(32)崩壊する世界
その朝――聖レヴェリア王国の中枢たる王城に、阿鼻叫喚のうめき声が満ちていた。
うつ伏せに倒れた重装備の兵士が、がくがくと痙攣しながら濁った声を呻く。別の兵士は口から血の泡を噴き、見えない何かを必死に掴もうとするかのように、虚空に向かって指先を泳がせていた。
――まるで、最悪の悪夢だった。
異変を察知して王城へ駆けつけた転移者たちは、その信じがたい光景に言葉を失い、ただ立ち尽くした。
「……うそ……」
ミナが声を震わせながらつぶやく。だが、目に映る光景は、すべてが逃れようのない“現実”だった。床をのたうつ兵士たちの額――そこには、人間にあるはずのないものが現れていたのだ。
「角……?」
リディアがひとりの兵士の顔をのぞき込み、恐怖に悲鳴を押し殺す。それは、ひとりやふたりではなかった。視界に入るすべての兵士、すべての人間たちの額から、禍々しくねじれた角が突き出していたのだ。
「これ……まさか」
セラが、信じられないものを見るように震える声でつぶやいた。
「……なんてこと……『災厄の子』の角と、同じじゃない……!」
兵士たちの額を割って生えた角の根元からは、あの黒い霧が静かに漏れ出していた。それは猛毒のように、逃れられぬ呪いのように、彼らの肉体を内側から貪り、蝕んでいた。
「くっ……!」
サイは拳を白くなるほど握り締め、ギリッと奥歯を噛みしめた。
「あの、クソ女神……!!」
『災厄の子』の角。それは、十分に育たぬまま無理やり目覚めさせられれば、宿主の身体を破壊し尽くす呪いそのものだ。結果は、あまりにも明白だった。兵士たちは苦悶の声をあげながら、次々と糸の切れた人形のように崩れ落ちていく。
庭園。訓練場。大広間。家臣の居室。厨房、食堂、礼拝堂、城壁、地下牢――。
そして、王室。
どこを見ても、同じ光景だった。額に角を生やした者たちが、大量の血を吐き、倒れ、息絶えている。兵士も。家臣も。そして、あの沈黙の王でさえも。
さらには、王に代わって権勢を振るっていた魔導卿までもが、例外ではなかった。この城にいるすべての者が、一人残らず絶命していたのだ。
王城の最奥、召喚の間。魔導卿はそこで、無惨に倒れていた。その額には、死の間際に皮膚を突き破って浮かんだのであろう禍々しい角があり、根元から黒い霧がじわりと漏れ続けていた。
「くそっ……!」
突如、怒声とともにエイデンが魔導卿の亡骸を激しく蹴り上げた。勇者として極限まで鍛え上げられた脚力を受け、豪奢な法衣に身を包んだ遺体は無惨に宙を舞い、重く鈍い音を立てて冷たい石の床へ転がる。
「エイデン!?」
常に冷静沈着だった彼のあまりにも唐突で暴力的な行動に、全員が息を呑んだ。エイデンは俯いたまま、ゆっくりと、己の手から血が滲むほどに強く拳を握りしめる。
「お前が死んでしまっては……リディアにかけられた呪いは……」
「……え? 呪い……?」
自分の名が出たことに、リディアが怯えたように胸に手を当てた。
エイデンはしばらく黙っていたが、やがて、魂の底から絞り出すように言葉を落とした。
「……こいつが、死んだのだ。もう……お前たちにも隠しておく必要は、ないのかもしれない」
「エイデン……?」
ハルトが固唾を飲む。彼が何を告白しようとしているのか、誰一人として理解できなかった。エイデンは静かに、しかし血を吐くような苦悶の表情で言った。
「この王城で俺たちが見た光景――あの死屍累々の有様は、歴代の勇者と聖女の末路だ」
「……あれが……過去の勇者たちの……!?」
白い顔をさらに青褪めさせ、ミナがガタガタと震えた。
「ああ。俺はその事実を知ってしまい……この魔導卿に口止めされた。リディアに“呪い”をかけることでな」
リディアは、小さく息を飲んだ。
「……私に、呪い……?」
「お前の身体を蝕み、惨たらしい死に至らしめる呪いだ。……お前がどんなふうに壊れて死んでいくか、あの外道は俺に、事細かに語って聞かせた」
エイデンは顔を歪めたまま、ゆっくりとヴェラとサイの方へと向き直った。その瞳には、深い後悔と悲哀が宿っていた。
「……チキュウから転移した五人のうち、この世界に最初に降り立ったのは、私だった」
彼の声は淡々としているのに、その奥底でどうしようもなく震えていた。
「お前たち四人と同じように、この地に降りる前にあの女神と対面した。そのとき……スキルを授けられ、魔王を倒すよう命じられた」
エイデンはリディアへ視線を落として目を閉じた。
「少し遅れて……リディアがこの世界に転移してきた。望んでもいないのに、だ」
リディアは胸元の服をぎゅっと握りしめ、込み上げるやり場のない感情に俯いた。
「だから……思ってしまったんだ。この人だけでも、元の平和な世界に帰せないか、と」
エイデンは拳を握りしめ、爪が掌に食い込むほど力を込めた。
「王都の外れに“封印の塔”という場所がある。そこに、元の世界へ戻るための手がかりがあるかもしれないと考えた私は、魔導卿の目を盗んで一人で調べていた」
そして、彼は声を震わせながら凄惨な真実を続けた。
「……そこで……俺は歴代の勇者と聖女の亡骸を見つけた。遺体からは黒い霧が漏れ……そして、その額にはすべて……角があった」
サイは鋭く目を細めた。ヴェラが静かに核心を突く。
「……『災厄の子』と、同じ角……」
「そうだ。だが、その場で私は魔導卿に見つかった」
ハルトが息をのむ。
「エイデンは……何もされなかったの?」
「ああ。しかし――代わりにリディアが人質となった。『魔王を倒す前に帰ろうとすれば、リディアは惨たらしい死に方をする』と脅されてな」
「それで、魔導卿はあなたに……何を命じたの?」
ヴェラの静かな問いに、エイデンはひどく悔しそうに目を伏せた。
「……追加で転移してくる勇者たちが、何の疑問も抱かぬように振る舞えと。魔王を倒す意味も……歴代勇者の末路も……“帰れる可能性”についても……一切、口にするな、と」
「……エイデン、あなた……ずっと……」
リディアは青ざめた顔のまま、震える唇で囁いた。その時――ヴェラの胸に、以前リディアが静かに語った言葉がよみがえった。
『でも……この世界の人たち、みんな優しくてさ。自分たちのために、誰かが命を懸けてくれてるって、ちゃんと分かってるの。それが分かるから、私たちも、簡単に背を向けられないのよ』
ヴェラは、エイデンの苦しみに満ちた顔をまっすぐに見つめた。
「あなたが……他の四人の思考を誘導していたのね。魔王を倒さずに元の世界に帰ろうとしないように。この世界の人たちを救うことこそ価値があると――そう思わせるために」
エイデンは肯定するように、ただ苦しげに目を伏せる。ヴェラは、そっと彼に寄り添うように続けた。
「……そうして、ずっとみんなを守っていたのね」
その言葉に、鋼のように張り詰めていたエイデンの肩が、かすかに揺れた。
「……お前たちを、ずっと騙していてすまなかった」
エイデンの声は、かすれるように低かった。ハルトが即座に首を振る。
「騙したなんて……そんな風に言わないでくれよ」
エイデンはわずかに目を伏せ、続けた。
「……俺は呪いを解く方法を探しながら、できるだけ時間を稼いでいた。魔王を倒してしまえば、俺たちは過去の勇者たちと同じように、呪い殺されて“用済み”となる。だから……あえて撤退を提案したりしていた」
ミナが息を呑む。
「エイデン……そんな理由が……」
その時、ハルトが静かに目を細めた。
「――そういうことだったんだね。以前、魔王の姿を見たセラの様子がおかしいと、それだけの理由で撤退したことがあっただろう?」
エイデンが目を伏せ、深く頷く。
「……ああ。あれは建前だ。本当は……少しでも時間を稼ぎたかった。リディアの呪いを解く方法を、どうにかして探したかったんだ」
エイデンはゆっくりと拳を握る。その震えはもはや後悔や苦悩ではなく、不条理な世界への押し殺した怒りのようだった。
「――だが、その稼いだ時間で気づかされたのは、別のことだった。この国がどう動いているのか……その狂った“構造”だ」
彼は顔を上げる。
「以前、“国王の言葉は高位の身分でなければ聞くことはできない”と言っただろう。――あれは嘘だ」
一同が息をのむ。
「真実は……国王は“天啓を得る資格”を失っていた。あの狂った女神の怒りを買ったからだ」
エイデンは顔をゆがめた。
「理由は――当時の勇者への扱いだ。国王は彼らを疑い、軽んじ、魔王討伐の意味すら見失わせた。結果として勇者たちは混乱し、“元の世界へ帰れないか”と動き始めた。その行動が、女神の逆鱗に触れた」
ヴェラの目が細くなる。
「その結果……?」
エイデンはひどく苦い沈黙のあと、言葉を続ける。
「国王は“神に選ばれた存在”である資格を剥奪された。その役目――天啓を受け、王国を導く役目は……すべて、あの魔導卿に移ったんだ」
サイは呆然としたように瞬きをした。
「だから……王城のすべてが、魔導卿の独断で動いていたのか。……王はただ頷くだけの影……。そして魔導卿は、“余計な疑い”を新しく来た勇者に抱かせないように、細心の注意を払っていたんだろうな」
ヴェラは静かに繋げた。
「私たちが“変だ”と思ったあの瞬間全部に、理由があったのね……。罠でも企みでもなく、ただ――本当の狂った仕組みが、見えないように隠されていただけだった」
エイデンは自嘲するように苦く笑う。
「転移者たちへの丁重すぎる扱いは、そういう事だ。そして……サイ、お前たちふたりは召喚された勇者でもないのに、王国の保護下に置かれた。理由は単純だ。――俺がいたからだ」
「魔導卿にとって、俺は“次の勇者たちを管理するための装置”だったからな」
サイは拳を握りしめ、かすかに苦笑した。
「……つまり、俺たちが何を考えて何をしてたか、最初からエイデン経由で全部“王城に筒抜け”だったわけだな」
「そうだ」
エイデンは、自分を責め立てるように苦い息を吐く。
「俺は……お前たちに危険が及ばないよう、魔導卿に渡す情報を選別していた。特に――『災厄の子』に関することだけは、絶対に伝えなかった」
「サイ、そしてヴェラ。お前たちを“魔王の真実を知る者”として魔導卿に引き渡すわけには……どうしてもいかなかった」
ヴェラの胸に、ひやりと冷たいものが落ちる。
(エイデンは……そこまで、一人で背負って……)
リディアは青ざめたまま、震える声で絞り出した。
「……エイデン。あなた……ずっと、ひとりで……?」
「必要だったから黙っていただけだ。お前たちに、余計な重荷を背負わせたくなかった」
エイデンは首を振り、言葉を続ける。
「だが……いつまでも時間稼ぎはできなかった。当代の魔王――つまりレイは、歴代の魔王に比べて強くなかった。
理由は、お前たちの話で察しがついた。……恐らく、被害の大半を“無人地域”に誘導できたからだろう。世界の痛みをほとんど喰らわないまま成虫になった結果……」
ヴェラが続きを引き取った。
「……“本来の強さ”になりきれなかった、ということね」
エイデンは重く頷いた。
「そんな最中、情報収集部隊から“新たな魔王が出現した”という伝令が届いた。それを聞いたとき……正直、胸をなでおろした。不謹慎だが……これでまだ、時間を稼げると考えてしまったんだ」
ハルトが苦い顔で言う。
「……エリンがこの世界に渡ったことが、結果的に……俺たちにとって幸運だったってことか」
「そうだ。もしあのまま魔王を倒してしまっていたら、俺たちは――」
エイデンは、ゆっくりと、痛みをこらえるように息を吸い込む。
「――過去の勇者たちと、同じ末路を辿るところだった」
「過去の勇者たちに……いったい、何があったの……?」
リディアの声は、小刻みに震えていた。エイデンは、彼女の恐怖を真正面から受け止めるように、静かに、そして残酷な真実を告げた。
「それは――」
* * *
――聖レヴェリア王国全土で、『災厄の子』たちが一斉に息絶えた。
兵士、家臣、そして王族。額に禍々しい角を宿したまま、あちこちに冷たく横たわる無数の亡骸たち。
やがて、そのひび割れた角の根元から、黒く濁った霧がゆらり、ゆらりと立ち上り始めた。それはまるで、確かな意思を持った群れのように空中で結びつき、巨大な黒雲となって空を裂き、ただ一つの方向へと吸い寄せられていく。
集束する先は、王都の外れ。建国以来の遺産にして、あらゆる災厄を封じたとされる不可侵の“聖域”――封印の塔。その地下深く、光すら届かず、外界から完全に隔絶された冷たい石室の奥底だった。
そこには、いくつもの巨大な“棺”が、並べられていた。それらの中に眠るのは、封印されし過去の召喚者たち。この世界が身勝手に呼び寄せ、搾取し、そして用済みとして使い捨ててきた、歴代の勇者と聖女たちの成れの果てだ。
今やその呼び名すら歴史から忘れ去られた彼らは、かつて煌めく剣を手に取り、仲間と共に“魔王”を討ち果たした本物の英雄だった。王国民の熱狂的な喝采を浴び、永遠に語り継がれる伝説となるはずだった。
だが、あの女神が彼らに与えた“役目”は、そこまでだった。
戦いが終わるや否や、彼らは神から与えられたスキルを容赦なく剥奪された。輝かしい功績は歪められ、やがて教会から“不要な異物”として無惨に追放されたのだ。
命を懸けて守り抜いた民に裏切られ、信じて疑わなかった神に見放された彼らを待っていたのは、英雄への恩賞などではなく、身を焼き尽くす理不尽な『落とし穴』だった。
額を割り、脳を蝕むようにして禍々しい角を与えられた彼らは、逃れられぬ苦悶の中で次々と死に絶えていった。名も、故郷の記憶すらも奪われ、誰一人として看取られることなく、孤独と絶望の中で朽ち果てていった。
やがて彼らの無惨な亡骸は、女神の命によって、この塔の最下層に厳重に封印された。スキルを失い、惨めに死に絶えたその姿が、追われた過去の真実が、決して――次代に召喚される「新たな勇者たち」の目に触れないようにするためである。
そして今。
王都中から集まった闇のように濁った霧は、その冷たい“棺”の隙間へと、泥が沈むように静かに満ちていく。怨念のような黒い霧が、ひからびた肉体へと染み込んだ、その時。
ギシッ……と、重い音が地下室に響いた。
そして――一体、また一体と。死に絶えていたはずの勇者たちが、ゆっくりと目を見開く。光のない空虚な眼差し。血の通わない、命なき身体。だが、その亡骸は、絶望の糸に操られるようにして、確かに動き始めていた。
なんという、残酷な皮肉だろうか。かつてこの世界の救いを託され、命を燃やした英雄たちが。今や、この世界そのものを滅ぼし尽くす『災厄』の器として、深い地の底から蘇ったのだから――。




