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(34)幼馴染の約束

 人は、忘れたいと願う記憶に限って、いつまでも脳裏にこびりついて離れないものだと思う。

 楽しかった日々の柔らかな輪郭より、息が止まるほど悲しかった出来事のほうが。まぶしい朝の光より、すべてを奪われたあの日の夕暮れの赤色のほうが。いつまで経っても、目を閉じるだけで鮮やかに浮かび上がってくるのだ。

 私にとって、それは――何の罪もないハルトを、この狂った異世界にまで巻き込んでしまった、あの日のことだ。


 * * *


 私には、生まれ育った“家”というものがない。

 物心ついたときには、すでに施設で暮らしていた。清潔で明るいはずの白い壁が、私にはいつも無機質で冷たく見えた。どうして私がそこにいるのか、親が誰なのか、詳しい事情は誰も教えてくれなかったけれど――。


「ミナはね、いつもお利口で、本当に頑張り屋さんのえらい子なんだよ」


 職員さんが頭を撫でてそう言ってくれるたび、私は“えらい子”という透明な鎖にしがみつくみたいに、泣きたい気持ちをぐっと飲み込んで、無理に笑ってみせた。

 でも、子供ながらに本当は知っていた。どれだけ“いい子”でいても、捨てられないわけじゃない。愛される保証なんて、世界のどこにも書かれていないってことを。


 私より小さな子が、新しい家族に引き取られていくたびに。その夜、薄暗い施設の廊下の隅で、膝を抱えてしくしくと泣いていたのは私だ。


(どうして、私じゃないんだろう)

(どうして、私は誰にも選ばれないんだろう)


 そんな黒い嫉妬を抱く自分が、たまらなく、世界でいちばん嫌いだった。


 * * *


 それでも、神様は完全に私を見捨ててはいなかったらしい。いつか“順番”は回ってくる。ある日、職員さんに呼ばれて、見慣れない小さな応接室に通されたときのことを、私は今でもはっきり覚えている。


「ミナちゃん。この人たち、今日からミナちゃんの“お父さんとお母さん”になってくれる人だよ」


 そこに座っていたのは、優しそうな目をした夫婦だった。彼らもまた、少し緊張した面持ちで、私をまっすぐに見つめていた。


「は、はじめまして……ミナです」


 声が震えて、うまく音にならなかった。間違えたら、嫌われたら、やっぱりいらないと手放されて、またあの冷たい白い壁の向こうへ送り返されるんじゃないか――そんな恐怖で、頭の中がいっぱいだった。

 でも、その人たちは、怯える私を見てふわりと笑ってくれた。


「ミナちゃん。今日から、“ただいま”って言う場所が新しくできるんだよ」


 その、押し付けがましくない温かな言葉が。ずっと冷え切っていた胸の奥に、じんわりと、静かに染み込んでいった。


 * * *


 里親に引き取られた家は、私が勝手に想像していたよりも、ずっと普通の家だった。少し古いけれど手入れの行き届いた二階建て。季節の花が咲いた小さな庭。すれ違う近所の人たちが、当たり前みたいに「こんにちは」と挨拶してくれる、穏やかな路地。

 私が、自分の荷物の入った大きな段ボールを抱えて、緊張で立ち尽くしていると。


「よっ! あんたが、隣のおばさんが言ってた子?」


 隣の家の玄関先から、無造作に声をかけてきたのが、ハルトだった。


「は、はい……」


「俺、ハルト。隣んち。えっと……よろしく!」


 私が抱える荷物越しに、少しだけ照れくさそうに笑ったその顔。「可哀想な子」としてではなく、最初から「待ち望まれていた隣人」としてフラットに受け入れてくれたその笑顔を見た瞬間。私はなぜか、“ああ、この人は大丈夫だ”って、心の底から勝手に思っていた。

 その日から、私の日常には、息をするように当たり前にハルトがいた。


 * * *


 ハルトは、物語に出てくるような特別な“優等生”でも、目立つ“問題児”でもなかった。成績もスポーツも、だいたい真ん中より少し上くらい。でも、誰かが困っていれば当たり前みたいな顔で手を貸すし、「ありがとう」と大げさに感謝されれば、「別に」と照れ隠しでそっぽを向くような、そんな不器用なヤツだった。

 私が新しい学校の空気に馴染めず、一人で戸惑っているときも。


「ミナ、こいつら俺のゲーム仲間。女子も混ざってるから、全然怖くないって」


「別に、怖いとか言ってないし……」


 さりげなくクラスメイトの輪の中に、私を引っ張り込んでくれた。


 そんな他愛もない会話を、何度も交わした。放課後、夕焼けに染まる道を一緒に帰って。テスト前は、文句を言い合いながら一緒に図書室で勉強して。夏祭りの日は、一緒にりんご飴をかじりながら屋台を冷やかして。


 ――でも、それ以上の関係には、ならなかった。ときどき、クラスの友達に「二人は付き合わないの?」と冷やかされるたびに、私はいつも苦笑いして首を横に振った。


「いやいや、ないから! ハルトだよ!? あいつと付き合うとか、もはや空気と付き合うレベルで緊張感ゼロだし! 少女漫画のイベントとか1ミリも起きないって!」


 そう言うと、ハルトも「お前それ空気に対して失礼だろ。俺だってミナ相手じゃ一生ドキドキできる気しねーわ」と、ポテトチップスをかじりながら鼻で笑った。

 それが、私たちの心地よくて、絶対に壊れない距離だった。

 * * *


 あの一通の手紙が届いたのは、高校二年の、少し汗ばむような春の日だった。

 家のポストから取り出した、白い封筒。見慣れない名前。見覚えのない、少し丸みを帯びた筆跡。その下に、小さく、けれど確かに書かれていた差出人の続き――『あなたの母より』。

 ドクンッと、心臓が、一瞬止まった気がした。


「……ミナ? どうかした?」


 ポストの前で石のように固まっている私に、買い物帰りの里親のお母さんが不思議そうに声をかける。


「あ、う、ううん……! なんでもないよ!」


 咄嗟に手紙を背中に隠し、ひきつった笑顔を作った。封筒を握る手が、じっとりと冷たい汗をかいている。自分の部屋に逃げ帰ってから、何度も何度も封筒を裏返してはため息をつき、ようやく、震える指でその封を切った。


 ――会いたい。

 便箋には、ただ切実な思いが綴られていた。


『今まで会いに行けなくて、本当にごめんなさい』

『あなたのことを、ずっと心配ていたのよ』

『もし迷惑じゃなかったら、一度だけでいいから、会ってほしい』


 きれいに並んだ文字のはずなのに、ところどころ、水滴が落ちたようにインクがにじんでいる。


(どうして、今さら……)


 ずっと心の奥底で焦がれ、諦めていたはずの『本当のお母さん』に会えるという、どうしようもない期待。

 けれどそれ以上に、今の温かい家族を裏切ってしまうのではないかという罪悪感と

 ――もし会って、再び『やっぱりいらない』と手放されたら、今度こそ自分の心が完全に壊れてしまうという幼い頃の恐怖が、胸の中でぐちゃぐちゃに混ざり合っていく。


 今の家族(お母さんたち)への申し訳なさも、消えなかった。

 それでも――正直に言えば。その夜、私は少しだけ浮かれていたのだ。鏡の前で髪を整えながら、何度も何度も、不自然じゃない笑顔の練習をした。


(ちゃんと、笑えるかな)

(「初めまして」って、言ったほうがいいのかな。それとも……)


 そんなくだらないことで迷い、胸を弾ませている自分が、どこか可笑しくて、哀れだった。


 * * *


「……そうか。会いに行くんだな」


 翌日。どうしても一人で抱えきれず、勇気を出してハルトに打ち明けたとき。ハルトは茶化すこともなく、真顔で黙って話を聞き終えてから、ぽつりと言った。


「怖い?」


「……ちょっと。ううん……かなり、怖い」


 強がって笑ってみたけれど、声が情けなく裏返っていたから、誤魔化せていなかったと思う。


「だよな」


 ハルトは少し空を見上げて考えてから、いつもの、拍子抜けするほど軽い調子で言った。


「じゃあさ。駅まで一緒に行こうか」


「えっ?」


「途中で怖くなって逃げ出したくなったとき、俺が隣にいれば、ギリギリで踏ん張れるだろ?」


「……なんで、分かるの」


「ミナのことは、けっこう長く見てるからな。強がりなのも知ってる」


 その言い方が、なんだか悔しいくらい正しくて、私の心のいちばん脆い部分を的確に支えてくれたから。私は小さく息を吐いて、観念して頷いた。


「……じゃあ、お願いしてもいい?」


「おう。任せろ」


 それが、私とハルトの交わした、あの日への“約束”だった。


 * * *


 約束の日の朝は、やけに晴れていた。こんな日に限って、空気は透き通るように澄んでいて、風は心地よくて。世界は私の不安なんて知りもしないみたいに、ただただきれいだった。


「ミナ、緊張してる?」


 玄関で靴紐を結んでいると、里親のお母さんが、そっと私の肩に手を置いてくれた。本当の娘のように愛してくれた、温かい手。


「……ちょっとだけ」


「行っておいで。ゆっくりでいいからね。もし嫌だったら、我慢しないでちゃんと断ってきなさい。あなたの帰る場所は、ここにあるんだから」


「うん。ありがとう」


 そう笑顔で答えながら、私は胸の奥で“嘘”だと思っていた。たとえ嫌でも、断れない気がした。だって、これは私にとって“夢”だから。小さい頃、冷たい施設のベッドの中で、何度も何度も見ては諦めたはずの、まぼろしみたいな夢だから。

 玄関を出ると、隣の家の門の前で、ハルトがポケットに手を突っ込んで待っていた。


「お、来たな」


「……お待たせ」


「似合ってるじゃん、その服」


「えっ」


 急にそんなことを言われて、不意に頬が熱くなる。今日のために、里親のお母さんが「きっと似合うから」と選んでくれた、いつもより少しだけ大人びた淡い色のワンピース。


「そ、そうかな」


「うん。ちゃんと『大事な人に会いに行く服』って感じだ」


「なにそれ、変なの」


 笑い合いながら、家の前の道を歩き出す。ただの、いつもの帰り道の逆走。駅へ向かうだけの、平凡な道のり。でも、一歩進むたびに、胸の奥がざわざわと波立って騒ぎ出す。


(引き返したい)

(でも、引き返したくない)


 そんなぐちゃぐちゃな気持ちを抱えたまま。私は、ただ隣を歩くハルトの横顔を、すがるように見つめていた。

 この道の先に、もう二度と帰ることのできない“絶望”が口を開けて待っていることなど、知る由もなかったのだ。


 * * *


 駅前のロータリーは、いつもの長閑な休日とは違い、異様なざわめきに包まれていた。

 慌ただしく行き交う人々の足音。車道を塞ぐように鳴らされるクラクション。そして、どこかから聞こえてくる、悲鳴にも似た怒鳴り声。


「なんか、騒がしいな」


 ハルトが目を細める。駅前広場の一角に、不自然な人だかりができていた。何か事故でもあったのだろうか、と、ハルトがそちらへ顎をしゃくる。


「ちょっと見てくる。ミナはここで待ってて」


「え、あ、うん……気をつけてね」


 得体の知れない不安が、せり上がるように喉を塞ぐ。でも、野次馬に向かうその背中を無理に引き止めるほどの理由も、勇気もなくて。


(大丈夫、大丈夫。すぐ戻ってくる)


 自分に言い聞かせながら、私は指定された待ち合わせ場所――駅前の時計台の下に立った。


 人だかりの向こうで、誰かが甲高い声で叫んでいる。スマホを構えようとして落とす人。悲鳴を上げて後ずさる人。

 ざわ……ざわ……と、空気だけが、目に見えない悪意の波のように揺れていく。


 そのときだった。

 逃げ惑う人波の隙間、私の視界の端に、“そいつ”が映った。

 人だかりから少し外れた位置。ふらふらとした酩酊者(よっぱらい)のような足取りで、それなのに、まるで最初から狙いを定めていたかのように、妙に真っ直ぐに歩いてくる、ひとりの男。

 顔はよく見えなかった。汚れた帽子を目深にかぶっていて、うつむいている。

 でも――その右手に強く握られたものだけは、白日の下で、はっきりと見えた。


 細長い、銀色の刃。

 普通の料理用の包丁とも、サバイバルナイフとも違う。人を刺すことだけを目的に研ぎ澄まされたような、どこか異様に“まっすぐすぎる”冷たい光。


(……え?)


 時間が、泥の中に沈んだようにゆっくりになった気がした。男は、ぐらりとよろめきながら、一直線に――様子を見に行こうと背を向けている、ハルトのほうへ向かっていた。


「ハルトッ!!」


 喉が裂けるほど叫んだときには、もう私の身体は勝手に動いていた。私は時計台の下から弾かれたように飛び出し、声に気づいて振り向こうとしているハルトの背中めがけて、全力でぶつかった。


「危な――」


 ドンッ、とハルトの体を突き飛ばした次の瞬間。

 ぐしゃ。

 自分の体から、何か柔らかい果実を踏み潰すような、ひどく嫌な音がして。私の胸のあたりに、焼け焦げるような鋭い熱が、深々と突き刺さった。


「あ……」


 視界が、火花を散らして真っ白になる。


「……あ……れ?」


 息が、うまく吸えない。喉がからからに乾いて、声の出し方を忘れてしまったみたいだ。

 ふと、鉛のように重くなった視線を落とすと、里親のお母さんが選んでくれた淡いワンピースの胸元から、銀色の“何か”が、男の手へと繋がっていた。


 赤い。こんなにも、人間の血って、赤いんだ。


「ミナ――!!」


 遠くで、ハルトの絶叫が聞こえた気がした。誰かが悲鳴を上げている。誰かが、狂ったように何かを叫んでいる。

 でも、もう、よく分からなかった。体の芯から急速に熱が抜けていく。アスファルトの地面が、ぐらりと近づいてくる。


 薄れゆく視界の中、最後に見えたのは。倒れゆく私を支えようとして、必死に伸ばされたハルトの手と――その背後に立つ、真っ赤に染まった刃を引き抜き、今度はハルトへとそれを振り下ろそうとする男の影だった。


(あ、逃げて、ハル――)


 そこまで願ったところで。私の視界は、音もなく、完全な闇に溶け落ちた。


 * * *


「――目を覚ましたのね、ミナ」


 どこかで、鈴を転がすような澄んだ声がした。まぶしい光が、黒く塗り潰された闇の中にふわりと浮かび上がる。そこだけ、世界が裏返ったみたいに眩しい。

 私は、重い瞼をゆっくりと開けた。

 そこは、どこでもなかった。黒とも白ともつかない、果てのない空間。上下の感覚も、遠近感すらも喪失する、奇妙な“空洞”。


 その中心に――女神がいた。

 星糸を紡いだような長い髪。光を編み込んだような透き通るドレス。絵本の中でしか見たことがない“女神”の姿そのままの存在が、柔らかく、完璧な微笑みを浮かべて、私を見下ろしていた。


「……私」


 自分の声が、ひどく遠く聞こえた。


(死んだのかな)


 そう思った瞬間、ふと気づく。胸が、すっと軽い。あんなに熱かった痛みが、どこにもない。息も普通にできる。慌てて胸元に手を当ててみても、裂けた服も、血の感触もなかった。


「ハルトは――!?」


 私の身代わりになって、あの刃に倒れたかもしれない。慌てて辺りを見回すと、少し離れた白い床の上で、片膝をついて息を呑んでいる誰かがいた。


「……ミナ?」


 かすれた声。振り向いた顔は、見慣れた幼馴染の少年のものだった。血の気は引いているが、怪我をしている様子はない。


「ハルト!」


 思わず駆け寄ると、自分の足がすんなりと動いて、それにすら驚いてしまった。


(さっきまで、胸を刺されて……息もできなかったのに)


 生きているのか、死んでいるのか。混乱して身を寄せ合う私たちをよそに、女神は穏やかな、波一つない声で言った。


「安心なさい。あなたたちは、まだ死んでいません。ただ、わたくしが“こちら側”に導いただけ」


「こちら……?」


「ええ。あなたたちの世界とは別の、“あちら側”から見た境界の場所。――人間に分かりやすく言えば、神の領域、かしら」


 ふわり、と、女神の豪奢なスカートが揺れる。

 その瞬間、私は本能的に感じた。この人は、私が絵本で読んで想像していたような“慈愛に満ちた優しい神様”なんかじゃない。瞳の奥に、私たちへの感情が、一ミリも存在していない。ただの記号のような微笑み。――綺麗すぎて、ひどく怖い。


「あなたたちふたりには、特別な“役目”を与えます」


 女神の視線が、ガラス玉のように真っ直ぐに私たちを貫く。


「この世界には“魔王”がいます。罪なき人々を脅かし、美しい国を滅ぼそうとしている、恐ろしい存在が」


(……魔王?)


 おとぎ話の中だけの言葉だと思っていた名詞が、やけに生々しい質量を持って響いた。


「だから、あなたたちには“勇者”として戦ってほしいのです。この世界を救うために」


 女神は、まるで「名前を書いてテストの答案を出してね」とでも言うみたいな、ひどく事務的で、無邪気で、軽やかな口調でそう言い放った。


「嫌です、と言ったら?」


 横から、ハルトの低く鋭い声が割り込む。その声は、得体の知れない神を前にしても一切震えていなかった。ただ、静かに、はっきりとした怒りを孕んでいた。

 女神の完璧な微笑みが、ほんの一瞬だけ、ピクリと固まる。


「……嫌、ですって?」


「俺たちは、あの駅前で勝手に刺されて、勝手にこんなところに連れてこられて……今度は、勝手に戦わされるんですか?」


「“あなたたちの世界”は、すでに危機を脱しました。今度は“こちらの世界”を救う番です」


「そんな理屈、俺たちは知らないですよ。元の世界に帰してください」


 ハルトの真っ当すぎる言葉が、私の胸にも突き刺さる。


(そうだ。私たちは、そんなこと、望んでない)


 母に会いに行くはずだった。いつも通りの明日を迎えるはずだったのだ。

 けれど――女神は、微笑みを崩さなかった。ハルトの抗議など、路傍の石ころの寝言とでも言うように、完全に無視して。


「望んでいなくても、“選ばれる人”はいるものです。あなたがたは、その“選ばれた側”なのですから。光栄に思いなさい」


 それは、お願いなどではない。絶対者からの、あまりにも一方的な宣告だった。

 次の瞬間、拒絶する暇も与えず、まばゆい暴力的な光が私の視界を真っ白に覆い尽くした。


「――ミナには“癒しと加護”の力を」

「ハルトには、“剣と守り”の力を」


 女神の底冷えのする声が、鼓膜ではなく、頭の中に直接響いてくる。熱く、重い何かが、胸から腕へ、足へと強制的に流れ込んでいく。息が詰まりそうなほどの異質な力。

 そしてそれと同時に、自分たちの存在が“この見知らぬ世界へ向かう道”へと、無理やり押し出されていく感覚。


(もう――元の世界には、戻れない)


 直感的に、そう思った。

 光の向こう側で、一切の感情を持たない女神の笑みが、ゆっくりと遠ざかっていく。私の視界は、抗うことすら許されず、再び深い闇に包み込まれたのだった。


 * * *


 理不尽な光に包まれ、次に気がついたときには、私はもう“この狂った箱庭”に立っていた。

 転移したばかりの頃は、ただ生き延びることで精一杯で、“あの日のこと”を深く考える余裕なんてなかった。


 魔王。勇者。聖女。


 絵空事だった言葉が、血と鉄の匂いを伴った現実になっていく。生きるか死ぬかの極限状態の中で、私たちはただ必死に武器を取り、戦うしかなかった。


 でも――少しだけ戦いに慣れ、夜の静寂が訪れる時間が長くなるにつれて。私は少しずつ、あの日の血だまりの記憶を、明確に“自分のせい”だと思うようになっていった。


(駅まで一緒に来てって頼んだのは、私だ)

(私がお母さんに会いたいなんて、身勝手な夢を見たせいで)

(あのとき、ハルトを呼ばなければ――ハルトはあんな通り魔に刺されることも、この世界に巻き込まれることもなかったのに)


 罪悪感が、喉の奥に鉛のようにこびりついて離れなかった。だから、私はずっと、不自然なくらい笑ってごまかしてきた。

 ハルトが「一緒に来てくれて助かったよ。ミナがいなかったら、俺一人じゃ戦えなかった」と気遣ってくれても。「ううん、こっちこそ」と、嘘の笑顔を貼り付けて。


(本当は、ごめんなさいって、土下座して謝らなきゃいけないのに)


 言えないまま。ただハルトの背中を治癒魔法で癒やすことだけが、私にできる唯一の贖罪だった。

 そうやって、臆病なまま時間だけが流れていった。


 ……でも。

 あの日のことを“自分のせいだ”と責め続けていたのは、私だけじゃなかったのだ――ってことを。この世界に来てから、随分と長い時間を経た今日、ようやく知ることになる。


『リディアも、ミナも、エイデンも、セラも、ヴェラも、サイも……――全員、ちゃんと“自分の意志で”帰れるようにする』


 さっき、召喚の間で。ハルトが、すべてを背負い込むような声で、“全部を何とかする”と叫んだとき。


(ああ、この人は)


 あの日からずっと。崩れ落ちる私を支えようと、必死に血まみれの手を伸ばしたあの瞬間から。

 私とまったく同じように、“あの駅前の出来事”を、自分のせいだと思い続けていたんだ――って。だから彼は、あんなにも怒り、あんなにも誰ひとり見捨てまいと必死に牙を剥くのだと。


 * * *


 人は、忘れたいと願う記憶に限って、いつまでも鮮明に覚えている。

 だから私は、一生忘れない。

 あの日、駅までのいつもの道を、他愛もない話をしながら並んで歩いたことも。怖くて仕方ないのに、期待で胸がいっぱいだった、馬鹿みたいな自分のことも。

 通り魔に刺されて、倒れて、日常の何もかもを失ったはずなのに――それでもまだ、あの時と同じように、絶対に私の隣にいてくれる人のことも。


 私は、静かに目を閉じる。


 あの駅前で、すべてを失って倒れゆく私に、血まみれの手を伸ばしてくれたハルト。日常を壊し、彼をこんな地獄に引きずり込んだのは私なのに――それでも彼は、あの時と少しも変わらない真っ直ぐな瞳で、私の隣に立ち続けてくれている。


(……ごめんね、ハルト)


 私の身勝手な夢に付き合わせたせいで、君の未来を奪ってしまった。君が今、すべてを救おうと自分を削って牙を剥いているのは、あの日私を救えなかった後悔を、ずっと一人で背負い続けているからだよね。

 なら、私の答えはもう決まっている。


(君を、帰そう)


 あの日、血に染まって途切れてしまった、あの平凡な毎日の続きへ。君の優しさが報われ、誰も傷つかずに笑っていられる、本当の明日へ。

 そのために、この狂った箱庭を、神様ごと全部ぶっ壊してやる。

 たとえその救済の果てに、私自身の居場所がどこにも残っていなかったとしても。

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