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(24)涙

 湖上に静かな風が舞った。精霊たちが作り出す光の渦が、祠のまわりを包むように旋回している。水面はわずかに波を描き、天へと昇る陽光がその表面を鏡のように照らしていた。


「では――始めよう」


 上位精霊の声が低く響いた瞬間、ヴェラの足元に刻まれるように、淡い光の魔法陣が浮かび上がった。精霊文字と思しき線が複雑に交差し、まるで彼女の魂そのものを写し取るかのように、静かに広がっていく。


 ミナがそっと目を細め、呟くように言った。


「……これ、本当に“人間”と“精霊”の契約なの?」


 その言葉に、リディアは目を伏せて頷いた。


「……ううん、ちょっと違う……気がする……」


 祠の中心。ヴェラは静かに膝をつき、精霊の前に頭を垂れた。


「……わたくしの名は、ヴェラ。遠き異界より、この世界へと参りました」


 その声に応じるように、上位精霊もまた、同じ高さまで降りてくる。浮遊する光は、どこか人の姿を思わせたが、その輪郭はなおも揺れている。


「我は、大地を司る者。かつて精霊王に仕え、王と共に歩みしものなり」


 ふたりの声が、重なる。


「――ここに誓いを交わさん」


 その言葉と同時に、光の輪が跳ねるように揺れ、空気が変わった。


「ヴェラ。お前を突き動かすものは何だ。……力なき己への『絶望』か。それとも、世界を壊した者への『憎悪』か」


 上位精霊の問いに、ヴェラは一瞬、自らの内側に渦巻く感情を見つめた。そして、淀みのない瞳で精霊を見返す。


「……そのどちらもだわ。でも、今のわたくしが欲しているのは、そんな心細い感情じゃない」


「ほう……?」


「ただの感情なんて、何も変えられない。わたくしが今、何よりも欲しているのは――この意志を貫き通すための『力』。それだけよ」


 その言葉に、精霊たちがざわめいた。ミナとリディアも、思わず顔を見合わせる。


「……本気だね」


「本気すぎて、こっちが怖くなるくらい」


 上位精霊は、静かに手を伸ばした。


「ならば――我が力、その祝福、すべてを与えよう。土なる大地よ、この者と結び、契りを果たせ」


 手のひらが、ヴェラの胸元にそっと触れた。その瞬間、ヴェラの身体から淡い光が立ち昇る。風が巻き上がり、水面が跳ね、空の光が一斉に祠を包み込んだ。


「……っ、ああ……!」


 ヴェラの呼吸が乱れ、目を閉じる。身体の奥深く、失われたはずの魔力の流れが――否、それ以上のなにかが、静かに満ちていく。


「これが……“加護”……?」


 彼女の中に広がったのは、温かな土の匂い、春の芽吹き、母なる大地の抱擁のような感覚だった。

 やがて光が静まり、風も止む。ヴェラはそっと目を開けた。その瞳には、はっきりと“力”が宿っていた。


 ミナが小さく叫ぶ。


「ヴェラ……!」


「……すごい。これが、上位精霊との契約……」


 リディアも声を押し殺すようにして言った。ヴェラはゆっくりと立ち上がり、掌を見つめる。指先から、淡く揺れる土色の光がほとばしっていた。


「ありがとうございます、上位精霊さま。これで、わたくしは……」


「娘よ」


 精霊が最後に声をかける。


「――忘れるな。我が力は、女神を討つためのもの。お前がその道を外れぬ限り、我は力を惜しまぬ。だが……裏切るならば、その身に報いを受けよ」


「……ええ。裏切ったりなんて、しないわ」


 ヴェラは真っすぐ上位精霊を見つめた。


「わたくしは、救いたい人を――救える強さを手に入れる。あなたの誓いを、無駄にはさせないわ」


 風が再び、湖を渡った。光は静かに収まり、空はかつての穏やかさを取り戻していた。

 契約は、果たされた。


 ――契約の儀が終わり、風が森を撫でるように静けさを取り戻していた。

 ミナが手をひらひらと振りながら、いつもの調子で口を開いた。


「ヴェラ、よかったね~。思ったより、すごい成果になっちゃったね」


 その笑顔に釣られて、ヴェラも小さく微笑む。

 リディアが傍らでうなずきながら言った。


「ヴェラ、お疲れ様。でも、疲れてるところ悪いけど、すぐ城に戻らないと。留守番組が心配してるわよ……多分、魔道卿も」


「そうだねー。帰ったら、魔道卿にどやされそう」


 ミナが苦笑しつつも、ちょっと他人事のような口調でつぶやく。

 リディアは腕を組みながら言葉を継いだ。


「まぁ、怒鳴られたりはしないだろうけど……たぶん、顔面蒼白になってるんじゃない?」


 それを聞いたヴェラはふっと吹き出す。


「ふふっ。だったら、急いで帰りましょうか」


 ヴェラは二人を見つめ、真摯な眼差しで言葉を紡いだ。


「……ミナ、リディア。本当にありがとう。精霊のことを教えてくれて、ここまで連れてきてくれて」


 ヴェラは二人を見つめ、少しだけはにかむように微笑んだ。


「わたくしたちは、違う世界から来たけれど……。……ふふ。あなたたちは、本当にお人好しな仲間だわ」


 ミナが、柔らかく笑った。


「あはは、お人好しって。いいじゃん、そういうのも」


「聖女なんて肩書きより、よっぽどしっくりくるわね」


 リディアも肩をすくめ、ヴェラの手を引いた。三人は互いの顔を見合い、笑い合った。まるで、晴れ渡る空のように、澄んだ笑顔だった。

 すると――ミナが、いたずらっぽく首をかしげる。


「ねえ、ヴェラ。帰りも走るの? ひょっとしたら、加護をもらったから、飛べたりして!」


「飛べんぞ」


 低く響く声が割り込んできて、三人は同時に振り向いた。


「うわっ! いたんですか!」


 ミナがびくりと肩をすくめる。


「当たり前だ。私はヴェラがいなければ、この地を離れられんのだからな」


「そっかー……飛べないのかぁ。なんだ、上位精霊さまも、案外たいしたことないんだね」


 ミナが気の抜けた調子で言うと、上位精霊の眉がピクリと動いた。


「ほう、“たいしたことない”とはな……」


「ご、ご、ご、ごめんなさい! 上位精霊さま! この子、口がちょっと……でも、本当はいい子なんです!」


 慌てたリディアがミナの口を手でふさぐ。「もごもごご!」


 精霊はふんと鼻を鳴らし、手を掲げる。


「飛べはせんが――こういうのはどうだ?」


 その言葉と同時に、地面がうねり、土が持ち上がり、一直線の土橋が空中へと伸びていく。王城の方向へ、力強く。


「わっ……すごい! 橋だ! すごい長い橋!」


 ミナが目を輝かせて叫ぶ。


「まだ城までは届かんが、この橋の先端まで進めば、おのずと道が伸びていく。その分、速度も乗る――ただ走るよりは、よほど早かろう」


「これは……本当にすごいわ。ヴェラ、乗って、走って見せて!」


 リディアの声に、ヴェラはうなずくと、土橋の上へと跳び乗った。風が頬を撫でる。空中に浮かぶ一本道――その上を、ヴェラは軽やかに駆ける。足が進むごとに、道はさらに伸び、後方の土は静かに地面へと還っていく。


「これは……空を走っているみたいで、気持ちいいわ!」


 ヴェラの速度に合わせて、橋の先端が伸び続ける。そのスピードが合わさり――


「ちょ、ちょっと! ヴェラ速すぎ! 待ってー!!」


 ミナとリディアが置いて行かれそうになり、慌てて追いかける。

 こうして三人は、空にかかる一筋の道を駆け、王城へと――帰路を急いだ。


 * * *


 夕刻。西の空が淡い朱に染まるころ、三人は王城の門前にたどり着いた。

 行きは夜通し走って一晩かかったというのに、帰りは正午の出発でちょうど日が沈む頃の到着だった。土の精霊が伸ばしてくれた“空の橋”のおかげである。


「はぁ……はぁ……ちょっと、飛ばしすぎ……私、もうムリ……」


 ミナが膝に手をついてへたり込む。


「暗くなる前に帰ってこれたんだから、よしとしましょ。……私も、これ以上は無理だけど」


 リディアも息を切らしながら、苦笑い。


「ふたりとも、お疲れ様」


 ヴェラが穏やかに声をかけ、肩を貸そうとしたそのときだった。遠くから、誰かの声が響いた。


「ヴェラぁ~~~!!」


 振り返ると、王城の方角からセラが走ってくるのが見える。その勢いは、止まる気配すらない。


「セラ……?」


 言い終える前に、セラがヴェラに飛びついた。そのまましがみつくように抱きついて、ぐすぐすと泣き出したセラに、ヴェラは思わず、かつてエリンにしていたように、優しく頭を撫でる。


「どうしたの? 無事に帰ってこれたわ。……心配だったのね。急に出かけてしまって、ごめんなさい」


「私……私……サイを診ているヴェラを見かけたとき、痛いほど気持ちが分かっちゃって……」


 セラは涙を拭うこともせず、鼻をすすりながら続けた。


「それから、ずっと神様に祈ってた。サイを、連れて行かないでって」


「そう……ありがとう、セラ」


「……こっちの神様じゃないよ。私たちの世界の神様」


 セラは、ヴェラの胸元に顔をうずめながらぽつりと言った。


「だって、神様は……レイを見捨てなかった。だから、サイも……きっと死なせないって、そう信じて祈ったんだ……私……」


『災厄』と化したレイの無事を祈り続け、命を落とした女性――セラの想いが、ヴェラの胸に深く沁みる。


「そう……だったら、きっと聞いてもらえるはず。そうよね」


 そう言って、ヴェラは慈しむように、もう一度セラの頭を優しく撫でた。


 セラが王城の方を振り返り、目を向ける。


「……見て」


 ヴェラも同じ方向に目を向けた。夕暮れの光の中、王城の中庭にひとりの影が立っていた。その頭部には、確かに見覚えのある――小さな角が、ひとつ。


「……!!」


「早く、顔を見せてあげて」


 ヴェラは返事をする間も惜しむように、その影に向かって駆け出していた。


「サイ――!!」


 彼女は迷いなく走り、思い切りサイに飛びついた。


「うわっ! ヴェラ!?」


 サイはぎりぎりで受け止めたものの、勢いに負けてそのまま地面を転がり――


「サイ! サイ!」


「いてて……心配かけたな、ヴェラ」


「うわーん! サイ! サイぃぃぃ!!」


「わっ、泣きすぎだって……!」


 しかし、ヴェラの涙は止まらない。


「うわああああああん!」


「……あはは。子どもみたいだな」


 サイはかつて「赤ちゃんみたい」と言われたことを思い出しながら、今度は自分が子どもをあやすように、ヴェラの頭を撫でてやる。


「いいよ。泣き止むまで待つから。気が済むまで泣いて」


 ヴェラの泣き声は、しばらく王城に響き渡った――


 * * *


 やがて一行は、再会の喜びを胸に居住区の談話室へと集まった。

 窓の外はすでに深い夜の闇に包まれ、銀色の月光が静かに室内へ差し込んでいる。テーブルには魔導具の柔らかな灯りが灯り、サイの生還を祝うささやかな夜食の香りが、安堵の空気と共に漂っていた。


 一通りの騒ぎが落ち着き、ようやく全員が椅子に深く腰を下ろした頃。エイデンが、少しだけ緩んだ表情でサイに向き直った。


「つまり、先ほどの話をまとめると……。あの時サイが見ていたのは、“竜界”からの伝言だったわけだな。そして、あの行動はその“角”を覚醒させるための儀式だった、と」


 サイは額の傷痕を照れくさそうに指先でなぞりながら、静かに頷いた。


「ああ……。伝言から察するに、“角を授けし者”と“剣を授けし者”。このふたりを女神が守護する世界へ送る。それが竜神の計画の第一段階だったんだ」


「随分と回りくどい計画だね……」


 ハルトが、夜食のパンを齧りながら呆れたように笑う。


 サイは肩をすくめ、さらりと言葉を継いだ。


「……竜神と言えども、よその神様が仕切ってる世界で、勝手な真似をするのは、そう簡単じゃないってことだろ」


 エイデンが腕を組み、得心したように言葉を継ぐ。


「なるほど。先日ヴェラから聞いた話を合わせれば合点がいくな。竜神は女神を追っている。


 しかし、女神の守護するこの世界への直接介入は不可能だった。介入するには、竜神自身の“霊力”をこの世界に送り込む必要があったわけだ」


 サイの言葉に、ハルトが楽しげに指を鳴らした。


「……僕にも全貌が見えてきたよ。この世界の座標を特定し、第一段階が成功したことで、この世界に“角を授けし者”と“剣を授けし者”が揃った。……でも」


 エイデンが、そのあまりに数奇な経緯を噛み締めるように言葉を継ぐ。


「エリンが、サイの角に宿っていたはずの竜神の“霊力”を吸い込んだことで、“角を授けし者”の役を奪う形でこの世界に転移してしまった……」


「ああ。そして俺は、“剣を授けし者”として、この世界に渡った。でも、“角”という物理的な器自体は、この額に残ったままだったんだ」


「結果、“角を授けし者”と“剣を授けし者”が、サイという同一人物の中にダブっちゃったわけだね! 肝心の“霊力”はエリンが纏ったままなのにさ」


 そこまで一気にまくし立てたハルトが、ついに耐えきれずに吹き出した。


「あはは! 笑っちゃ悪いけど、それでサイは、自分の頭をカチ割る羽目になったってわけだね!」


「……笑い事じゃねーよ。本当に死ぬかと思ったんだからな」


 サイが呆れ顔で突っ込むが、その表情もどこか晴れやかだ。


「だってさー。……まぁ、無事で良かったよ。本当におめでとう、サイ」


 ハルトの言葉に、一同の間に温かな安堵の笑いが広がる。


 エイデンは改めて、サイの額の角を見つめた。


「ただ、“覚醒”とは実際、どういうことなんだろうな。真っ先に考えられるのは“災厄化の解除”だが」


「それは俺にも分からない……。でも、その可能性が高いと思う」


 そこでようやく、サイの腕にずっとしがみついていたヴェラが、小さく鼻を鳴らして泣き止んだ。


「ヴェラ大丈夫? 落ち着いた?」


 セラが優しくヴェラの背中をさすりながら、柔らかな声で問いかけた。ヴェラの肩がゆっくりと上下し、強張っていた体の力が抜けていくのを、セラはその手のひらで確かに感じ取っていた。


「ぐすっ……ごめんなさい。私、一時間も泣いちゃって……」


 ヴェラが目元を拭いながら照れくさそうに言う。


「あはは……一時間も泣ける人、初めて見ちゃったかも」


 セラが苦笑しながら肩をすくめた。


「こんなに泣いたのは、あの日以来、二回目だわ。もう……涙、全部出ちゃった」


「えっ、すでに一回あるんだ?」


 セラの言葉を聞いて、サイがヴェラの方を向き直り、少し顔を赤らめながら静かに言葉を紡いだ。


「ヴェラ。その……一度目って、エリンが消えた日のことだよな」


「うん?」


「じゃあさ……あの日と同じくらい泣いたってことは、俺も……エリンと同じくらい、大事だってこと?」


(サイ、突然行ったー!)

(これ、いい手じゃない!?)

(この流れならイケる!)


 転移者たちが、固唾を呑んで見守る。


「いや、ごめん! こんな時に変なこと言って!」


(ちょ、なんで引くんだよ!)

(ああもう見てられない……)

(意気地なし!)


 転移者たちが頭を抱え、天を仰いだそのとき――


「そうね」


「…だよね。ごめん」


 ヴェラが、まっすぐにサイを見て答えた。


「私、エリンと同じくらい……サイのこと、大事に思ってるわ」


(えっ)

(あっ)

(わっ)


 反応した転移者たちが、一気に沸いた。


「ヴェラ……!」

「サイ! やったー!!」

「よかったな!」

「ああ、一時はどうなるかと……!」


 転移者たちがサイに抱きつき、無遠慮に祝福の嵐を浴びせる。そして――当然のように、あの人が口を開く。


「じゃあ、ここで仲直りのキ・スだね」


 ミナである。


「ちょ、ちょ、ちょっ! ミ、ミ、ミナ!?」


 サイは顔から火が出るほど赤くなった。恥ずかしがり屋の本領発揮である。ヴェラも少し顔を赤らめながら、目を逸らすように呟いた。


「……そういうのは、人前でするものじゃないわ」


「さ、サイ……!」


 リディアとミナは、獲物を見つけた狩人のような鋭い目で、すぐさまサイの両脇を固めた。

 リディアが右の耳元で、静かに、しかし抗いようのない圧力で囁く。


「……これは、二人きりなら『してもいい』っていう意味だよ。サイ」


 ミナが左の耳元で、跳ねるような声で追い打ちをかける。


「これは、今すぐここから連れ出してチューしていいって意味!」


「は、はぁ!? ……な、ななな何を……!」


 サイの精神は、今まさに羞恥の限界点を超え、顔面は熟した果実のように真っ赤に染まった。

 こうして――仲間たちはサイの帰還を心から、そして全力の悪ノリと共に祝福し、王都の夜は賑やかに更けていった。


 その夜、静まり返ったテラスで、二人が本当に口づけを交わしたのかどうか――。

 それを知るのは、銀色の月光と、本人たちだけである。

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