(2)三人の旅
乾いた風が吹き抜ける街道跡を、彼女たちは歩いていた。ヴェラの背中には、『災厄の子』である彼がいる。ずっしりとした重み。体温。そして、微かに聞こえる寝息のような呼吸音。本来なら忌むべき存在のはずなのに、不思議と嫌悪感はなかった。
「……よいしょ」
ヴェラは彼を背負い直す。しっかり掴まってくれないせいで、重心がずれて余計に重く感じる。とはいえ、彼女の身体は普通の人間のそれとは造りが違う。義肢に組み込まれた強化骨格と人工筋肉のおかげで、あと一人くらい背負えそうな余裕があった。それでも、歩を進めるごとに、背中の彼はじわじわと重力に従ってずり落ちてくる。
「ちょっと、君……。……ああ、名前が分からないというのは、これほど不便なものなのね」
独りごちたヴェラに、前を歩いていたエリンが振り返った。彼女はヴェラから引き受けたはずの巨大な荷物を背負いながら、重さを微塵も感じさせない涼しい顔をしている。
「そうだね。いつまでも『君』とか『そこの彼』じゃ、なんだか他人行儀で呼びにくいし」
「別に、親しくなりたいわけではないの。ただ、呼びかけるたびに主語を省略したり、指を差したりするのは、あまりに非効率で品位に欠けると言っているの」
ヴェラの反論を、エリンは「はいはい」と聞き流して笑った。
「でもさ、名前がある方が絶対便利だよ。ねえ、名乗れるようになるまでの間、何か呼びやすい名前を付けてあげようよ!」
「……そうね。どんな名前がいいかしら」
エリンは少しだけ考えて、ぱっと笑った。
「今みたいにヴェラに運ばれているから、『だっこさん』とか? おんぶだけど」
「それ、名前ですらないじゃないの。ただの状態説明でしょう?」
思わず眉をひそめたが、エリンはお構いなしだ。彼女は、とにかく「他者」を欲している。長いこと塔の中に閉じ込められていた反動なのか、新しい存在が増えるたびに、彼女の世界は塗りたての絵画のように色鮮やかになっていくようだった。
「角があるから、『ツノっち』」
「却下よ」
「行き倒れてたし、『行き倒れタローくん』」
「論外ですわ。センスが死滅しているのではないの?」
「災厄の『サイちゃん』は?」
「……もういいわ。あなたに相談したわたくしが愚かでしたわ」
ひどい、とエリンが大笑いする。その声が、荒野の空に吸い込まれていく。
あまりに悪ノリが過ぎる。けれど、こうして不毛な軽口を交わす時間は、いつの間にかヴェラの心まで軽くしていた。もし、この背中の彼が目を覚まして、自分が「行き倒れタロー」と呼ばれていたと知ったら、どんな顔をするかしら。
……憤慨して、口を尖らせるのかしら。
そんな、ありもしない「普通の反応」を想像して、つい、口元がゆるんでしまった。
結局、名前は決まらないまま、彼女たちは街道跡を歩き続けた。かつて帝国の動脈だったであろう道も、今はひび割れ、舗石の隙間から不揃いな雑草が牙を剥いている。
ふいに、風が止まった。背中の彼が重力に従ってずり落ち、ヴェラの肩にその冷たい頬が触れる。
「ねぇヴェラ。このあいだ立ち寄った町で聞いた話、覚えてる?」
エリンの声音から、浮ついた響きが消えた。湿り気を帯びた真剣な色が、乾いた空気の中に混じる。
「……前回の『災厄の子』のこと?」
「そう。それ。恋人と一緒に大陸の端まで旅して……ふたりで、そこで命を落としたって」
エリンは小さく息をのんで続けた。
「そのおかげで、被害は今まででいちばん少なかったって。……災厄の子の選択が、たくさんの命を救ったんだね」
ヴェラは黙ってうなずく。あくまで噂の域を出ない話だが、町から町へと語り伝えられていた悲しくも美しい物語。
――そして、背に負う彼の姿が、どうしてもその話と重なってしまう。
「……ひょっとしたら、この人もそうなのかもしれない」
エリンは背中の彼を見て、声を落とした。
「誰も巻き込みたくなくて、ただひとりで歩き続けてた。だから……倒れても地べたに伏せなかったんだと思う」
「半歩でも、大陸の端へ近づこうと、四つん這いで……」
胸がきゅっと締めつけられる。
――どうして、この子はそんなことまで気付いてしまうのだろう。
言葉にしてしまえば、余計に彼の孤独と決意が突きつけられる。誰にも理解されず、誰にも助けを求められず、ただ世界のために孤独な死へ向かおうとしていた青年。ヴェラの心まで、湿り気を帯びた何かに侵食されそうになる。
「……かもしれないわね」
やっとの思いでそう答えると、エリンはふっと力を抜いて、笑顔を取り戻した。
彼女が無理にでも空気を変えようとしてくれているのが、痛いほど伝わってくる。
「よし! じゃあ名前決めようか!」
「まだやるの?」
「私ばっかりだったじゃない。ヴェラも何か出してよ」
「そうね……」
ヴェラは至極真面目に熟考し、そして、確信を持って告げた。
「……『ボロボロ君』」
「えっ!? ひどっ!?」
エリンが素っ頓狂な声をあげる。
「いやいや、それ、私の『行き倒れタロー』とどっこいだよね!」
「……失礼ね。少なくとも、わたくしのほうが文学的ですわ」
「どこが!?」
「『タロー』なんて安直すぎるじゃない。せめて『ボロボロ君』なら、現代詩の題名のような情緒があるでしょう?」
「……うわぁ、開き直ってる! センス壊滅的なのは私だけじゃなかったんだね!」
「ふふっ。認めるわ。でも、あなたと一緒なら安心ね」
「いや安心しちゃダメでしょ!」
エリンが笑いながら彼の顔を覗き込む。「ねぇ、聞いた? この人も相当だよ?」
もちろん、彼は相変わらず虚ろなまま反応はない。けれど、背中に触れる彼の肩が、ほんのかすかに震えた気がして――思わずヴェラも吹き出してしまった。
「……ほら、笑ってるわ」
「え!? ほんと!? やった!」
「ふふ……次に目を覚ましたとき、真っ先に抗議されるかもしれないわね」
「『よりによってボロボロ君とは何事だ!』って?」
「そのときは『行き倒れタロー』も同罪よ」
「やだー! どっちも封印、封印!」
エリンが両手をぶんぶん振って大げさに否定する。その姿が可笑しくて、ヴェラは背中の重みを少しだけ軽く感じた。笑い合う彼女たちの声が、何もない荒野に響く。背中の彼も、心なしか呼吸が楽そうに見えた気がした。
けれど――その笑い声が風に溶けたあと、ふと、エリンの表情が陰った。小さく口を開いて、誰に言うでもなくつぶやく。
「……この子が『災厄』になるまで、あとどのくらいなんだろうね?」
思わず、足を止めそうになった。現実が、冷たい風と共に吹き抜ける。けれどヴェラは歩みを崩さずに、努めて淡々と答えた。
「分からないわ。彼と会話できるようにならないことには、ね」
「……うん」
エリンはしばらく黙っていた。背負った荷が軋む音だけが、静寂を埋めていく。やがて彼女は、空を見上げながら、少しだけ声を震わせて続けた。
「災厄が始まったら……私の――ううん、私たちの運命がどうなるか、分かるかも知れないね」
「そうね」
ヴェラも空を仰ぐ。陽光にきらめく雲は穏やかに流れているのに、胸の奥はざらついていた。
「どんな結末になるんだろうなぁ」
エリンが振り返り、笑った。けれどその笑みは、さっきまでの悪ノリとは違っていた。心細さを隠すような、けれど、柔らかな覚悟を含んだ笑顔。
「私、がんばるからね」
その横顔は、普段の明るさを少し脱ぎ捨てたものだった。胸を締めつけるその一言に、ヴェラは軽はずみな言葉を返すことができず、ただ一歩を刻む。
”結末”といっても、それが命を落とすことを意味するとは限らない。けれど、あの狭い塔の中でただ「時」を消費するだけでは、エリンはきっと、自身の運命の答えを知ることもなく人生を終えていただろう。
どうせなら、彼女が「一人の人間」として生き残れる可能性に賭けたかった。だから、二人であの場所を飛び出した。
この旅の結末が、どうか最良のものになりますように――。
ヴェラの背負う重みが、ただの「死」ではなく、希望への重石であることを祈りながら。
* * *
日が傾きかけた頃、彼女たちは今夜の野営地を決めた。小高い丘にある一本の木のそば。旅を始めたばかりの頃は戸惑いも多かったが、今ではヴェラもエリンも手慣れたものだ。
テントを張り終えると、中に寝袋を敷いて、彼をそっと横たえた。体中が埃と汚れにまみれ、打撲や擦り傷、それに誰かに暴力を振るわれたのであろう痕も散見される。
「まずは、清潔にして治療ね」
二人で手分けして身体を拭い、傷の手当てをする。それでも彼は、痛がる素振りすら見せず、ただ虚ろな表情のまま視線を彷徨わせていた。顔を丁寧に拭ってやると、泥の下から、過酷な旅の跡を宿した一人の青年の素顔が現れた。ほんの少しだけ、生気が戻ったように感じられたのは、ヴェラの希望的観測だろうか。
夕暮れが空を濃く染める中、ヴェラは土魔法で即席のかまどをこしらえ、野菜の皮を剥き始めた。火を起こすのはエリンの役目だ。彼女は火の扱いが驚くほど巧みで、特に料理の火加減には妙なこだわりを持っている。
「……いつも思うけれど、エリンの作る料理は、謎に美味しいわね」
「謎にって……なんか怪しくない? それ、褒めてる?」
「褒めているのよ。……ただ、解せないだけ」
鍋を覗き込みながら、ヴェラは言葉を継いだ。
「切り方は不揃いで、盛りつけも雑。調味料を正確に計っている様子もない。なのに、味だけは妙に整っているのよね。喉を通る時、なぜか、ほっとする味がするの」
「えっ……そんな風に思ってたの? ていうか今、『雑』って言った! もう、作ってあげない!」
「ふふっ。……あなたにしか出せない味だと言っているのよ。エリンの料理は、理屈ではなく気持ちが先に来るから、温かいのね」
「……え? ちょ、ちょっと、ヴェラ、急に真面目に褒めないでよ。恥ずかしい!」
耳まで赤くして、エリンは慌てたように鍋をかき混ぜた。
しばらく沈黙が流れたけれど、やがて彼女はぽつりと呟いた。
「……でも、嬉しい。ありがと」
ヴェラは小さく笑い、鍋から立ちのぼる湯気を見つめた。煮込みはちょうどよく仕上がったようだ。器に盛りつけながらも、エリンはまだ頬を赤らめている。
追い打ちをかけてからかおうかとも思ったが、あえて言葉を飲み込んだ。彼女のそういう素直な横顔を見るのは、決して、嫌いではなかった。
「さて、彼はどうしているかしら」
ヴェラは腰を浮かせ、テントの中を覗き込んだ。彼は目を開けて横たわっている。漂い始めた料理の匂いか、あるいは彼女たちの気配を感じ取ったのかもしれない。
「ねぇ君……。ああ、名前を決めるのを、失念していたわね」
ヴェラがそう呟くと、エリンが背後から弾かれたように顔を覗かせてきた。
「名前! そうだよ、ずっと考えてたのに! ねぇ、どうするの? 私たち、ネーミングセンスは壊滅的だって判明したばっかりだよ?」
「壊滅的だなんて、自覚があったのね」
「ヴェラが散々言ったんだよ!? 『ツノっち』も『行き倒れタローくん』も、可愛くていいなと思ったのに、一個も採用してくれないんだから!」
ヴェラの脳裏に、先ほどの不毛なやり取りが蘇る。もう一度考え直すのも、それをさらにエリンに酷評されるのも、今の彼女には酷な作業に思えた。
「……サイでいいわ。もう、面倒ですもの」
「はぁ!? 絶対、ぜーったい後で本人に怒られるやつだから! 発案者の私が言うのもなんだけど!」
「文句があるのなら、さっさと意識をはっきりさせて抗議すればいいじゃない」
「あーあ。酷いね、サイ」
「……ぷっ」
エリンがすかさず彼を「サイ」と呼んだ。虚ろな表情のままの彼から返事はなかったが、ヴェラはそのあまりの流れるような命名に耐えきれず、吹き出してしまった。
こうして、なし崩し的に彼の名前は「サイ」に決まった。
呼びやすさだけは、認めざるを得ない。ヴェラは本来の目的を思い出し、テントの中の彼へ向けて手を差し伸べた。
「さあ、サイ。夕食にしましょう。こちらへ来て、一緒に食べられますか?」
エリンも肩を貸して、ゆっくりとサイの体を起こす。彼は、ほんの少しだけ食べ物を口にしてくれた。といっても、半ば強引に咀嚼させ、飲み込ませたに等しい状態ではあったけれど。
けれど、摂取したという事実だけでも、確かな前進だ。焦る必要はない。少しずつ、彼が「人間」としての感覚を取り戻してくれれば、それでいいのだから。
食事の後片付けをしていると、テントの中でエリンが再びサイに語りかけているのが聞こえた。ヴェラは外で作業を続けながら、その独白に耳を澄ませた。
「サイはさ、私たちと一緒にいるのは嫌だよね。……誰も災厄に巻き込みたくないから、放っておいてくれって思ってるでしょ?」
「……」
「ふふっ、君は優しそうだから。だから、こんな寂れたところまで、たったひとりで歩いて来たんだよね?」
「……」
「まぁ、確かに? 私たちも災厄に巻き込まれて死ぬのは嫌だけど。でも、ヴェラが君を連れていくと言った意味、私にも少し分かるんだ」
「だから、放っておいたりしない。……サイを私たちの『目的地』まで連れていくつもり」
「……」
「こっちの都合でごめんね? でも、目的地については心配しないで。サイの望み通りの場所。誰も住んでいない、大陸の端だよ」
エリンは、サイの頬を指先で突きでもしているのだろうか。その声には、深い慈しみが滲んでいた。
「そこでさ、決着をつけよう。サイと、サイの運命の。私と、私の運命の」
彼女たちの間に流れる沈黙さえも「対話」のように感じられた。そろそろ頃合いだと判断し、ヴェラは声をかけた。
「さて、そろそろ眠る準備をしましょうか」
「はーい。じゃあ、サイはこっちで寝てね」
エリンがサイを寝袋の中へ導くのを見届け、ヴェラは一旦外に出る。土魔法を振るい、テントの周囲を覆うように岩壁のシェルターを構築した。外から見れば不自然なほど巨大な岩塊にしか見えない、ヴェラ流のカモフラージュだ。
久しぶりに、エリンと一枚の毛布にくるまって眠りに就く。
* * *
翌朝、空が白み始める頃。ヴェラはテントの入口をそっと開け、中の様子を覗き込んだ。
「サイ、起きていますか?」
すると、彼はすでに目を覚ましており、上体をゆっくりと起こした姿勢でこちらを見ていた。
(あっ……目が合ったわ)
昨日とは違う明快な反応に、思わず胸が高鳴る。焦点の合わなかった瞳が、今は確かにヴェラを捉えていた。休息が、彼の心と身体にいくばくかの余裕をもたらしたのだろうか。
「ヴェラ、サイは起きた――?」
エリンが顔を覗かせた瞬間、サイが彼女の方へ視線を移した。
「わ! サイがこっち見てる!」
「ええ。わたくしが声をかけた時にも、正しくこちらを認識したわ。聴覚も機能しているようね」
「ほんとに……?」
エリンはぱっと花が咲いたように微笑んだ。その笑顔に、ヴェラも少しだけ安堵する。彼がいずれ「災厄」となる宿命にある事実は揺るがない。けれど、それでも残された時間を「一人の人間」として生きてほしい――それは、彼女たちに共通する、祈りにも似た願いだった。
「サイ、テントを畳むから、こちらに来てくれますか?」
そう言って彼をテントの外へ連れ出し、近くの木陰に座らせた。ヴェラとエリンは手早く寝具をまとめ、テントを畳んでロープで固定する。荷造りを終えたころには、空はすっかり鮮やかな朝の色に染まっていた。
今日中には次の集落へ辿り着く予定だったが、サイの体調を考えれば無理はできない。歩みは遅くならざるを得ず、今夜も野営になるだろうと覚悟を決めた。
大荷物を担いだエリンが先に立ち、ヴェラは再びサイを背に負って、街道跡を歩き出す。
「エリン。災厄まで、どれほどの猶予があるか、なるべく早く知っておかなければならないわね」
「うーん。サイに聞けたらいいのにね」
「ええ。もしあまり猶予がないのなら、この辺りの集落が災厄に巻き込まれてしまうし……」
ヴェラの懸念を吹き飛ばすように、エリンが力強く言った。
「よし、サイが話せるように、私がなんとかしましょう。任せなさい!」
自信満々にドンと胸を叩く彼女。その様子に思わず吹き出しそうになったが、任せてみることにした。やる気のある者に役割を与えるのが、最も効率的というものだ。
そこからエリンは、本当に一日中サイに話しかけ続けた。めげることなく、途切れることなく、明るく楽しげに、ずっと。とはいえ、彼女にとっては苦でもなさそうだった。もともとお喋りが好きな子なのだ。
話題は、彼女たちの旅の始まりにさかのぼる。
「ヴェラと私はね、ずっと遠く西のほうにある塔に住んでいたの。というか、正確には収容されていた、と言ったほうが正しいかな」
「でもね、私が『外の世界を見てみたい』って言ってみたら、ヴェラが『エリンが望むなら』って。本当に連れ出してくれたんだよ。驚いちゃった」
「しかもね、出る時、土魔法で塔の壁を盛大にぶち抜いたんだから! あの時のヴェラ、本当に格好よかったんだよ?」
「……壁の件は、わざわざ言及しなくていいでしょう!?」
ヴェラのささやかな抗議を、エリンは笑い飛ばした。
「あのエピソードを端折るなんて、歴史の損失だよ。ねぇ、サイもそう思うでしょ?」
エリンは背中のサイを覗き込むように問いかけるが、彼はまだ反応を返さなかった。それでも、彼女の声は風のように、穏やかに彼の心へ届いているような気がした。
彼女たちの奇妙な三人旅は、こうして賑やかに、そして少しずつ動き始めていた。




