悲に切り裂かれていく中。
粉塵の舞う夜空にひとすじ、皮肉なほどに美しい白銀の輝きが走った。
まばゆく光るそれは、紛れもない聖光――かつて絶望の淵にあった人々の命を救い、希望をもたらした者たちの力。
だが今、その光は深い漆黒の闇に染まりきっていた。
雲間からゆっくりと宙を舞い降りてきたのは、黒く汚れた白衣を纏い、禍々しい黒い後光を背負った女性たち。
彼女たちは、元・聖女。
癒しと加護の絶対的な象徴であったはずの彼女たちが、今やこの空から――すべてを灰にする炎を注ぎに来たのだ。
ひとりの黒聖女が、虚空で静かに両手を広げる。その青白い掌の間に、幾何学的な紫紺の魔方陣が浮かび上がった。
「……聖滅黒炎、灯れ」
抑揚のない、死者の言葉とともに、上空に王都を覆い尽くさんばかりの巨大な火の紋が展開される。
直後――ボッッ……!
鈍く、重く燃え上がる闇の火柱が、街の中央部へと滝のように降り注いだ。
その黒き炎は、ただ建物を燃やすだけではない。石造りの大地すらドロドロに焦がし、空間そのものを焼き尽くすかのように、そこに「あった」という痕跡すらも残さず、すべてを“なかったこと”にしていく。
別の黒聖女が、空中で静かに詠唱を始める。
それはかつて勇者を守った支援魔法――いや、違う。この規模と殺意は、完全に国を滅ぼすための“軍魔術”だ。
「……三重加速、臨界出力。対象、全黒勇者。……そして、全障壁、無効化」
彼女の冷たい言葉に呼応して、地上で破壊を続ける黒勇者たちの動きが、爆発的にさらに加速する。
聖女たちは滞空したまま、眼下の王城を指さすと、黒き魔力の塊である『聖印』を次々と投下し始めた。
ボフッ、ボフッ、ボフッ――!!
まるで神が天から下す鉄槌のように、王城を囲む各地に魔力の杭が深々と突き刺さる。
数秒の不気味な沈黙のあと――。
ズゥンッッ……!!!!
天地をひっくり返すような地鳴りと共に、王城の西翼が内側から吹き飛んだ。
かつて王女たちがきらびやかなドレスで舞踏会を開いた美しい大広間が、何の前触れもなく膨張した黒き光に呑まれ、一瞬にして消滅する。
黒聖女たちは、その惨状を見下ろしても笑わない。泣きもしない。その昏い眼差しは、何の感情も映していない。
ただ、かつて彼女たちがこの国で味わった“裏切り”の記憶だけが、命じられるまでもなく、自動的に業火へと形を変えていた。
かつて人々を癒し、希望を歌った美しい歌声は、いまや世界そのものを燃やす無慈悲な鎮魂歌となって――。
沈黙の王都を、偽りの王城を、彼ら自身の過去ごと、ただひたすらに灰へと変えていくのだった。
* * *
「……ふふっ、すてき。眺めているだけで、胸が高鳴るわ」
女神レグナは、空間に浮かべた魔法の“窓”を覗き込みながら、うっとりとした愉悦の笑みを浮かべていた。
三百年の歴史を持つ豪奢な王都が黒い炎に包まれ、無惨に燃え崩れていくその光景を、彼女はまるで特等席で打ち上げ花火でも眺めるかのように見下ろしている。
「わぁ……ほらほら、もっと壊れていくわよ。きれい……!」
黒勇者たちの剣が美しい白壁を粉々に断ち割るたび、黒聖女たちが降らせる闇の火柱が街を丸ごと飲み込むたび。レグナの愛らしい顔は、新しいおもちゃを与えられた子どものようにキラキラと輝いていく。
「見て見て、“王城”崩れた! あははっ、すっごい!」
「ねぇ、次は西翼よ! あ、もう落ちた! 落ちたわ!」
「人もいないし、神もいないし……うふふ、完っ璧じゃない!」
レグナはふんわりとしたスカートを揺らしながら、虚空の玉座の前でくるりと優雅に回って、キャッキャッと無邪気な拍手すら始める。
「ほらほらほら、もっと燃えて、もっと散って……」
「ねぇ、こんなに楽しい世界、ほかにないわよね?」
「ほんと“壊しがい”のある国だったわ。ありがと、王都ちゃん」
鈴を転がすようなその声は、あまりにも無邪気で、純粋だった。
だが、その悪意のない無邪気さこそが、地上に底知れぬ破壊と地獄を生み出しているのだ。
「さあて……次は、どこを壊してもらおうかしら」
ごきげんで鼻歌を歌いながら、レグナは指先を指揮者のように躍らせ、さらなる破壊の旋律を奏でるように魔力を空間へ散らそうとした。
――そのときである。
レグナが見下ろす“窓”の片隅、炎に包まれる王都の映像の端で、かすかな“黒の光”が揺れた。
ピタリと、レグナの動きが止まる。楽しげに咲き誇っていたその笑顔が、ほんの一瞬だけ、冷たく固まった。
予定調和の破壊の箱庭に混じった、計算外の異物。それに気づいたのは、まだ、この世界でただひとり――女神レグナだけだった。
* * *
――その日、レヴェリアの空が、物理的な音を立てて割れた。
王都から遥か南に位置する、のどかな山間の小さな集落。畑の土を耕していた老いた農夫は、ふと手を止め、額の汗を拭いながら空を見上げた。
「……あれは、なんだ?」
空の向こう――本来なら美しい白亜の塔群が見えるはずの、王都の上空の景色が、異様に歪んでいた。
空間そのものが捻じ曲がっているかのように、無数のどす黒い稲妻が一点に吸い込まれるように集まり、不気味なほど重苦しい静寂が、遠く離れたこの集落までも包み込んでいく。
風が止み、鳥が鳴き止み、木々までもが恐怖に震えるようにその枝をすくめる。まるで世界が息を止めたかのような、嵐の前の、息が詰まるほどの静寂。
そして――。
ドォン。
空そのものがベラリと剥がれ落ちるような、腹の底を揺らす見えない雷鳴の振動が、大地の底から伝わってきた。
「王都……っ! 王都に、なにが……!?」
異変を察知した集落の者たちが、次々に農具を投げ捨てて丘へと駆けのぼり、王都の方角を見やる。彼らの顔には、恐怖と、困惑と、人間の理解を拒絶する事象への名伏しがたい感情が入り混じっていた。
「……光の、柱?」
震える老兵の目に映ったのは、山脈よりも高くそびえる、巨大な黒紫の光の柱だった。それは、王城の中心から天を裂くように真っ直ぐに突き出され、やがてすべてを呑み込むように、爆ぜるように膨張していった。
「だめだ……もう、誰も、生きちゃいない」
絶望に染まった若者が、喉を引きつらせて叫んだ。
城下を覆っていたはずの、王国最強の防護結界の光が、あの黒紫の柱に触れた瞬間に、ガラスのように残骸すら残さず砕け散るのが見えた。代わりに這い広がっていくのは、物理的な破壊を越えた、黒い“消去”のうねりだった。
建物が消えていく。
広場が、城壁が、街路が――崩れ、ねじれ、まるで熱された泥のようにドロドロに溶けて、ただの黒い煙へと変わっていく。
三百年続いた王国の歴史と人々の営みが、文字通り“なかったこと”にされていく。
「ああ……終わる……」
丘にへたり込んだ誰かが、力なく、かすれた声で呟いた。
「女神様が約束した、永遠の国が……俺たちの国が、死んでいく……」
圧倒的で、理不尽な崩落の前に、王都はただその輪郭と形を失い、深い黒煙の底へとゆっくりと沈んでいく。
そして――王都を照らしていた無数の灯りが、ふっと、すべて消えた。
それは、神の祝福を受けたと謳われた聖レヴェリア王国が誇る美しき王都の、あまりにも静かで、残酷な、最後の瞬きだった。




