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(33)呪縛

 エイデンの口から語られた凄惨な真実は、冷え切った召喚の間に、鉛のような沈黙を落とした。


 魔王を討ち果たした歴代の勇者や聖女たちが、用済みとして無惨に切り捨てられ、絶望の中で死んでいったこと。そして――その運命から逃げ出そうとすれば、さらに惨たらしい末路をもたらす『呪い』が、今まさにリディアの命を縛り付けていること。


 あまりにも理不尽な世界の悪意を突きつけられ、誰一人として言葉を発することができない。逃げ場のない閉塞感が、召喚の間を分厚く塗り潰していた。

 そんな重苦しい沈黙の中で、ミナが恐る恐る、小さく手を挙げた。


「……あの。ねぇ、みんな……ひとつ、思ったんだけど」


「どうした、ミナ」


 ハルトが静かに顔を向ける。ミナは、青ざめた顔で立ち尽くすリディアを一度見て――すがるような、不安げな声で言った。


「魔導卿って……さっき、死んじゃったよね? だったら、リディアにかけられた呪い……もう、消えてたりしないかなって……」


 その言葉に、リディアの瞳がわずかに揺れた。術者が死ねば、術も解ける。それは魔法の基本だ。もしかしたら、もう自分は呪いの恐怖から解放されているのではないか――彼女の心が、ほんの少しだけその希望の光にすがりついてしまったのは、無理もないことだった。

 だが――エイデンは苦しげに目を伏せ、ゆっくりと、ひどく重い首を横に振った。


「……いや。あの外道は、以前俺を嘲笑いながらこう言ったんだ」


 エイデンの脳裏に、傲慢に顔を歪めた魔導卿の姿が蘇る。


『彼女の呪いを解くために私を殺そうとしても無駄だ。これは女神レグナ様のお力によって施された呪い。私が死んだところで消える類のものではない。それ以前に、お前は制約魔法によって私に傷一つ負わせることは出来んのだがな』


「……リディアの呪いは……今も続いているはずだ」


 パチンと、リディアの中で灯った小さな光が、無惨に踏みにじられた音がした。ミナはハッと息を呑み、両手で口元を覆った。


「……そ、そうだよね……ごめん……変なこと言って……」


 エイデンは静かに首を振る。


「謝るな、ミナ。お前が言ったことは――当然の疑問だ。俺だって、そうであってほしいと願った」


 空気に、さらに重く冷たい影が落ちる。消えていてほしいという切実な願い。けれど、絶対に消えていないという絶望的な現実。凍りついたような静寂が場を支配する中、ヴェラがゆっくりと、その空気を切り裂くように口を開いた。


「……エイデン。呪いを解くヒントがないか確かめてみましょう? 方法ならあるわ」


 ヴェラは虚空を見つめ、凛とした声で呼びかけた。


「――上位精霊さま。そこにいるんでしょう?」


 その一言に、部屋の空気がビリッと震えた。


「……っ、そうだ。上位精霊さまなら……!」


 ミナがハッとしたように顔を上げ、縋るような瞳でヴェラの隣を見つめた。


「あのひとなら、呪いの解き方とか……私たちよりもずっと、詳しく知っているはずだもんね」


 その言葉に、リディアもまた微かに目を見開いた。深い闇の底に沈んでいた瞳に、かつて湖畔で見たあの温かな光の記憶が、かすかな救いとして呼び起こされる。直後、氷を叩き割るような澄んだ声が、冷たく空間を割った。


「……騒々しいな。我を喚び出すからには、相応の理由があるのだろうな?」


 空気が急激に収縮するように震え、淡い光の粒子が王宮の血塗られた床へ吸い寄せられていく。水面のような“輪”が広がり、その中心から――ひとりの上位精霊が姿を現した。

 かつて精霊王の側近として世界の理を見守った、古い、古い精霊。その氷の刃のように透き通った無機質な眼差しが向けられると、ミナとリディアは、そこに宿る圧倒的で力強い気配を感じ取り、祈るような思いでその光を見つめた。


「契約者よ。我に、その者を助ける義理はない。我が興味は“あの下劣な女神を討つこと”ただ一つだ。人の子の事情など、知る必要もないし、介入するつもりもない」


 その言葉は冷たかったが、ヴェラは怯まなかった。己の意志を貫くために力を求めたあの日と同じ、淀みのない瞳で精霊を見返す。


「でも――女神の“やり口”を知ることは、私たちが女神を討つとき、きっと役に立つはずだわ」


 一瞬、精霊の透き通った瞳がわずかに揺れた。


「これは女神の呪い。解析してその構造を知る価値は、あなたにとっても十分にあると思うけれど――どうかしら?」


 短い沈黙。やがて、精霊はわずかに肩を揺らし、呆れたように、しかしどこか感心したように息を吐いた。


「……理の通ることを言うな、娘」


 精霊は不本意そうに、すっと白く細い手を差し出した。


「そこの娘よ。その“呪い”とやら――我に見せてみよ」


 リディアは緊張に小さく息を呑み、確かめるようにヴェラを見た。ヴェラは「大丈夫、信じましょう」と伝えるように、静かに、けれど確かな信頼を込めて頷き返した。


「……お願いします」


 震える声でリディアが応じると、精霊が音もなく近づき、何も言わずに彼女の胸元へと手を伸ばす。空気が共鳴して震え、目に見えぬ冷たい力が、リディアの魂の奥底へと直接触れようとして――。


 バチィッ!!


 弾かれたように精霊が手を引き、その端正な顔を微かに歪めた。その指先からは、神性の残滓が火花のように散り、冷たい虚空へと消えていく。そして、地の底から響くような、低く、冷たい声で告げた。


「……なんという、忌まわしい縛りだ」


 その一言が、場の温度を一気に氷点下へと奪い去った。エイデンの喉が鳴る。


「神の手による呪い……やはり、そうなんだな?」


 精霊は答えなかった。ただ、リディアの魂に触れた己の指先を、忌々しげに凝視している。その指は、神の力の余波に当てられたかのように、微かに震えていた。


「……契約者よ。一つだけ、慈悲を語ろう。術者であるあの男が果てたことで、この呪いを強制発動させる『引き金』は機能を喪失した。この者が、ただちに呪いによって命を奪われることはもはやあるまい」


「え……? だったら……!」


 ミナの顔に、一瞬だけ陽だまりのような希望が差した。だが、精霊の冷酷な双眸が、それを即座に凍りつかせる。


「――だが、それ以外はひたすらに救いがない」


 精霊の声は、地の底から響くような重苦しさを帯びていた。


「この呪いは、レグナリアという世界そのものに固定されている。


 世界に深く打ち込まれた巨大な『(くさび)』を支柱とし、呪いそのものが逃れられぬ『鎖』となって、この者の魂を繋ぎ止めておるのだ……。あまりにも歪で、悪辣な構造よ」


「楔と……鎖……」


 ヴェラが喉を鳴らすと、精霊はリディアの魂の奥底に絡みつく「見えざる呪縛」を射抜くように言葉を継いだ。


「それが意味するのは、この者が二度と世界を渡ることはできぬということだ。この境界の内側で生を繋ぐ分には、鎖が牙を剥くこともなかろう」

「だが――ひとたび“外界”へと足を踏み出そうと試みれば、鎖は逃さぬと言わんばかりに引き絞られ、魂は器ごと無惨に崩壊する」


「崩壊、って……」


「万が一、元の世界へ戻る道を見つけたとしても、その境界を越える瞬間……この者の魂は千の欠片に引き裂かれ、霧散する。……お前たちの目の前でな」


 リディアが、ヒッと小さく息を吸い込んだ。


「……そんな……じゃあ……リディアは……」


 ミナがボロボロと涙をこぼしながら、震える声でつぶやいた。

 リディアは、両手で自分の胸を掻き抱くように強く握りしめた。指先が、腕が、全身が、止めどなくガタガタと震えている。呼吸が浅くなり、瞳からは恐怖と絶望の涙がぼろぼろと溢れ落ちた。

 『平和な元の世界へ帰る』。他の転移者たちであれば誰もが当たり前に思い描くその選択肢は、あまりにも無慈悲に奪い去られた。この狂った箱庭から外へ出ようと一歩を踏み出した瞬間、自分は千に引き裂かれて消滅するのだ。


「……じゃあ……私は……」


 リディアの口から、掠れた、泣き声のような言葉がこぼれ落ちる。


「……私は、もう……帰れないんだ……」


 その小さくも痛切な声に、誰もすぐには言葉を返せなかった。


 ――。


『――境界を越える瞬間……この者の魂は千の欠片に引き裂かれ、霧散する』


 上位精霊の冷酷な宣告が耳の奥で木霊した、そのほんの一瞬。リディアの意識は、薄暗い召喚の間から引き剥がされ、遠い“かつての世界”の記憶へと真っ逆さまに落ちていった。


 ――鼓膜を破るような、凄まじい爆発音。視界が暴力的に反転し、激しい金属の軋みとともに、乗っていたバスごと世界が横転する。鼻の奥にこびりついて離れない、硝煙とガソリン、そして焦げた血の匂い。耳をつんざく人々の悲鳴。


 ひしゃげた暗い車内で、彼女は必死に手を伸ばし、隣に座っていた母のぬくもりを探した。けれど、どれだけ呼んでも、指先が触れたその手はひどく冷たくて、二度と握り返してはくれなかった。

 テロリズムという、あまりにも理不尽な暴力。誰も責めることなどできない。ただ、家族の中で自分だけが、生かされてしまった。


 あの日から、彼女の世界から一切の“色”が消え失せた。ベッドの上で目を覚ました彼女に残されていたのは、家族の死という現実と、二度と動かなくなった半身。

 車椅子の(わだち)だけが、彼女の新しい足になった。鏡に映る自分を見るのが恐ろしかった。生気を失い、ただ呼吸をしているだけの抜け殻。幸せだった頃の家族写真を見るたびに、息ができないほどの痛みが胸を苛んだ。


 周囲の大人たちは優しかったが、その目に浮かぶ「同情」と「憐れみ」が、何よりもリディアの心を殺していった。明日など来なければいいと、本気で願っていた。私の未来なんて、あの日、あの焼け焦げたバスの中で完全に終わっていたのだと。


 だけど――。

 見知らぬ異世界で目を覚ましたあの日。


 恐る恐る力を込めた足が、確かに大地を踏みしめた。立てた。歩けた。走れた。冷たい風を頬に受け、思い切り息を吸い込むだけで、胸の奥底から熱いものがこみ上げ、とめどなく涙が溢れた。


 私は、“生きている”。


 血が巡り、自分の足で前へ進むことができる。

 この世界で出会った仲間たちは、リディアを「可哀想な被害者」ではなく、共に戦う仲間として見てくれた。そして、北の交易都市で出会ったあの人々。泥だらけの自分たちに花束を差し出し、心からの「ありがとう」を叫んでくれた彼らの笑顔。

 女神を盲信する者たちとは違う、懸命に生きる彼らの温もりに触れたとき、リディアは初めて、自分自身の足で「新しい人生」を歩んでいるのだと実感できたのだ。


 もし、かつて願ったように元の世界へ帰る手段が、今ここに差し出されたとしても。同情と憐れみに満ちたあの灰色の日常へ戻るより、泥にまみれても自分の足で立ち、ただの『リディア』として笑い合えるこの場所で生きていくこと。

 ……それこそが、今の私が心の底から欲していたものだったはずだから。


(……ああ。だったら、私は……)


 神の呪いによって「帰れない」のではない。自分の意志で、「ここにいたい」と願うのだ。

 そう思い至ったとき、彼女の震えは不自然なほどに収まっていった。


「……大丈夫」


 ぽつりと落ちた声は、少しも震えていなかった。


「リディア……?」


 ハルトが戸惑うように名を呼ぶ。リディアは、泣き出しそうな顔をしている仲間たちを見回し、ゆっくりと、花が綻ぶように微笑んだ。


「私は、帰れなくてもいいの」


 その言葉に、最も激しい衝撃を受けたのはエイデンだった。


 彼が己の良心を殺し、孤独な泥を被ってでも「帰してやりたい」と願ったその人の口から出たのは、あまりにも穏やかな“拒絶”だったからだ。


「私……転移する前、車椅子の生活だったの」


 血塗られた召喚の間に、彼女の静かな声だけが響く。


「家族と出かけたバスが、テロに巻き込まれて……。両親も、兄弟も失って……身体の半分も、二度と動かなくなって……」


 誰も、言葉を返せなかった。

 惨たらしい王城の死骸の真ん中で、彼女が語る『チキュウの地獄』。平和であるはずの元の世界が、彼女にとっては未来のない真っ暗な牢獄だったという事実に、全員が息を呑む。


 リディアは、しっかりと大地を踏みしめている自分の足にそっと手を置き、静かに続ける。


「でもね、この世界に来て……また、自分の足で歩けるようになって。『かわいそうな犠牲者』じゃない、ただの『リディア』になれた」

「……だから、あっちの世界に戻って、またあの何もできなかった自分に逆戻りすることに、もう未練なんてないの」


 そこに、涙はなかった。その分だけ、彼女の言葉は深い確信となって、聞く者の胸を強く、強く打った。


「だから……みんな、私に手を貸してくれる?」


 リディアは、まっすぐに仲間たちを見据えた。


「この世界を、救いたいの。“本当の意味で”。女神が決めた残酷な筋書きを壊して、誰もが自分の意志で笑える、本当の明日を作りたいの」


 ただ魔王を倒すだけの、神に仕組まれた茶番劇ではない。誰もが犠牲にならず、心から笑える世界へ。その小さな身体に宿った決意は、誰の目から見ても強固だった。神の理不尽な呪いすらも受け入れ、この世界で生きる道を選んだ一人の人間。

 誰もがその崇高な覚悟を前に、立ち尽くすしかない――そう思われた、しばしの沈黙。それを、強引に叩き割ったのは、ハルトだった。


「……ダメだ」


 低く、押し殺した声。リディアがゆっくりと顔を向ける。いつもは飄々としているハルトの目が、かつてないほど鋭く燃えていた。


「“帰れなくてもいい”なんて……そんなの、絶対に言わせたくない!」


 その声には、一切の迷いがなかった。


「帰れるようにする。残るか、帰るか……最後に選ぶのは、リディアでいい。でも、『残るしかないから帰らない』なんて……そんなふざけた理由で、君の未来を諦めさせない!」


 ハルトの強く握りしめた拳は、微かに震えていた。言葉が止まらない。止めてなるものかという、執念にも似た響きがあった。


(……俺は。ミナだけは、絶対に帰さなきゃいけないんだ)


 ハルトの胸の奥底で、誰にも言えない悲痛な決意が炎を上げる。何があっても。自分自身がどうなろうとも。ミナだけは、あの平和な世界へ帰す。だからこそ、神の呪いだろうがなんだろうが、“帰れない”という理不尽を、彼は絶対に認めるわけにはいかなかった。


「だから……全部、何とかする」


 ハルトは顔を上げ、全員の顔を力強く見渡した。


「リディアの呪いも、ミナも、エイデンも、セラも、ヴェラも、サイも……!」


 そして、いつもの、少し呆れるほど自信満々な笑みを、ほんの少しだけ口元に浮かべた。


「ついでに、このイカれた世界も救ってみせるさ。どうせやるなら……まとめてでいいだろ?」


 その無茶苦茶で、けれどどこまでも真っ直ぐな言葉は、暗く淀んでいた場の空気に、確かな希望の灯りをともした。リディアは――今度こそ、心からの安堵とともに、柔らかく微笑んだ。


「……ありがとう、ハルト」


 だが、その再生し始めたばかりの温かな空気を、氷の刃のような精霊の震える声が鋭く切り裂いた。


「悪い知らせは、それだけではない」


 全員の視線が、再び上位精霊へと集中する。精霊は、もはや己の震えを隠そうともしなかった。 その透明な指先が、微かに、けれどはっきりと、恐れを刻むように揺れている。


「たとえあの女神を討ち果たし、その神性が消滅したとて、この呪いが消えることはあるまい。楔はすでにこの世界のことわりの一部となり、深く、あまりに深く突き刺さっているのだからな」


 エイデンの顔から、一切の血の気が引いた。かつての聖女たちの末路を知り、己の良心を殺してまで彼女たちの「生」を繋ごうと泥を被り続けてきた彼にとって、それが何を意味するのか。最悪という言葉ですら生ぬるい結末を、その本能が悟っていた。


「しかも、この楔……。あやつめ、何を考えておる」


 精霊の瞳が、恐怖に細められる。 それは、かつて精霊王に仕え、数多の(ことわり)を見てきた存在ですら、直視することすら厭うほどの「悪意」だった。


「これは単に、娘を縛るためだけの杭ではない。……この星そのものを砕き割るために打ち込まれた、侵食の針よ。もしこれが星の核にまで到達すれば、レグナリアはこの星ごと瓦解するだろう」


「星……ごと?」


 ハルトの呟きに、精霊は力なく首を振った。 先ほどまでの不遜な威厳はどこにもない。


「……我が震えを止めることができぬとは。神の権能がこれほどまでのものとは、想像だに及ばなかった。人の身で、精霊の身で、抗える道理がどこにあるというのだ……」


 精霊は、崩れ落ちるようにその場に膝をついた。血塗られた召喚の間に、その震える膝がぶつかる鈍い音が響く。そこには巨大な「真実」を突きつけられた一人の敗北者しかいなかった。


「契約者よ、断言しよう。我らに神を討つことなどできぬ。汝とはそう約束したが……あやつにとって、我らも、かつての精霊王も、あまりに矮小で無意味な存在に過ぎなかったのだ」


 精霊の諦念は、毒のように静かに、けれど確実に、再び場を侵食し始めた。

 救いたいと願った世界そのものが、常に崩壊と隣り合わせの危うい均衡の上に立たされている。女神の意志一つでいつでも全てが瓦解を始めかねない残酷な現実に、ハルトたちが灯したばかりの小さな希望が、再び激しく揺らぎ始めた。


「……無理、だなんて……」


 失意を撒き散らして跪く精霊の前に、一歩、ミナが踏み出した。その肩はまだ小刻みに震えていたが、俯いた顔からこぼれ落ちる涙は、先ほどまでの恐怖によるものではなかった。


「そんなの……勝手に決めないでよっ!!」


 ミナの叫びが、血塗られた召喚の間に鋭く響き渡った。驚いたように、上位精霊がその無機質な瞳をミナへと向ける。そこには、何千年という時を生きてきた高位存在を、ちっぽけな人間が叱りつけるという異常な光景があった。


「あなたは上位精霊さまでしょ!? 私たちよりもずっと、ずっと長く生きてるんでしょ!? だったら、もっとシャキっとしてよ! 凄いはずなのに……そんな風に、すぐ『できない』なんて言わないでよ!」


「……娘よ、汝にはわからぬのだ。神の権能の底知れなさが……」


「わかんないよ! 神さまがどれだけ凄いかなんて、これっぽっちもわかんない!」


 ミナは乱暴に涙を拭い、跪く精霊を真っ直ぐに指差した。


「でも、私が知っているのは、リディアが今自分の足で立ってるってことだよ! あんなにガタガタ震えて、怖くて、それでも前を向いて『世界を救いたい』って……言ったんだよ!それなのに、無理だからって、リディアに諦めろって言うの?」


 ミナの瞳に、激しい怒りと悲しみの光が宿る。


「ハルトは全部救うって言った。私たちはね、どんなに無理だって言われたって、絶望されたって、泥をすすってでも、最悪な神様の筋書きをぶち壊しに行くんだから!」

「――だから、アンタもそこについてきなさいよ! ひとりで勝手に諦めて終わりにしないで! 知恵があるなら貸して! 私たちが戦うための『やり方』を、一緒に見つけなさいよ!」


「……無知なるがゆえの、傲慢だな」


 精霊が、掠れた声で呟く。だが、その瞳からは先ほどまでの「死んだような色」が消え、目の前の小さな少女を、一人の「意思ある生命」として見据える鋭さが戻りつつあった。


「世界の理を書き換え、神の楔が星核へと至るのを阻む……。それが、どれほど凄絶な代償を強いることか、汝らには想像もつかぬだろう」


「想像つかなくてもいい! やるの! やるって決めたんだから!」


 理屈など通用しないミナの勢いに、精霊は呆れたように、けれどどこか「救われた」かのように、静かに目を伏せた。その唇から、吐息ともつかぬ微かな風が零れ落ちる。彼は自身の半透明な、けれど微かに震える指先をじっと見つめる。その氷の刃のような瞳の奥で、無機質な思考の海が激しく波打っていた。


(認めよう。我一人の力をもって神を討つなど、到底叶わぬ空理に過ぎぬ……)


 それは、世界の理を知る者としての冷酷なまでの自己評価。しかし、目の前の少女が放つ「根拠のない輝き」が、彼の思考の死角に一点の光を投げかける。


(……だが、あの『楔』がこの世界の理に属する物質であるならば。それを御し、止める術がないわけではない)


 たとえ、この世界を女神の手から完全に救い出すことが叶わぬとしても――せめて、この星の崩壊だけは、我が手で食い止めて見せよう。


(……しかし、それでも未だ欠片ピースが足りぬ。この終末を繋ぎ止めるために必要な、神力に等しき力を持つ“神聖なる器”が……)


 条件は分かっている。だが、そんな稀有な存在を、一体どこで見出せばいい。神の力に抗い、我が魔力を放出し続けられるほどの強固な器など、もはやこの地上には――。

 精霊がその「見出せぬ答え」を求めて深く沈潜しようとした、その時だった。


 ズ……ン……。


 王都の外壁を越えたさらに先、地の底を這うような、ひどく重く低い音が静かに響いていた。空気がわずかに、不気味に揺れる。それはまるで、途方もなく重い“何か”の蓋が開き、深淵から這い出してくるような地鳴りだった。


 しかし――召喚の間にいる誰一人として、足元を伝うその微かな震動にさえ気づくことはなかった。王都の周縁、忘れ去られた“封印の塔”の地下深くで、かつての英雄たちが再び歩み始めた、その足音であることに。

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