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(30)レグナ

「お姉さま。ごきげんよう」


 あらゆる神の領域とも、世界の構造とも隔絶された『白の虚空』。

 上下も左右もない無機質な白の世界の中心に、不釣り合いな黒檀の玉座がぽつねんと佇んでいる。


 そこに腰掛けているのは、幼く愛らしい少女の姿をした神――レグナ。

 彼女はゆるやかに足を組み、退屈そうに瞳だけを鋭く持ち上げた。


 視線の先にあるのは、天を突くほどに巨大な十字架。

 その頂に磔となっているのは、かつて数多の信仰を集め、世界を慈しんだ美しき姉神、エルフェリアだった。

 彼女の両手首は、まるで大罪人の戒めのように、あの『天より降る剣』によって無残に串刺しにされている。傷口からは血の代わりに、淡く澄んだ光の雫がとめどなく零れ落ちていた。


「ふふっ。みすぼらしい姿ね、お姉さま。……とってもお似合いよ」


 鈴を転がすような笑い声が虚空に響く。

 だが、エルフェリアは何も答えない。苦痛に顔を歪めることもなく、ただその澄んだ双眸だけで、狂気に沈んだ妹をじっと見つめ返していた。


「ねぇ、お姉さま。もう一つ、“世界”をわたくしにくださらない?」


 レグナの声には、無邪気な愛らしさと、底知れぬ嘲笑がない交ぜになっていた。


「五百年前に、お姉さまからいただいたあの世界――『レグナリア』。せっかくわたくしの名を冠していただいた世界だというのに……」


「あの世界の人間は、あまりにもお姉さまへの信仰が厚すぎたわ。“女神の代替わり”と神託を下しても、誰一人としてわたくしに跪こうとしなかったの」


「……百年よ? 百年もの間、虫けらどもはわたくしを無視し続けたの」


 玉座の背後、何もない虚空に、かつてのレヴェリア王国の幻影が浮かび上がる。

 突き抜けるような青い空、肥沃な大地、祈りを捧げる人々の温かな声。そのすべてが、姉神エルフェリアへと向けられたものだった。


「だから、百年かけて、王国の人間を“書き換えて”あげたわ。言葉を、価値観を、夢さえも。わたくしを崇めることだけが“正義”なのだと、脳の髄まで教えてあげたのよ」


 空の景色がノイズのように崩れ、虚像の王国に、奇妙な意匠の“教典”と“教会”が次々と出現していく。人々の顔から人間らしい笑顔が消え落ち、敬虔で空虚な瞳だけが整然と並ぶ。

 それはまるで、“信仰という名の仮面”を顔面に縫い付けられたかのような、異様な光景だった。


「なのに、ほら。お姉さまを未だに信仰している別の国が、異端だのなんだのと騒ぎ立てて、攻め込んでくるのよ?」


「馬鹿みたい。わたくしの素晴らしい“信仰改革”が、滅亡の引き金になるなんて」


 レグナは、呆れたように小さく肩をすくめた。


「仕方がないから、お姉さまが祝福した“あの王”の末裔に、わたくしからも特別な祝福をしてあげたの」


 玉座の脇に、黄金の王冠を戴いた一人の男の幻影が浮かび上がる。彼の背後には、地面に額を擦り付ける大臣や神官たちの列。


「“永遠の繁栄”を与えるって、耳元で囁いてあげたの。そう――他国からの脅威すらも退ける力をね。その代わり、わたくしを永遠に信仰しなさいって。……それだけで、彼らは泣いて喜んだわ」


「現金なものね。人間って、本当に単純で愚か」


 そこで、レグナはふっと表情を消した。


「でもね、それだけじゃ足りなかったのよ。どうすれば、こいつらは永遠に祈り続けるのか。……その答えを、わたくし、偶然見つけたの」


 レグナの背後に、淡く光るひとつの「魂」が浮かび上がる。その魂は苦しげに明滅しながら、この世界の理とは全く異なる「記憶の断片」を宙に映し出していった。


「次元の狭間を行き場もなく漂っていた、下等な人間の魂。その記憶を読んでみたら、とても面白い概念があったの」


「絶対的な悪である“魔王”という敵を作り、選ばれし“勇者”や“聖女”がそれを倒す――」


「ああ、これだわって思ったの。これなら、人間は恐怖に怯え、救済にすがり、いつまでもわたくしに“祈り”を捧げ続けるでしょう?」


 レグナは恍惚とした表情で両手を広げた。


「まず、“魔王”を用意する必要があったの。だから、あいつの世界――そう、お姉さまが寵愛していた“精霊王”の世界で、作ることにしたわ」


 玉座の足元に、赤黒く染まった絶望の世界地図が広がる。

 それは、ヴェラたちがかつて暮らし、そして理不尽に奪われた故郷の姿だった。


「それから、“魔王”を討つための舞台装置――“勇者”と“聖女”も必要よね」


「ちょうど、“チキュウ”という名のもろい世界に、それを望んでいる魂たちがたくさんあったから。あそこから呼び寄せることにしたの」


「運が良かったわ。“チキュウ”の(管理者)は深い眠りについていたみたいだし、少しばかり魂を摘み取っても、何の干渉もなかったもの」


 虚空に、“チキュウ”の都市が浮かぶ。天を突くガラスのビル街、眩いネオン、ひしめき合う雑踏。しかし、その空を見下ろす神の姿は、そこには存在しない。


「“魔王”のほうも、あっけないくらい簡単だったわ。お姉さまが精霊王を神に引き上げ、世界を授けてから二百年。祝福と繁栄の証として、彼らは馬鹿みたいに大きな宴を開いたでしょう?」


「だから、浮かれたその“領域”に、わたくしは難なく潜り込めたの。……ふふっ、まさか自分の祝宴で殺されるなんて、夢にも思っていなかったでしょうね?」


 宙に、その日の情景が映し出される。

 祝宴の眩い光、宙を舞う酒杯、無邪気に笑う精霊たち。そして――背後から音もなく突き立てられた“見えざる刃”が、神たる精霊王の胸を無残に貫く瞬間が。


「お姉さまが悪いのよ」


 レグナの声が、急激に低く、ひんやりとしたものに変わる。しとやかだった口元に、嫉妬という名の狂気のひび割れが浮かんでいた。


「わたくしより先に、あの小生意気な弟子を神にした。世界を授けた。……可愛がっていた。まるで、実の子みたいに」


「そう、全部お姉さまのせいなの」


 ギリッと、玉座の肘掛けを握りしめる音が響く。

 しかしエルフェリアは、何も言わなかった。磔にされたまま、哀れむような静けさでレグナを見つめるだけだった。


「あはは。そうそう、あの宴のときね――精霊王の世界は、偶然にも“竜界”と繋がっていたのよ。


 強大な霊力の流れが、わたくしにもはっきりと見えたわ。これはまたとないチャンスだって思ったの」


 虚空に、巨大な竜の影が飛翔する。静かに、しかし誇り高く天を駆けるその神々しい姿を、レグナは虫でも見るような冷ややかな目で見下ろした。


「あの莫大な霊力……神の領域から人間界へ、ほんの少しシステムとして干渉するくらいなら、十分すぎるほどの動力源になる」


「都合よく人間に角を宿らせたり、光の剣を生み出したり……あとは、わたくしの望みどおりに書き換えるだけ」


「だからよ。竜どもの霊力を抽出して使えば、簡単に“魔王”や“勇者”、“聖女”をレグナリアに引き寄せられる。……だから、あの竜を攫って、システムに組み込んだの」


 レグナは自らの完璧な采配を思い出し、再びご機嫌な声色に戻った。


「それからは、もう完璧だったわ。レグナリアに定期的に“魔王”を出現させて、周辺国へ侵攻させる。“勇者”と“聖女”にそれを討たせる。そして、召喚の特権はあの王国にだけ与えたの」


「……だって、わたくしを一番崇めてくれる、可愛い国だもの」


 映像が変わる。黒い霧の中に現れる恐ろしい“魔王”、その前に立ちはだかる“勇者”と“聖女”。

 そして、それを見て涙を流し、救済の祈りを捧げる無数の群衆の姿。


「周囲の国々も、勇者の力に怯えて文句を言わなくなったわ。最初はお姉さまを信仰していた愚かな民さえ、今はみんな、這いつくばってわたくしの名を呼ぶ。……とっても、いい気分だったわ」


 だが、レグナはそこでふうっと、わざとらしくため息をついた。


「……でも、この間。あの攫った竜の“つがい”に、レグナリアの場所を見つけられちゃったのよ」


 空間そのものがビリッと震え、玉座の影から、世界を滅ぼすような“怒りの咆哮”が響いた錯覚が走る。


「三百年よ? 三百年も経っているのに、まだ“つがい”のことを忘れられないなんて。本当にしつこくて、鬱陶しいわねぇ」


「ねぇ、お姉さま。だから、もう一つ、新しい世界をちょうだい」


 レグナは、壊れたおもちゃを捨てる子どもように、無邪気に小さく笑った。


「……あの怒り狂った竜に見つかった世界なんて、もう必要ないもの」


「今度はもっと上手くやるわ。誰にも邪魔されないように、完璧な箱庭を作るの」


「だって、お姉さまは、何でも持っているんでしょう? 美貌も、力も、可愛い弟子も、信仰も、世界も。一つくらい、譲ってくれたっていいじゃない」


 玉座からゆっくりと立ち上がり、レグナは姉神へと白く細い手を伸ばす。


「全部、お姉さまがいけないのよ。だから――わたくしに、もう一つ。真っ白な世界を、くださらない?」


 レグナの狂気を孕んだ問いに、答えは返らない。

 エルフェリアの沈黙と、流れ落ちる光の雫の音だけが、玉座の間を越えて、歪んだ神の領域全体へと静かに広がっていった。


 * * *


 光の届かない、深い闇に沈んだ空間の奥底。

 そこには、磔にされた姉神とは別の、もう一人の『囚われ人』がいた。


 冷たい(くびき)に繋がれ、無限とも思える微睡みの中で、彼女は静かに夢を見ていた。


 一面に咲き誇る、名もなき白い花々。静かな風が吹き抜ける、穏やかな草原。

 見上げれば、空には三つの月が浮かんでいた。淡く光る青、薄紅、そして冷たい白銀の光。


 その神秘的な光に照らされながら、遠くそびえる山脈の上空を、大空を舞うふたつの巨大な影があった。

 ひとつは、夜闇を切り取ったかのように黒く、逞しい翼を持つ竜。

 もうひとつは、月光を反射して気高く輝く、純白の竜。


 ふたりは風に乗り、ゆるやかに空を旋回しながら、愛おしげに角をすり寄せ、低い喉鳴りで声を交わしていた。


 ――それは、あまりにも美しく、懐かしい記憶。

 三百年前、不条理に奪われ、永遠に失われたはずの、かけがえのない日々。


 だが、その平穏は、突如として空を裂き現れた『黒き渦』によって無惨に引き裂かれる。


 神の悪意と呪詛に満ちたその渦は、純白の竜を瞬く間に捉え、抗う隙も与えずにその身体を絡め取っていった。

 必死に羽ばたき、空へ逃れようともがくが、理不尽な引力から逃れる術などない。


 つがいを奪われまいと、黒き竜が天地を揺るがす咆哮をあげ、渦へと突進する。

 けれど、何度も、何度も、見えない壁に弾き飛ばされる。まるでこの世の理そのものを逸脱した、絶対的な神の結界が、渦の周囲を囲んでいるかのようだった。


 傷つき、血を流しながらも、なおも黒き竜は抗い、悲痛な声で吠え、虚空の渦へと喰らいつこうとする。

 だがその願いも虚しく、白き竜の身体は、少しずつ、確実に、渦の中心たる次元の彼方へと引き込まれていく。


 ――それが、最後だった。


 白き竜が、愛する者へ向けて最後に放った、ひときわ強い哀哀たる鳴き声。

 その刹那、彼女の喉元から、一片の鱗がひらりと舞い、風に乗って宙を漂った。

 鱗は、すべてを呑み込む闇の次元へと吸い込まれ、二度と戻らぬ場所へと姿を消した。


 ……あれは、わたしの、一番美しい鱗だった


 深い眠りの中で、白き竜の意識が、水底から泡が浮かぶようにぼんやりと呟く。

 黒き竜が誰よりも気に入ってくれていた、小さく、そして何よりも眩い輝きに満ちた、私の――

 わたしの、大切な鱗。


 あれは、どこへ落ちていったのだろう。

 あの身勝手な女神に、誇りも、力も、すべてを奪われたこの身体で、唯一奪われずにすんだ、あの鱗。

 せめて最後に、一度だけでいい。

 この命が枯れ果て、散る前に。あの鱗を、この目で――もう一度だけ見たかった。


 私の、大事な……逆鱗(エリン)


 叶わぬ願いを抱いたまま、白き竜の夢は、再び深い、深い、闇の底へと沈んでいくのだった。

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