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(28)邂逅

 衝撃のあと、世界から音が消えた。

 サイの意識は、底の見えない真っ暗な空間を漂っていた。


(……ここは――)


 肌にまとわりつくような、重く冷たい静寂。かすかな既視感が、胸の奥をチリリと焼く。


(来た覚えがある。あの時……俺が『災厄』になりかけて、エリンに救われる直前の、あの場所だ)


 周囲を見渡しても、上下左右の感覚すら定かではない。どこまでも広がる、光も温度もない虚無。その暗黒の澱みの中から、震えるような微かな声が届いた。


「やめろ……いやだ……」


 消え入りそうな、けれど呪詛のように重い響き。サイは目を閉じ、自身の霊力を研ぎ澄ませて声の主を探る。


「なんで……なんで……」


(……男の声。レイ……か)


「逃げなかった……引き返さなかった……。あんなに、“必ず帰る”って約束したのに……」


(すごく、悲しそうな声だ。……あの時の、エリンを失ったヴェラみたいだ)


「俺のせいで……あいつから、未来を奪ってしまった……」


(ああ。痛いほど、分かるよ。……あんた、自分よりセラのことが大切だったんだな)


 サイは、音のない闇を静かに歩み進める。一歩ごとに、自身の内側にある「正の霊力」が、この場所を侵食する「負」と反発して火花を散らすのが分かった。それでもサイは止まらない。


「俺が悪かった……俺が悪かったんだ……」


(違う。そうじゃない。あんたも、誰も悪くない……)


「俺が……俺が……殺した……殺した……ころシ……コロ……シ……」


(……いや、その人は今、生きてる。あんたの帰りを、ずっと、ずっと待ってるんだ)


 闇の最奥。

 そこには、一人の子どもがうずくまっていた。膝を抱え、顔を伏せ、ただ一人で永遠に続くかのような慟哭に身を任せている。


「ああ、レイ。やっと見つけた。ここにいたんだな」


「……」


 子どもは泣いているだけで、何の反応も示さなかった。その姿は、魔王としての威圧感など微塵もない、ただ傷ついた魂の残骸のようだった。


「迎えに来たぜ、レイ。俺と一緒に、あいつの元に行こう」


「……」


「セラだ。セラが、外でずっと待っている」


 その名が出た瞬間、子どもの肩が小さく跳ねた。


「……セ……セラ……」


「そうだ、覚えてるだろ? あんたの、たった一人の大切な幼馴染だ」


「……セラ……セ……セラ……」


 うわ言のように、その名を繰り返す。


「あんたが毎日毎日、懲りずにプロポーズしてた、大好きな人だ」


「……セラ……セラ……セラ……」


 凝り固まっていた闇が、その思い出の温もりに触れて、わずかに綻んだように見えた。

 サイは膝をつき、子どもと同じ目線で、優しく、けれど力強くその手を伸ばした。


「さあ、立ってくれ。この手を取れ。あんたを……必ず、セラの元へ連れて行ってやる。俺が約束する」


 子どもは、縋るように、震える指先をサイの伸ばした手にそっと重ねようとした。

 救いまで、あと数センチ。


 しかし――。


 刹那、温かかったはずの空気が凍りついた。

 子どもの瞳から一切の光が消え、奈落の底から響くような異質な声が、サイの脳内を直接叩き割った。


『――虫けらが、こんなところに入り込むなんて……』


 凍りつくような拒絶の言葉。だが、それはレイの声ではなかった。頭蓋に直接響くような、尊大で、透き通るほどに冷酷な女の声。


(……女? まさか、この声……!)


『あははっ、まさかこいつを救うつもりなの? ……これは、勇者に滅ぼされるためだけに、ここにいるのよ』


 闇の奥から、形なき意志がサイを凝視する。抗いようのない神の圧。サイの心臓を、見えない巨大な手が直接握りつぶそうとしているかのような、凄まじい衝撃が走った。


「ぐあっ……!? や、やば……女神に、見つかっ……たのか……!?」


『邪魔をするなら……お前はここで消えなさい……!』


 凄まじい圧迫感がサイを襲う。全身の骨が悲鳴を上げ、内臓が押しつぶされていく。立っていることさえままならず、サイは膝を突き、どろりとした吐血を闇にぶちまけた。

 女神の力は、あまりにも理不尽で、あまりにも絶対的だった。


(クソっ……おい、竜神……! お前の『切り札』が、今にも死にそうなんだけど……っ! なんとか、しろよ……!)


 視界が真っ赤に染まり、意識が遠のいていく。ギリギリと魂を削られる音の中、サイの脳裏に最愛の人の姿がよぎった。


「くはっ……もう……ごめん……ヴェラ……」


 その時だった。


 《――ようやく見つけたぞ、レグナ》


 闇の宇宙を震わせるような、低く、重厚な地鳴りのような声が、死の静寂を切り裂いた。


『ッ――お前は!!』


 女の声が、初めて動揺に震えた。

 サイを縛り付けていた絶望的な圧迫感が、ガラスが砕けるような音と共に霧散する。女の不気味な気配は、怯えるように闇の彼方へと引き去っていった。


「はぁ……はぁ、はぁっ……! ……ったく、遅ぇんだよ、竜神……。死ぬかと思ったじゃねえか……」


 サイはその場に倒れ込みそうになりながらも、荒い息を吐き、必死に自分を支える。

 逃げ去る女神の残響を睨みつけ、サイは口角を吊り上げた。


「……けど、今、ビビってたな。あの女神……竜神の声に、縮み上がってやがった。……ざまあみろ」


 サイは震える足で立ち上がり、再び目の前の子ども――レイへと向き直る。

 竜神の気配になど意識を向ける間もなく、ただひたすらにレイを救出することだけを考えて駆け出した。


 あれほどの神の威圧が飛び交ったというのに、レイは変わらず、膝を抱えて座り込んでいた。


「レイ。まだ、そこにいてくれたんだな」


「……セ……セラ……」


 小さな、けれど確かな温もりを宿した声。サイは、汚れ一つないその瞳を見つめ、静かに、そして誰よりも温かく微笑んだ。


「ああ。セラに会いに行こう。今の彼女は、ちょっと……いや、かなり見た目が変わっちゃってるけど。……きっと、あんたなら一目で分かるはずだ」


 子どもが、迷いながらも、そっと小さな手を伸ばす。サイはその手を、壊れ物を扱うように、けれど二度と離さないという意志を込めて、強く握りしめた。


「帰ろうぜ。……俺の、憧れの『英雄様』」


 サイがその手を取った瞬間、暗黒に閉ざされていた空間に、天から柔らかな光が差し込んだ。

 だが、深淵の闇は、獲物を逃すまいと黒い泥のような触手となってレイの足を掴み、離そうとしない。


「……この、『災厄』め! 最後まで悪あがきしやがって!」


 サイは小さなレイをひょいと抱き上げると、背中から『天より降る剣』を、今度は迷いなく引き抜いた。

 その剣身は、サイの怒りと決意に呼応し、かつてないほどに白く、激しく輝きを増していく。


「レイを、返してもらうぞ……ッ!!」


 サイは迫りくる闇の深淵へ向かって、その輝ける刃を真っ直ぐに突き刺した。

 断末魔のような叫びと共に、闇が霧散する。のたうつ大蛇のようにサイの周囲を暴れ回る瘴気を、サイは一歩も引かずに切り裂いていった。


 サイの額にある“角”と、その手に握られた『天より降る剣』。二つの「正の霊力」が、まるで互いの存在を確かめ合い、共鳴を奏でるように、清冽で柔らかな白銀の光を帯び始めた。


「……“あの時”のようだな」


 サイは、遠い記憶を呼び起こしていた。初めてこの剣を握り、戦う勇気をもらったあの瞬間。


「やっぱり、お前の霊力は……エリンに似ている」


 剣に語りかけるように力を込めると、次の瞬間、周囲にのたうっていた闇の残滓が、巨大な渦となって剣身へと吸い込まれていく。

 濁った澱みが浄化され、世界が白く塗り替えられていった。


 * * *


「サイ! どこにいるの!? 返事をして、サイ!」


 真っ暗な虚無の中、セラの叫びが虚しく響いていた。

 彼女もまた、角同士がぶつかり合った衝撃に呑み込まれ、方向感覚すら失った暗黒の空間を彷徨っていたのだ。その声には、隠しようのない戸惑いと、底知れぬ不安が混じっている。


「どこなの……。レイの、レイの泣き声が、あんなに近くで聞こえるのに……っ」


 一歩先も見えない。足元があるのかさえ分からない。ただ、自身の半身とも言えるほど大切な、最愛の人の悲痛な慟哭だけが、耳の奥にこびりついて離れない。


「でも、ここは真っ暗で……何も見えなくて……。サイ、レイが見つからないよぉ……っ!」


 張り詰めていた糸が切れ、セラの声は震える泣き声へと変わっていった。かつての狼狽を振り払い、決死の覚悟でこの最深部へ踏み込んだはずの彼女が、今はただの迷子の子どものように、膝を折って震えている。


「ぐすっ……サイ、お願い、どこにいるの……。レイの声が……聞こえるのに……っ!」


 その時だった。

 音も光も死に絶えていた暗黒のセカイに、一点の針で突いたような光が差し込んだ。それは瞬く間に広がり、重苦しい闇を内側から焼き裂いていく。


「……っ!?」


 セラの胸に、消えかかっていた希望の火が灯る。その光はあまりに温かく、懐かしい匂いがした。


「……これ、君がやったの? サイ! 私はここだよ! ここにいるよ!!」


 セラは顔を上げ、涙を拭うことも忘れて、光の源へと向かって駆け出した。


「レイ、聞こえる!? 返事をしてよ、レイ!!」


「セラ! こっちだ!!」


 不意に、霧を晴らすようなサイの声がはっきりと届いた。


「サイ……! サイぃぃ!!」


 光の向こう側、自分を呼ぶ青年の姿を見つけ、セラは弾かれたように跳躍した。


 その瞬間。

 現実世界、黒い森の奥深く。エイデンたち頭上の空が、突如として不自然なほど眩い白銀に染め上げられた。

 分厚い黒雲も、中天に掛かる太陽の輝きさえもすべて暴力的に塗り潰していく、昼夜の理を無視した閃光。それは、世界が『魔王』の消滅を感知し、その事実をただ無機質に告げるシステムのような光だった。

 そこには誰かを称える温もりなどなく、ただ冷徹に「結果」だけが示されていた。


 眩すぎる空を見上げ、エイデンがぽつりと呟く。


「――終わった……のか……?」


 その呟きをかき消すように、頭上の白銀がパリンと音を立ててひび割れた。眩い光の亀裂をこじ開け、漆黒の虚無の中から勢いよく飛び出してきたのは――サイとセラだった。


 冷たい風が頬を打ち、眼下にはどこまでも続く黒い森が広がっている。空中に放り出された二人の視界には、地上で豆粒のように小さくなったエイデンとリディアが、驚愕の表情でこちらを見上げている姿があった。


「――やったぞ! セラ!!」


 上空へと放り出された不安定な浮遊感の中、サイが晴れやかな声で叫んだ。


「サイ……っ!」


 セラの視界に、サイの逞しい腕の中で安らかな寝息を立てている、小さな、けれど確かな温もりを持ったレイの姿が映り込む。


「……っ、レ、レイ!! レイぃぃ!!」


 セラは風のように空を駆け、サイとレイの元へ、二人をまとめて押し潰さんばかりの勢いで飛びついた。


「うわあああああん!! ありがとう……ありがとう、サイぃぃぃぃ!!」


「わっ、ちょっ……! セラ、よかったな、本当によかった……!」


「うえぇぇぇん! サイ、格好良すぎるよぉ! 大好きぃぃぃ!!」


「なっ……!? お、おい! レイが起きて聞いてたらどうすんだよ!!」


 顔を真っ赤にするサイを余所に、セラは声を上げて泣きじゃくりながら、二人の身体を強く、強く抱きしめ続けた。


(セラ、レイ……本当によかった)


 込み上げる安堵を深く噛みしめたサイだったが、ふと空を仰いだ。

 そこには、不自然なほど眩い白銀が広がっていた。それは、あの世界で目にした――『天より降る剣』が顕現する時の、あの冷徹な合図と寸分違わぬものだった。


(この白々しい空……向こうにいた頃から変わらねえな。向こうの世界じゃ、これが『救い』の合図だったなんて、笑えない冗談だ)


 ふん、と鼻を鳴らす。


(温かみも何もない、ただ結果だけを押し付けるような光……。勝手に終わったことにするなよ女神。俺たちが勝ったんだ。お前の描いた筋書き通りじゃなく、俺たちが選んだ“結末”で)


 誰にともなく向けた、ささやかな反逆の意思。

 それに呼応したわけではないだろうが、世界を強制的に白く染め上げていた閃光は、数瞬の後、事務的な処理を終えたかのようにふっと引いていく。


 その光景を地上から見上げていたエイデンは、いつもの不敵な笑みを消し、まるで物語から抜け出した“勇者”のような、誇らしくも静かな表情を浮かべていた。


「……よかったな、セラ」


 その隣で、リディアもまた、杖を握りしめたまま静かに涙をこぼしていた。皮肉屋で苛烈な魔術師の面影はない。それは、迷える魂を救い上げた奇跡を祝福する、“聖女”のような――慈しみに満ちた涙だった。


「おめでとう、セラ。……本当によかったね」


 あとに残されたのは、無慈悲な白ではなく、世界そのものが生み出した温かな色彩。本物の陽の光が、地上へと舞い降りる彼らの姿を優しく照らしていた。


 * * *


 瘴気が嘘のように晴れ渡り、木漏れ日が差し込み始めた森を、四人は自分たちの足で歩き抜けた。

 全員の服は焼け焦げ、酸で穴が開き、泥と魔物の返り血でどす黒く汚れきっている。サイに至ってはレイを背負い続けていたが、その顔に疲労の色はあっても、その瞳には確かな充足感が宿っていた。


 数時間後。

 夕闇の迫る先に、交易都市を囲む巨大な石造りの外壁と、堅牢な正門が見えてきた。


「……なんだよ、あれ」


 ふと顔を上げたサイが、思わず足を止めて眉をひそめた。


 都市の正門前には、既に陽が落ちたというのに、住民たちが幾重にも人垣を作って道を開けていたのだ。

 だが、そこを包んでいたのは、凱旋にふさわしい歓喜の声ではなかった。

 奇妙なほどの「静寂」だった。

 誰一人として言葉を発さず、ただ遠巻きに、押し黙ったまま四人の姿を見つめている。その視線に宿っているのは、歓迎というよりも、明確な「警戒」と「不信」だった。


「気にするな、サイ。辺境の人間にとって、我々『勇者』は女神教会の――王国の犬にすぎない。無理もないさ」


 エイデンが自嘲気味に呟く。

 王国はこれまで、この交易都市を魔王の防波堤として扱いながら、ろくな支援を行ってこなかった。そんな王国から突如派遣されてきた勇者一行が、いくら「討伐」を掲げようと、彼らにとっては素直に信じるに足る存在ではなかったのだ。


「行こう。宿に戻って、まずはこいつをベッドに寝かせてやらないと」


 サイが背中のレイを抱え直し、重い足取りで群衆の中へ歩み入ろうとした、その時だった。


「――お待ちくだされ、勇者殿」


 人垣が割れ、豪奢なローブを羽織った白髭の老人が進み出てきた。この交易都市の長であり、魔術ギルドを束ねる男だ。

 老人は、真っ直ぐにサイの背中――彼らが背負う「小さな少年」と、その背後にある見えない成果を見透かすように目を細めた。


「先ほど……空があの不自然な白銀に染まったのと時を同じくして、我がギルドの観測塔より報告がありました。黒い森を覆っていた瘴気の渦が、完全に霧散したと」


 その言葉に、広場を囲んでいた住民たちが一斉に息を呑む音が響いた。


「半信半疑でした。いくら女神の勇者とはいえ、あの理不尽な災厄を前に、たった数人で生還できるはずがない。……何かの罠か、王国のプロパガンダの類だろうと」


 老人はそこで言葉を区切り、泥と血にまみれた四人の満身創痍の姿を、じっくりと見つめた。

 そして、深く、深く――地面に額がつくほどの土下座に近い一礼をした。


「……疑って、申し訳なかった。あなた方は、本当に……本当に、あの悪夢を終わらせてくださったのですね」


 その老人の震える声が、魔法のように門前の空気を変えた。


「おい……マジかよ。あの森の瘴気が、消えた?」

「じゃあ、もうあの魔物の群れに怯えなくていいのか……?」

「爺ちゃんが言ってた……いつか、本当に英雄が来てくれるって……!」


 ざわめきは瞬く間に熱を帯び、波のように群衆全体へと広がっていく。


「ありがとう……! ありがとう、勇者様!」


 誰かが叫んだその一言が、決壊の合図だった。


「うおおおおおおっ!!」


 地鳴りのような歓声が、交易都市の空を揺らした。冷ややかだった人垣が崩れ、住民たちが次々と四人の元へと殺到してくる。


「聖女様! 怪我はないかい!? うちの特効薬を持っていってくれ!」

「勇者様! あんたらの剣は本物だ! 王国の連中とは違う!」

「兄ちゃんたち、よく生きて帰ってきてくれたな! 今日は俺の酒場で樽ごとタダで飲ませてやるからな!!」


 もみくちゃにされながら、サイは目を丸くした。

 押し寄せてくるのは、干し肉、果物、花束、そして数え切れないほどの「ありがとう」という言葉のシャワーだった。

 彼らの顔には、作り物ではない、心の底からの安堵と歓喜の涙が溢れている。


「な、なんだよこれ……っ、おっさん、近ぇよ! 鼻水つけるな!」


 サイが戸惑いながらも、見知らぬ自警団の男から背中をバンバンと叩かれる。


「ふふっ、ちょっと、押さないでってば! 私、今すっごく泥だらけで臭いのに……っ!」


 リディアは文句を言いながらも、差し出された花束を抱えきれないほど受け取り、その目元を赤くして笑っていた。


「……まったく。こんなに歓迎されるとは、私の計算にはなかったな」


 エイデンもまた、住民の子供たちにマントの裾を引っ張られながら、困ったように、けれどどこか誇らしげに目を細めている。


 セラの隣で、サイは背中のレイが起きないように必死に庇いながら、周囲を包む圧倒的な熱狂を眺めていた。


(……すげぇな)


 サイは、老若男女が涙を流して喜ぶ姿を見て、ふと胸の奥が温かくなるのを感じた。


 あの暗闇で対峙した女神レグナは、人間や『魔王』をただの消費される駒としか見ていなかった。

 街の人々は今、俺たちが『女神の勇者として魔王を討伐した』と信じて熱狂している。本当は、女神の理不尽なルールを頭突きでぶっ壊して、一人の迷子を連れ帰ってきただけなのだが。


 だが。


(……勘違いされたまま英雄扱いされるのは、ちょっとむず痒いけどな。でも……)


 サイは、自分に向けて「ありがとう」と泣き笑う見知らぬ人々の顔を見た。

 現金だなと思いつつも、この涙と笑顔は紛れもない本物だった。誰かに仕組まれたものではない。自分たちが命を懸けて泥にまみれ、神に抗い、一つの運命を変えたからこそ守れた「明日」が、ここにある。


(……ああ。こういうのも、悪くないな)


 サイは、照れ隠しのように小さく笑い、背中のレイをもう一度しっかりと背負い直した。


「ほら、お前ら! 立ち止まってる場合じゃねえぞ! 宿に着く前に酒と飯に埋もれて死んじまう!」


 サイが軽口を叩くと、エイデンとリディア、そしてセラが、弾けるような笑顔で頷いた。


「ええ、そうね! 今日は朝まで付き合ってもらうわよ、サイ!」


「ああ。我々の“本物の勝利”に、乾杯と行こうじゃないか」


 熱狂と歓声の渦の中、泥だらけの英雄たちは、かつてないほど晴れやかな足取りで、光の差し込む交易都市の街並みへと歩き出していった。

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