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(29)偽りの信仰

 少し前。辺境伯領、国境の防御壁周辺。


 ヴェラは、数日がかりで進めていた堅牢な防御壁の、最後の補強術式を組み終えたところだった。


「ふぅ……。これでひとまずは……」


 小さく息をつき、額の汗を拭ったその瞬間だった。


 突如として、視界のすべてが暴力的なまでに眩い白銀に染め上げられた。


「……っ!? なに、この空……」


 ヴェラは目を細め、咄嗟に中天を仰いだ。昼夜の理を無視し、太陽の輝きさえも白く塗り潰していく異常な閃光。それはかつて、あの凄惨な『天より降る剣』が顕現した時と同じ、温もりの欠片もない光だった。


「……ヴェラ!」


 少し離れた場所で作業に当たっていたハルトとミナが、慌てた様子で駆け寄ってくる。


「ハルト! これって……!」


「うん……」


 ハルトは眩い白銀を仰ぎ、どこか悟ったような、複雑な表情を浮かべていた。


「これは、魔王が倒されたって証だと思うよ。……エイデンたちが、やったんだ!」


 ヴェラは胸に手を当て、深く、震えるような息を吐き出した。


「魔王に……勝ったのね」


 信じていた。けれど、その勝利が「神の予定調和」として空に映し出される光景に、得も言われぬ寒気を覚えていた。


(セラ……あなたは、レイを取り戻せたの……?)


「こうしちゃいられないよ! みんなを迎えに行かなくちゃ!」


 ミナが弾んだ声で叫ぶ。


「そうね。……急いで王都に戻りましょう」


 * * *


 少しして、辺境伯の屋敷。

 重厚な執務室のドアが、ノックもなしに乱暴に開け放たれた。


「勇者様……? 藪から棒に、一体どうなさったのです」


 書類仕事の手を止め、辺境伯が不機嫌そうに眉をひそめる。だが、踏み込んできたハルトは、その不興を買うことなど意に介さない様子で短く告げた。


「魔王が倒れた。……僕らは今すぐ、王都に帰るから!」


「なっ――」


 バダンッ!


 辺境伯が言葉を返すより早く、鼓膜を震わせるほどの音を立てて扉が乱暴に閉じられる。嵐のように現れ、嵐のように去っていった勇者の背中を、辺境伯は呆然と見送ることしかできなかった。

 しばしの沈黙。


「……行ってしまわれましたな」


 部屋の隅に影のように控えていた執事が、静かに口を開いた。


「ええい……お待ちください、と叫んだところで聞こえはしまいが。魔王は、もう一体残っているというのに!」


 辺境伯は忌々しげに吐き捨て、手にしていた羽ペンを机に叩きつけた。


「勇者などと……。女神様の威光を借りただけの素性の知れぬ余所者が、英雄気取りか。所詮は女神様の至高なる御力を世に知らしめるための、都合のいい消耗品に過ぎぬというのに」


「……」


 執事は何も答えない。それを肯定と受け取ったのか、辺境伯はさらに声を潜め、憎々しげに言葉を紡いだ。


「真に祝福を受け、この世界を統べるべきは我らが王家だ。女神の気まぐれで選ばれた『異邦人』どもではない」


 冷え切った執務室に、辺境伯の歪んだ野心が黒く澱んでいた。


 * * *


 しばらくして王都。広場にそびえ立つ、ひときわ巨大な転移門(ゲート)が青白い光を放って脈動した。


 光の渦の中から、北の隣国での死闘を終えた四人の転移者――いや、サイの背で眠るレイを含めた五人が姿を現す。

 その瞬間、王都中に歓喜の鐘が打ち鳴らされた。


「万歳! 勇者さま!」

「聖女さま!」

「魔王を討った英雄たちに祝福を!!」


 地鳴りのような歓声が広場を揺らす。彼らの帰還を待ちわびていた民衆の熱狂が爆発し、泥まみれの英雄たちは熱を帯びた波に包まれた。

 歓喜の声に応えながら進む四人。だが、サイはその熱狂の中に、明確な「歪み」を感じ取っていた。


「感謝します、女神様!」

「我らを救いし、唯一なる御方に――」

「ああ、女神様! 偉大なる女神様!」


 英雄たちへ向けられていたはずの称賛は、いつしか彼らの頭上を通り越し、見えざる「神」への狂信的な祈りへとすり替わっていく。それはまるで、そうするよう初めから決められていたかのような、薄気味悪いほどの予定調和だった。


(……やれやれ。どいつもこいつも、都合がいいこった)


 サイは、背中のレイを起こさないよう静かに歩を進めながら、その熱狂に冷めた視線を向ける。


 その時、波打つ人垣の最前列に、見覚えのある金色の髪が揺れた。


「ヴェラ」


「サイ……っ!」


 顔をくしゃくしゃにして駆け寄ってくるヴェラと目が合う。サイは歩みを止めると、背負っていたレイを隣のエイデンへ滑らせるように託した。


「……こっち頼む」


「ああ。任せとけ」


 エイデンがレイを抱え直すのと同時だった。ヴェラが勢いよく飛び込み、サイの両腕をがっしりと掴む。


「おかえりなさい、サイ……!」


 震える声と、確かな手の温もり。狂騒に包まれたこの広場で、それだけが唯一、嘘偽りのない本物の熱だった。


「うん。ただいま、ヴェラ」


 サイが短く、けれど柔らかく応えた。


 二人を祝福するかのように、ひときわ大きな歓声が上がった。

 だが――その歓声もまた、いつしか「女神の奇跡」を称える不気味な大合唱の渦へと呑み込まれ、消えていった。


 * * *


 それから転移者たちは、休む間もなく王城へと召し上げられた。

 国王や魔導卿をはじめ、綺羅星のごとく着飾った王侯貴族たちが待ち受ける広大な謁見の間。そこで行われたのは、魔王討伐の仰々しい報告会――という名の、壮大な「茶番」だった。


 彼らは事前に示し合わせた通り、事実を巧妙に切り貼りし、真実を闇へと葬った。

 レイという青年が魔王の核であったこと。そして、女神のシステムを出し抜いて彼を救い出したこと。そのすべてを冷徹なまでに伏せ、ただ「女神の導きのままに、邪悪なる魔王を討ち果たした」という結果だけを恭しく奏上する。


 まるで、女神の描いた完璧なシナリオをなぞる、忠実で優秀な舞台役者のように。


「……素晴らしい戦果だ。女神様の御導きに従い、見事なる忠烈を示した勇者たちに、惜しみない賛辞を贈ろう」


 沈黙を守る玉座の傍らで、仰々しく声を張り上げる魔導卿の手放しの称賛。それに追従するように沸き立つ貴族たちの拍手喝采。

 その空虚な熱狂を肌で感じながら、サイたちはただ、見透かされないよう精巧な作り笑いを浮かべてやり過ごした。


 数時間に及ぶ形式的な審問と、辟易するような祝宴への誘い。それらすべての煩わしい義務をのらりくらりと躱し、ようやく彼らが自分たちの居住区へと帰り着いた頃には、すっかり夜も更けきっていた。


 * * *


「はぁぁぁ……っ、疲れたぁ……」


 真っ先にミナが長椅子へと倒れ込み、それに呼応するように、部屋のあちこちから安堵の吐息が漏れる。


 謁見のために急ぎ宛がわれた清潔な衣服とは裏腹に、全員の顔には色濃い疲労が刻まれている。だというのに、不思議と誰の目にも眠気はなかった。

 部屋の中央。ゆったりとしたソファの上で、セラの柔らかい膝を枕にして、レイが穏やかな寝息を立てている。

 その小さな寝顔を見つめる彼らの胸の奥には、魔王を討伐したこと以上の、静かで熱い高揚感が燻っていた。強大な『女神のシステム』を出し抜き、一つの命を救い出したという、確かな反逆の証がそこにあったからだ。


「……レイのやつ、結局子どもの姿のままだったな」


 少し離れた椅子に腰を下ろしたヴェラが、セラとレイの様子を見守る中、サイがぽつりと呟いた。


「まぁ、それは問題ないんじゃない? 見てよ、あの幸せそうな顔」


 リディアがクスリと笑う。その視線の先では、自身の膝で丸くなるレイの寝顔を見下ろすセラの表情が、かつての悲壮感が嘘のように穏やかで、深い慈愛に満ちていた。ヴェラもつられて、ふっと柔らかな微笑みをこぼした。


「ああ、そうだな」


 サイが頷いた、その時だった。


「でも、サイとしてはちょっと残念だったりして? あんなに『大好きぃ!』って泣きつかれてたのにねぇ」


「っ、ちょ、お前、その話は!」


 リディアの意地悪なからかいに、サイが珍しく慌てたように声を上げる。


「あら? 何の話かしら?」


 ヴェラがピクリと反応し、興味津々といった様子で身を乗り出した。


「い、いや! 何でもないんだよ、ヴェラ。こいつが適当なことを……」


「実はね、サイって私たちが思ってる以上にモテるんじゃないかって話よ」


「リディアぁ……」


 頭を抱えるサイの困り顔を見て、ヴェラは思わず吹き出した。


「ふーん……ふふっ。そうかもね」


 サイが、気まずそうにヴェラをちらりと見る。その分かりやすい狼狽えぶりがおかしくて、部屋に小さな笑い声が広がった。


「まあまあ、その話は置いといて」


 ひとしきり空気が和んだところで、ハルトがパンッと手を叩いて場を仕切った。


「今後のことだけど……あの二人(セラとレイ)は、もうそっとしておきたいよね。戦いには巻き込まない方向で」


「戦力から外すってこと? でも……セラは私たちの貴重なバッファーよ。彼女抜きでこれからどうするの?」


 リディアが現実的な懸念を口にする。だが、ハルトは自信ありげに胸を張った。


「その件なら解決済みさ。君たちがいない間に、こっちには超強力な『秘密兵器』が誕生したからね」


「ちょっと、ハルト! 秘密兵器だなんて言いすぎですわ」


 ヴェラが頬を染めて抗議するが、ハルトはニヤリと笑う。


「だって事実だろ? あんな真似、ここにいる誰もできないって。すっごい大活躍だったんだから」


「ねっ、ゴーレム姫?」


 長椅子から身を乗り出したミナが、片目をつむってヴェラにいたずらっぽくウインクしてみせた。


「あんな途方もないことができるんだもの! これからもっとすごいことが起きそうな予感がするでしょ?」


「……ヴェラ。お前、一体向こうで何をやったんだ?」


 サイが、呆れたような、けれどどこか頼もしさを感じるような響きで乾いた笑いを漏らす。


「辺境伯の領地でさ、ヴェラがとんでもない規模の防御壁を一人で建てたんだよ。大量のゴーレムを同時に駆使してね。精霊の力ってやつは、本当に大したもんだった」


 ハルトの解説に、サイとエイデンが目を丸くする。


「その力で、今のわたくしにどのくらいのことができるか、まだ自分でもはっきりとは分からないけれど……」


 当代の魔王が消えた今、新たな魔王がこの国の脅威となる。そしてその正体は、十中八九、サイとヴェラが探し求め続ける、かけがえのない存在――『エリン』だ。

 これから彼らは何と戦うことになるのか。

 誰もはっきりとは口にしなかったが、今や全員の共通認識として、真に打ち倒すべき相手はエリンではない。


 この理不尽な世界を盤上から見下ろす、傲慢な『女神』だ。


「……わたくし、きっとみんなの役に立って見せるわ」


 ヴェラは顔を上げ、サイを、そして仲間たちを真っ直ぐに見据えた。


「自分の、叶えたい願いのためにも……ね」


 力強く言い切ったヴェラの言葉が、夜の静寂が降りた部屋に溶けていく。

 その余韻の中、レイの頭を優しく撫でていたセラが、ふと顔を上げた。


「ねえ、ヴェラ……あなたの叶えたい願いって、どんなもの?」


 それは、踏み込んではならない領域を恐る恐る探るような、ささやかな響きだった。

 だが同時に、ようやく「自分の叶えたい願い」の終着点に辿り着いたものの、不意にその先の道を見失って不安に駆られたセラ自身が、暗闇で道標を探すように問いかけているようにも聞こえた。


「それは、知っていると思うけれど」


 ヴェラは少しだけ目を瞬かせ、傍らに立つサイをちらりと見てから答えた。


「エリンと再会して、三人で『災厄』のない世界に帰ること。……今のわたくしには、それしか考えられませんわ」


 迷いのない、真っ直ぐな言葉。

 だが、セラはレイの柔らかい髪を梳く手を止め、静かに首を振った。


「……『災厄』のない、世界……。そうだよね。でも、私が聞きたいのはそうじゃなくて……」


 セラは、春の日差しのようなどこまでも穏やかな微笑みを浮かべ、言葉を継いだ。


「その先は……考えたこと、ある?」


「その、先?」


「うん。エリンを連れて戻って――それから、どうしたいのか。ヴェラの、将来のことだよ」


 ――わたくしの将来。


 その問いに、ヴェラはふと、言葉を失った。

 心の中の時が止まり、暗く深い海の底へと意識が沈んでいく。


(わたくしは……何を望んでいる?)


 思えば、わたくしの生は常に「他者から与えられた状況」の中で、どうにか息を繋ぐことの連続だった。

 最初の“望み”は、あの忌まわしい錬金術師の望み通り、己の身に霊力を宿すこと。冷たい石の床。鼻をつく薬品の臭い。何度も試され、何度も失敗して、その度に身を灼くような激痛が走った。


『お願いします……っ、もう嫌です。もう、溶かされたくない……!』

『何でも言うことを聞きますから、もう溶かすのはやめてください……っ!』


 逃げることすら許されず、ただすがりついて泣き叫んだ日々。あの頃のわたくしの望みは、ただ一つ。あの地獄のような実験が「終わる」ことだけだった。


 その次の望みは――。


『ヴェラ。私、外の世界を見てみたい』


 暗闇の中で出会った、エリンの望み。わたくしは、ただそれを叶えてあげたかった。あの暗闇の中で、初めて確かな温もりを教えてくれた彼女に、外の世界で、自由に笑って生きていてほしかった。


 でも、エリンを失って……わたくしの中に残ったのは、黒く濁った感情だけだった。


 あいつを、消し去りたい。エリンの仇を討ちたい。自分たちを弄んだあの錬金術師へのドロドロとした怒りと恨みを、呪いのように奴の喉元へ突き立ててやりたい――。

 それも間違いなく、かつてのわたくしの強烈な“望み”だったのだ。


 そして、今は――。


『エリンに会いたい。わたくしとサイと……三人で、もう一度笑いあいたい』


 確かに、それが今の偽りざる“望み”だ。

 復讐という暗い海の底に沈みかけていたわたくしに、サイが“また三人で旅をしよう”と手を差し伸べてくれた。あの言葉が、わたくしを真っ暗な過去から引っ張り上げてくれたのだ。


 けれど、セラに言われた通り「その後」のことは……?

 願いを叶えた後、復讐でもなく、誰かのためでもなく、「自分自身」の未来のために。


(わたくしは……何を、望むのだろう)


「ヴェラ……?」


 セラの気遣うような声で、ヴェラはハッと我に返った。


「……ごめんなさい。少し、考え込んでしまって」


 誤魔化すように微笑んだヴェラの瞳は、まだ見えない真っ白な未来に向けて、静かに揺れていた。

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