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(31)ヴェラの願い

 ――ここは、“チキュウ”ではない。

 ヴェラたちが生まれ育った、“精霊王の世界”でもない。


 祝福という名の呪いを受けた地。その世界の名は、“レグナリア”。

 かつて、偉大なる姉神エルフェリアが、愛してやまない妹神レグナを想い、慈しみ、その名を冠して贈った世界。

 最も優しく、最も純粋な祈りが込められたはずの、命の揺り籠――。


 太古の時代、この地には神の加護が存在しなかった。

 混沌と闘争が大地を支配し、無数の命が血の川となって流れ、人々の希望は朝霧のように儚く消えていくばかりだった。

 それを天より見下ろして憂えたエルフェリアは、自らの『祝福』をこの荒れ狂う世界に注ぎ込んだ。


 やがて、一人の王が誕生する。強く、賢く、誰よりも慈悲深い男だった。

 彼のもとに人々は寄り添い、手を取り合い、ひとつの国を築き上げた。エルフェリアはその王に「レヴェリア」の名を与え、王と王国に永遠の繁栄を約束した。


 こうして、世界は劇的に変わった。

 血で汚れていた戦は治まり、荒れ果てた土は黒々と肥沃になり、濁った川は清流を取り戻し、空はどこまでも高く晴れ渡った。

 金色に波打つ穀物、たわわに実る果樹園、陽光の下でのびのびと草を食む牛馬――。

 人々の顔には、確かな安らぎと生きる誇りが満ちていた。彼らの感謝と信仰は、ごく自然に、命の恩人たるエルフェリアへと向けられた。

 レグナリアの隅々にまで、優しき姉神への純粋な賛美が響き渡ったのだ。


 しかし――その美しき世界に、致命的な歪みが持ち込まれる。

 ある日、この世界の「本来の持ち主」である妹神レグナが、足を踏み入れたのだ。

 空の色が変わり、傲慢な神託が告げられた。


『この世界を司る神は、もはやエルフェリアではない』と。


 信仰の対象の、強引な書き換え。それがすべての地獄の始まりだった。

 だが、人々はエルフェリアへの愛を忘れなかった。王国は混乱し、神の不在を突いてかつての敵国との軋轢が再燃し、レグナリアの空気は少しずつ、しかし確実に澱んでいく。


 苛立ったレグナは、新たな、そして決定的な神託を下した。

 ――わたくしを信じなさい。さすれば永遠の繁栄を、与えましょう。


 そして、王国に“魔王”が出現した。

 漆黒の霧に包まれた巨躯が、悲鳴を上げる町を焼き、大地を割り、虫けらのように命を踏みにじっていく。

 人々が為す術もなく絶望の淵に沈んだ、まさにその時。異世界より召喚された“勇者”と“聖女”が、計算し尽くされたタイミングで姿を現す。


 煌めく光の剣と、聖なる祈り。

 “魔王”との激戦の果て、彼らは見事に奇跡を起こし、邪悪なる存在を討ち果たした。


 王都に響き渡る、歓喜の鐘。


「万歳!」

「勇者さま!」

「聖女さま!」


 地鳴りのような熱狂が広がり、歓喜が爆発し、涙を流す人々の祈りは、今度こそレグナへと捧げられた。


「感謝します、女神様!」

「我らを救いし、唯一なる御方に――!」


 そうして、王国の民はレグナを信仰するようになった。

 否、信仰せざるを得なくなったのだ。

 圧倒的な絶望である“魔王”が現れ、圧倒的な希望である“勇者”と“聖女”が現れ、それを討ち果たす。

 目の前で繰り返される、あまりにも分かりやすい「神の奇跡」に、誰もがすがりついた。

 誰もが、レグナこそが自分たちを救う唯一の神なのだと、脳の髄まで信じ込まされた。


 疑う者は、いつの間にか夜の闇へと消えた。

 都合の悪い記録は書き換えられ、反逆の声は甘い賛美歌にかき消され、世界の真実は冷たい土の底へと封じられた。


 それから、三百年もの時が過ぎた。


 幾度となく魔王が出現し、幾度となく勇者と聖女が使い捨てのように召喚され、その度に、幾度となくレグナへの狂信的な感謝の祈りが捧げられてきた。

 民たちは、まるで精巧なからくり人形のように口を揃えて言う。

「レグナ様が、我らを救ってくださったのだ」と。


 だが、そのすべてが、一人の幼き神が仕組んだ“茶番劇”だった。

 三百年もの間、誰一人として、この世界の異常さを見破る者はいなかった。

 誰一人として、「このサイクルはおかしい」と声を上げる者すらいなかった。

 “信仰”という名の麻薬を打ち込まれ、民は自ら目を閉じ、耳を塞ぎ、心を神への贄として差し出し続けた。


 まるで、それが最高の幸福であるかのように。

 まるで、それこそが約束された“繁栄”であるかのように。


 ――だがついに、レグナはこの完璧な箱庭を手放すことにした。

 遊びに飽きたわけではない。ただ、執念深く追ってきた“怒れる竜”に居場所を嗅ぎつけられ、ひどく鬱陶しくなったのだ。

 邪魔者が入り込む余地のある玩具箱など、彼女には無価値だった。また別の、真っ白な世界で一からやり直せばいいと、この世界をあっさりと捨て去った。


 ……それでも世界は、夜空の星の下で、今日も変わらず静かに息づいていた。

 自らがすでに「見捨てられた箱庭」となっていることにさえ、気づかないまま――。


 ◇◇◇◇◇


 聖レヴェリア王国の片隅、居住棟の最上階――。

 星々がまたたく夜の屋上。風除けの柵に手をかけ、ヴェラはひとり静かに空を見上げていた。


 頭上には、いくつもの星が冷たい光を放って浮かんでいる。だが、それは彼女が故郷で見てきた星座とはまったく異なる配列だった。


(セラが言っていた通りね……)


 この世界の夜空は、ヴェラの知る“世界”のそれとは違う。ここが自分たちの居場所ではないのだと、突きつけられているようだった。


「……ここにいたのか、ヴェラ」


 背後からかけられた声に、ヴェラは振り返らずに小さく返事をした。


「……サイ」


 静かな足音が近づき、隣に立った彼の気配が夜風に溶けていく。


「……レイのことも片付いたし、ようやくエリンを探しに行けるな。制約魔法で勝手に国外に出ることは禁止されてるけど、『魔王の居場所を探しに行く』って言えば、意外と簡単に外に出させてくれるんじゃないか?」


 サイが手すりに寄りかかりながら、今後の現実的な算段を口にする。


「ええ……そうだといいわね」


「……? もしかして、魔導卿に反対されるかもって、心配してる?」


「……そうじゃないわ。わたくし、何が何でも、エリンを探しに行く口実を押し通す気よ」


 ヴェラは力強く言い切った。だが――。


「でも……」


 サイの目に映るヴェラの横顔は、言葉とは裏腹に、明らかに暗く曇っていた。


「……セラに言われたこと、考えてた?」


 図星を突かれ、ヴェラは小さく目を閉じた。金色の前髪を、夜風がさらりと揺らす。


「……ええ……そうよ」


「今、無理に答えを探さなくてもいいと思うよ」


「うん。だけど――」


 ヴェラは異世界の夜空を見上げたまま、ぽつり、ぽつりと口を開いた。


「わたくし、セラに恩返ししないと……と思っていて」


「恩返し?」


「わたくしね……彼女に何度も背中を押してもらったの。『後悔するから素直になれ』って、『人形だなんて思ってない』って……そんな温かい言葉たちをくれたわ。


 それに、彼女とレイの再会は、エリンを探しているわたくしたちの希望になった。そうでしょう?」


「うん……」


 サイは深く頷いた。


「あいつは、一度死んだというのにレイのことを憶えていて、こんなよく分からない世界に来ちまっても、会いたいと想い続けて……。そして、本当に取り戻したんだ、レイを。そう考えると……すげえよな、セラも」


「……だから、彼女の言葉は……ちゃんと受け止めなくちゃって思ったの」

「セラも今、答えを探しているのよ、きっと。これからのこと、どんな将来を思い描けばいいのか……だから、わたくしの見つけた『答え』をセラに教えてあげたいの」


 ヴェラはふっと目を伏せた。


「でも、考えれば考えるほど、怖くなるの……。わたくしなんかが、未来を願ってしまっていいのか。もし、それが叶わなかったら、『やっぱり自分は不幸なんだ』って、思い続けることにならないかって」


 サイは少し黙っていたが、やがてまっすぐに前を向いて口を開いた。


「願っちまっても、いいんじゃないか。何かを望むってことは、そいつの生きる原動力になる……って、なんか偉そうな言い方だけどさ。


 怖くなるのは分からなくもないけど……だからって何も望まないってのは、何か違う気がするんだ」


「でも……わたくしは……」


「……? 何が引っかかってるんだ?」


 ヴェラは自らの両手をきゅっと握りしめ、震える声で本音をこぼした。


「……さっきのは、半分嘘ですわ。本当は……『やっぱり自分は人形なんだ』って、『何もできないただの人形なんだ』って……思い知らされることが、怖いの」


「ヴェラ……」


「それに、わたくしは人間じゃないから、セラの求めているような『答え』なんて見つけられない……そう考えてしまうの。


 人が望むように……わたくしが、将来のことを望んでもいいのだろうか……そんなふうに、思ってしまうの」


 自分の存在そのものを否定するような悲痛な響きに、サイは息を呑んだ。


「……ねぇ、ヴェラ」


 サイは言いかけて、一度言葉を詰まらせた。どう言えば彼女の心に届くのか、必死に言葉を探しているようだった。

 やがて、絞り出すように続ける。


「その……人間じゃない“ひと”がいたとしてさ。そいつは――」


 サイは身を乗り出し、目を伏せたままのヴェラに強く問いかけた。


「そいつは……人間のように、未来を望んじゃいけないって……ヴェラは、そう思うの?」


「……」


 沈黙するヴェラを、サイは逃げ場のないほど真っ直ぐに見つめた。


「ヴェラには、“エリンに会いたい”って望みがあるだろ? その望みがあったから、ここまで来られたんじゃないか」


 ヴェラの瞳が、わずかに揺れる。


「……そうね。“今の望み”は、確かにありますわ」


「だったら――」


「ごめんなさい」


 サイの言葉を遮るように、ヴェラが弱々しく笑った。


「そんな顔をさせるつもりじゃなかったの。たぶん、わたくし、自分が“作られた存在”だってこと……気にしすぎてるのね」


 彼女は自嘲するように肩を落とし、ぽつりと呟いた。そのひどく寂しそうな姿に、サイは自分の強い口調を後悔した。


「……俺も。言い過ぎた……ごめん」


 気まずい沈黙が流れる。けれど、サイは諦めなかった。先ほどよりもずっと優しく、穏やかな声音で切り出した。


「……本当はさ、こんなこと思ってても言うつもりなかったんだけど」


「ううん。何でも言って」


「それで、ヴェラの気持ちが軽くなると思うから言うよ。だけど、先に断っておく。ヴェラが何者であっても、俺には関係ない」


 そのまっすぐな宣言に、ヴェラは少しだけ目を見開いた。


「うん……ありがとう、サイ」


「……ヴェラ、小さい頃の記憶って、ある?」



 唐突な質問に、ヴェラはドキッとしたが、取り繕うように首を振って否定した。


「いいえ。気がついたら、培養液の中だったの。その中で育ったから……わたくしに“小さい頃の記憶”なんて、ひとつもないわ」


「……あの塔でさ。『小さい頃、神様って死んじゃったのかなって思ってた』――ヴェラはそう言ったんだ。俺は、あの言葉をちゃんと憶えてる」


「……それ……憶えてたの?」


「うん。それで思ったんだ。その……培養液の中で生まれたのかもしれないけど、ヴェラの中には“作り物じゃない部分”が、ちゃんとあるんじゃないかって」


 ヴェラは、戸惑うように眉をひそめた。


「……だけど、どうしてそんな言葉が口から出たのか、わたくしには理由が分からないの……」


「それでいいんじゃないか。理由は分からなくても。あの錬金術師も知らない、小さい頃の記憶。作り物じゃない部分が、確かに自分の中にあるって……そう思えればいいんじゃないか」


 ヴェラは言葉を失ったまま、真剣なサイの横顔を見つめていた。


「ヴェラ、考えてみて。作り物じゃない部分が、自分の中にあるって」


「……不思議ね」


 ヴェラは、ふっと憑き物が落ちたように息をつき、再び星を見上げた。


「どうだった?」


「少し……気持ちが軽くなった気がするわ」


「そう? なら良かった。……実は、もう一つ思っていたことがあるんだけど、聞く?」


「うん。聞かせて」


 ヴェラがふわっと微笑むと、サイは少し改まったように咳払いをした。


「そうだな……ヴェラ、変なこと聞くけど、親子って見たことある?」


「本当に変な質問ですわね。そうね……河口の町で会ったわ。町で出会った男の人。その母親が、食堂の主人だったの。エリンが働いていた食堂ね」


「その親子、どう思った? ふたりは似てた?」


「ええ、似てたわ。異性同士なのに、すぐに親子だって分かるくらい似ていましたわ」


「そうだな、親子ってのは基本的に似ている。まぁ、似てない場合もあるけど……。似てるっていうのは、その男の人が、母親のお腹から生まれた証。血を受け継いだ証拠なんだ」


「ええ。それがどうしたの?」


 サイは、一つ呼吸を置いてから、はっきりと告げた。


「ヴェラとエリンは、似てる」


 ヴェラは、再び困惑して首を傾げた。


「何が言いたいか、よく分からないですわ」


「エリンを産んだのがヴェラだって聞いたとき、初めは驚いた。でも、納得したんだ。だから二人はそっくりなんだって。このふたりは、血の繋がった親子なんだって」


「でも、わたくしの姿は錬金術師が作ったものよ? 似てるからって……」


「じゃあ、ヴェラとエリンの容姿は、あの錬金術師のセンスだっていうの? あのイカれた男の趣味だって」


「えっ……?」


「たぶん、そうじゃないよ。だって、あいつの手記に書いてあっただろう? 『霊力を宿すには、人間であろうが、人形であろうが構わない』、『重要なのは、その力を宿した存在を私が所有することだ』って。


 あいつ、姿かたちなんて、どうだっていいって思ってる感じがする」


 ヴェラはしばらく固まっていたが――あの狂った錬金術師が、わざわざ自分とエリンの顔を似せてデザインしている姿を想像すると、なんだかおぞましくも滑稽で、思わず吹き出してしまった。


「……ふふっ。言われてみれば、そうかもしれないわね。それに、あの男の趣味だなんて……考えただけでも寒気がしますわ」


「だろ? だから、ヴェラの容姿は、あいつが作ったものじゃないって思う方が自然だ」


「そうだとして、じゃあ、わたくしの姿は、誰が作ったって言うの?」


 すると、サイはひどく真顔になって答えた。


「それは、分からない」


「えっ……分からないの?」


 ヴェラが拍子抜けしたように目を丸くする。


「ああ。でも、エリンの姿は、ヴェラからもらったものなのは明らかだろ? だって、親子なんだから」


「……そういうことになるのかしら」


「ねぇ、こう考えられないかな? そういうことなら、ヴェラの今の姿は……誰か親みたいな人からさ、もらったものかもしれないって」


 その大胆すぎる飛躍に、ヴェラはたまらず声を立てて笑った。


「……ふふっ、あははっ。サイったら。とんでもない理論展開ね」


「俺は真面目だぞ。こう思うんだ。昔、ヴェラとそっくりの人が生きていてさ、何の因果か君はそれを受け継いだ。そして、エリンは、君の姿を受け継いだ」


 サイの不器用で、けれど限りなく優しい眼差しが、ヴェラを真っ直ぐに射抜く。


「わたくしの姿は……作り物じゃない。そう言いたいのね」


「そう。これが、ヴェラの全部が全部、作り物ってわけじゃないっていう証拠。な? ヴェラばりの名推理だろ?」


 サイが片目を閉じて、満足気に言い切る。ヴェラは、夜風の中で静かに目を閉じて、そして、これ以上ないほど美しい微笑みを浮かべた。


「……ばか」


 静かに、ヴェラの目が潤む。けれど、その震える瞳にあるのは悲しみではなく――春の陽だまりのような、確かなあたたかさだった。


「少しは、効果、あった?」


「……サイ、ありがとう。本当ね。サイの話を聞いたら、本当に心が、軽くなったわ」


「そう? だったら良かった」


 サイが照れくさそうに鼻の頭を掻く。


「心配させてごめんなさい……サイ。将来の“望み”のこと、わたくしの“願い”。焦らずに、少しずつ考えることにするわ」


「うん。たぶんだけどさ、“いつの間にか持ってた”って、なる気がするんだよね」


「……ふふっ。そうかもしれないわね」


 ふたりは、見知らぬ夜空の下で顔を見合わせ、声を上げて笑い合った。穏やかな風が、ふたりの髪を撫でるように通り抜けていく。サイの不器用な推理が、冷たい呪縛を解き、彼女をただの「ヴェラ」という一人の人間へと還してくれた夜だった。


 やがて、静かに夜が明ける。

 薄い朝霧が草木を濡らし、世界がゆっくりと目を覚ますその裏で、彼らの足元に広がる聖レヴェリア王国には、すでに静かなる“異変”が侵食を始めていた。

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