(23)精霊
夜明けと共に始まった召喚の儀式は、日が傾く頃、静かに幕を閉じた。
ヴェラたちが王都の門をくぐり、東の地へと向かっていた、まさにその夕刻のことである。
聖堂の最奥、半球状に広がる召喚の間には、いまだ儀式の余熱が残っていた。床に描かれた魔法陣は複雑な多重構造を成しており、辺縁には高濃度の霊素が凝結し、淡く揺らめいている。
召喚は、たった今、終わったばかりだった。
結果は――失敗。女神の光は現れず、“勇者”も“聖女”も、新たに降り立つことはなかった。
精鋭の術士たちによる万全の術式で、神殿付きの巫女さえも配置したはずだった。条件は満たされていた。けれど、何も起こらなかった。
それが何を意味するか。――考えない。考える必要など、どこにもない。
「……我らが至らぬがゆえに、御声が届かぬのだ」
魔道卿は膝をつき、魔法陣の中心に向けて額を垂れた。その口は、すでに祈りを紡ぎ始めている。いくつもの祈祷文を組み合わせ、声が掠れるまで、何度も。神託が下るまで、終わらせるわけにはいかぬ。
――なぜ、啓示を下さらぬのですか。女神よ。
この国は、世界の要なのです。あなたが創り、あなたが導いた、あなたの“愛し子”が治める国。歴代の勇者と聖女を召喚し、幾度も災厄を退けてきた、この場所。
なのに。なぜ、今回だけは違うのか。
……いや、ちがわない。違わないはずだ。
すでにふたり、転移者が現れたではないか。探し人を追い、命を賭して世界を越えた”という、ヴェラとサイ。あの者たちこそ、女神の使徒である可能性はある。召喚は、すでに成っていたのだ。
だが、彼らは……。
サイは、異常な傷を負い、今なお目を覚まさぬ。
ヴェラは、スキルもなく、魔力も持たぬ。
……いや、関係ない。あのヴェラという娘の、妙に堂々とした応対はどうだ。異邦の者というよりは、まるでこの王国の民のようではないか。あれこそ、女神の加護によってこの世界に馴染んでいる証拠に違いない。
彼は、改めて額を床に伏せた。その頬に、魔法陣の光の名残がうっすらと照り返る。ほんの一瞬。その光が、歪んで揺れたような気がした。
……いや、気のせいだ。召喚陣の輝きは、常に神聖だ。それ以外の何者も混じるはずがない。違和感など、あってはならない。感じる方が誤りなのだ。
「どうか……御導きを……女神よ……」
掠れた祈りは、空へと溶けていく。返答はない。
それでも彼は信じる。それ以外に道などないことを――最初から、知っていたかのように。
◇◇◇◇◇
召喚の儀式が失敗に終わった、翌日のことだった。
太陽が南中に差しかかる少し前。王国東方の湖――静寂と水音に包まれたその場所に、ヴェラたち三人の姿があった。
風に金の髪を揺らすヴェラ。その傍らには、リディアとミナ。王国が“聖女”と称した転移者たちである。
「……あれじゃない?」
湖の中央に浮かぶ、小さな祠。その神秘的な佇まいに、リディアが指を伸ばした。
「精霊の契り場。きっと、あれがそうだよ」
ミナが応える。ヴェラは一歩、湖岸へと進み、そっと水面に足を踏み入れた。
――その瞬間だった。
湖面から舞い上がった無数の光が、彼女の身体を優しく包み込む。まるで祝福の風のように。
「なっ……なに、これ……!」
「これって……全部、精霊……?」
ミナとリディアの声が重なる。けれど、ヴェラは落ち着いた様子で光に手をかざし、小さく首を傾げる。
「この地そのものが特別……なのかしら」
「違うと思う!」
ミナが断言する。
「魔道士のおじさん、そんなこと言ってなかったし。きっと、ヴェラが特別なんだよ!」
その言葉に、ヴェラは微かに微笑んだ。
「それは……希望が持てそうな情報ね」
まるで彼女の歩みに応えるように、精霊の光は湖面を走り、一筋の光の道を形作っていく。一直線に、祠へと続くその光の小道に、ミナが目を輝かせた。
「見て! ほら、歓迎されてるよ!」
ミナが目を輝かせてそう言ったが、ヴェラはすぐには動かなかった。湖面に広がった光の道を見つめたまま、風の音と、水のさざめきを聞いていた。一歩進むたびに、足元にきらきらと光が寄り添い、舞い上がる。
リディアが息をのんだ。
「……ほんとに、あなたが呼ばれてるみたいね」
ヴェラは返事をせず、そっと頷くと、もう一歩。その背中に、ミナとリディアは黙ってついていく。湖の静けさに、三人の靴音だけが微かに重なった。
やがて、祠の目前にたどり着いたときだった。風の流れがふいに変わり、光の粒が空中で弾けるように躍り出す。
そして――
「この子、精霊王と同じ匂いがする」
「本当だ、同じ匂いがする」
「くんくん、間違いないよ」
「やっぱり、精霊王の匂いだ」
声は、四方八方から同時に聞こえた。けれど姿は見えない。リディアが眉をひそめてささやく。
「……この声、精霊、なの?」
「たぶん、そうね」
ヴェラは静かに返す。目を細め、あたりに浮かぶ光の粒へと視線を向けた。
「ねえ、精霊たち。よかったら、姿を見せてくれないかしら」
少しの沈黙のあと――
「いいよ、見せてあげる」
「しょうがないなぁ」
「お願い聞いてあげる」
重なりあう声と共に、光の粒がふうっと形を変えていく。やがて現れたのは、人のような輪郭を持った、小さな精霊たち。そのどれもが、ふわふわと宙に浮かびながら、ヴェラのまわりを囲んでいた。
「私は土の精霊だよ」
「僕も土の精霊」
「私もだよ、精霊王と同じ匂いのヒト」
「だから、きっと気が合うはずさ」
「……見事に、土の精霊ばかりね」
リディアが肩をすくめる。ミナが少し笑って言う。
「魔道士のおじさん、水の精霊と契約したって言ってたよね。土だけって、すごく偏ってない?」
ヴェラは、ほんの少し笑みを見せた。
「……わたくしが、土魔法しか使えないからかしらね。相性がいいのかも」
精霊たちは、くるくると回りながら、次々と口を開く。
「私と契約しに来たんでしょ?」
「僕が一番強いんだよ」
「契約、してして!」
「絶対後悔させないから!」
ミナが口元に手を当てて吹き出した。
「……大人気ね、ヴェラ。この精霊たらし」
「変なこと言わないでちょうだい」
精霊たちはなおも、我先にと名乗りを上げていた。
「僕と契約すれば、ぜったい強くなれるよ!」
「私のほうが安定してるよ! 毎日元気に頑張るタイプだし!」
「いやいや、僕の魔法、派手だよ? 目立つよ?」
「わたし、かわいいし!」
もう、にぎやかというより、混沌とした空気だった。ミナがぽつりとつぶやく。
「……なんか、面接会場みたいになってきた」
ヴェラは少しだけ眉を上げ、困ったように微笑んだ。その視線を、ふわふわと舞う精霊たちへ向けて問いかける。
「ねえ、精霊さんたち。ひとつ、確認させて。……あなたたちのうちのひとりしか、契約できないのかしら?」
一瞬、沈黙。しかし、次の瞬間――
「できるよ、ふたりでもさんにんでも!」
「もちろん、よにんでもごにんでも大丈夫!」
「ろくにんでもしちにんでも、ぜーんぜん問題ないよ!」
「はちにんでもくにんでも、まとめてよろしくね!」
まるで待ってましたとばかりに、どっと声が押し寄せる。リディアがあきれたように口を開いた。
「……結構、柔軟なのね。もっと、嫉妬深い存在だと思ってたけど」
「たぶん、これはあれだよ」
ミナがくすくす笑って、ヴェラに向き直る。
「精霊たらしの本領発揮ってやつ!」
「……だから、そういうのはやめてってば……」
そう言いながらも、ヴェラの頬が少しだけ赤く染まっていた。
精霊たちは、なおも歓声を上げながら、くるくるとヴェラのまわりを舞い続けていた。光の粒が空気を震わせ、祠のまわりに柔らかな風が生まれる。
ふいに、祠の奥から現れたひときわ大きな光が、静かに宙を舞う。その気配に、他の精霊たちが一斉に声をひそめた。
「……騒がしいぞ、お前たち」
重なる声がざわめきとなり、次第にひとつの意志を帯びた響きに変わっていく。
「土の上位精霊さま!」
精霊たちが一斉に身を引く中、その大きな光は、ゆっくりとヴェラの前に降り立った。温かく、しかし重みのある声が、彼女を見据える。
「なるほど。確かにこの娘から……精霊王と同じ匂いがする」
ヴェラは戸惑いを隠さず、それでも一歩踏み出して口を開いた。
「わたくし……魔力が扱えなくなってしまって……。魔法の力を取り戻したくて、ここに来たの。あの子たちと契約すれば、その力は戻るのかしら」
上位精霊はしばし沈黙し、ゆっくりと、しかし確信を持って言った。
「魔力を失ったのか。……それは当然のことだ。お前は、精霊王の守護する世界から来たのだろう? その加護を離れれば、精霊の力を源とした魔法は使えなくなる。理に適っている」
「精霊王の……守護?」
「そうだ。精霊王が神となられ、お前たちの世界を統べるようになって――五百年が経つ。王と共に旅立った精霊たちも、その地で生き、その地と共に栄えた……はずだ」
ヴェラの目が細くなる。リディアとミナが小さく息をのんだ。
「……わたくしの世界は、そんなに美しくなんてなかったわ。精霊さえ、今まで見たこともなかったもの」
ヴェラは、静かに答えた。
「三百年前までは……豊かで、自然が溢れていたと伝え聞いているわ。けれど今は――『災厄』という存在に蝕まれ、荒れ果てているの」
上位精霊の光が、わずかに揺れる。
「災厄……? そのようなものが、精霊王の世界を蝕んでいるだと?」
湖上の空気がひときわ澄んだ気配を帯びる。祠の前に浮かぶヴェラと土の上位精霊を、土の精霊たちが静かに取り囲んでいた。水面には一片の波紋もない。風さえも、息をひそめるように止んでいる。
上位精霊はしばらく黙ってヴェラを見つめていたが、ふと低く、地の奥から響くような声を発した。
「……その『災厄』とやら。なぜ現れるようになったのか、見当はついているのか?」
声に責める調子はなかった。しかし、その問いかけには、自然を守る者としての、断じた覚悟がにじんでいた。
「もしそれが……人間の仕業であるのならば」
精霊の瞳がヴェラの奥深くを見つめるように細められた。
「お前とて、許してはおけぬ。……答えよ、娘。嘘は、許さぬぞ」
ヴェラは息を呑んだ。小さく頷き、口を開く。
「……人間の仕業じゃないとは、はっきり言いきれないわ。何百年も前の世界で何が起きたのか、なぜ災厄が生まれたのか……今のわたくしたちには、知るすべもないのだもの」
静まり返る湖上。上位精霊の光が、ひときわ激しく揺らめいた。
「知らぬと言うのか。精霊王の加護を受けし大地をも蝕む力。そのような力に、心当たりが何もないと? 王の導きがありながら、何ゆえ世界はそれほどまでに堕ちたのだ……!」
地の底から響くようなその問いに、湖面がわずかに震える。
ヴェラは上位精霊の眼差しを真っ向から受け止め、静かに、けれど毅然とした声を返した。
「……そんな導きなんて、誰も知らなかったわ。わたくしたちの時代には、精霊王の救いも、あなたの言う加護も……何ひとつ届いていなかった」
その瞳には、怯えも、嘘もない。ただ、救いのないあの世界の、逃れようのない確かな真実が宿っていた。
「ただ理由もわからないまま、その『災厄』に生活を、国を、世界を一方的に侵食され、滅びに向かうだけでしたわ。……でも、その強さの根源にあるのは、“霊力”と呼ばれる異質な力なんじゃないかって、わたくしたちは考えているの」
「……“霊力”?」
上位精霊の眉がわずかにひそめられる。その響きは、この世界においても、異質なものとして受け止められたようだった。
「聞き覚えのない名だな……」
ヴェラは懐に手を伸ばす。
「……ここに、“霊力”を宿していたものがあるわ。『災厄』そのものとは性質が違うけれど……」
彼女の手の中には、銀白の光を宿す鱗があった。湖面の陽光を受けた瞬間、その滑らかな表面が、水面のように美しく揺らめき始めた。それは――白き竜の鱗。災厄の只中に落とされた、たったひとつの希望の証。
ヴェラがそれをそっと差し出すと、上位精霊の気配が変わった。空気が震え、水面がわずかにたわむ。精霊たちも一斉にざわめきを上げた。
「……っ、これは……!」
上位精霊が一歩、いや、浮かぶようにヴェラへと近づく。その目が見開かれ、かすかに震える声が発せられる。
「……竜の鱗……! 間違いない……この質、この気配……!」
湖の空がわずかに曇ったように見えた。
「これに眠る力を“霊力”と呼ぶならば――まさか、竜界の仕業だというのか……!?」
静寂の中、ヴェラは一歩、水面を進んで精霊の前へと近づいた。両手で丁寧に鱗を掲げたまま、まっすぐにその存在を見つめる。
「……そうじゃないわ。この鱗は、何者かが竜を攫ったときに――剥がれ落ちたものなの」
言葉の余韻が、祠の上空に静かに溶ける。上位精霊の瞳が細くなる。そして、まるで地の底を穿つような、重い声音で問うた。
「竜を……攫っただと?」
まるで信じられぬというように、声の温度がわずかに下がる。
「そのようなことができる者など――」
一拍の沈黙。その間に、空気が一段と重くなる。
「神しかおらぬ」
リディアが小さく息をのむ。ミナも、何かを察したように身を固くする。ヴェラは、返答をためらった。唇はわずかに動いたが、言葉は出てこない。
「……」
だが、無言こそが答えであることを、上位精霊は見抜いていた。
「……そうか。神の仕業――そう申すか」
絞り出すような声が、湖面に落ちる。ヴェラは視線を上げた。今度は、ためらわなかった。その瞳には、強い意志が宿っていた。
「ええ。わたくしたちは……この世界を守護しているはずの女神が、竜を攫った――そう確信しているわ」
その瞬間、上位精霊の顔がはっきりと揺らいだ。怒りとも、諦めとも、深い悲しみともつかない感情が、わずかに口元ににじむ。
やがて、ぽつりと呟くように言葉が落ちた。
「……あの女神、か」
風が一陣、湖面をかすめた。まるで、封じられていた名が、ついに口にされてしまったことを告げるかのように。
「……娘よ。見当違いな矛先を向けていたな。……今の言葉で、ようやく我らの目も開いたようだ」
土の上位精霊は、ヴェラの顔をしっかりと見据えて言った。
「――あの女神であるというならば、すべてが腑に落ちる」
声は低く、しかし確かな確信を帯びていた。
「我らがこの地を離れられぬのも、あの女神の仕業によるものだ」
ヴェラは驚いたように瞬きをした。精霊は続けた。
「なぜ、我らをこの湖の地に縛ったのか……その意図は未だ分からぬ。だが結果として、我らは精霊王の世界の現状を知るすべを失った。我らの目も、耳も、そこには届かぬようにされていたのだ」
その言葉に、ヴェラは深く頷いた。精霊たち――伝承では聞いたことがある。けれど実在すると考えたことは、一度もなかった。ならばなぜ、彼らは自分たちの世界に姿を見せなかったのか。その答えが、ようやく繋がった気がした。
「……女神が、精霊王に何かしたのかもしれぬ。いや……きっと、何かをしたのだろう」
湖の光が、静かに揺れる。
「よくここを訪れてくれた、娘よ」
土の上位精霊は、しみじみとした声音で言った。
「我らは人と“契約”を交わさねば、この地から出ることすら叶わぬ。それが、あの女神の課した縛りだ――いったい、何を恐れてのことかは知らぬがな」
ふっと、目を細める。その表情には、どこか諦めと苦笑が入り混じっていた。
「だが……人の側にその素質がない。契約できる者など、稀にしか現れぬのだ」
「ましてや、我ら上位の精霊と絆を結べる者など、とうに途絶えたに等しい。せいぜい、下位の精霊に手を伸ばせるかどうか――それが人間の限界だ」
精霊が自嘲気味に告げたその「仕組み」に、リディアとミナは顔を見合わせ、静かに息をのんだ。
ただの偶然や自然の理ではない。女神は最初から、精霊たちが外の世界の異変に気づいて動けないよう、現地の人間には扱えない『契約』という絶対の足枷をハメて、この湖に隔離していたのだ。
「――だが。お前ならば、あるいは」
精霊の視線が、まっすぐヴェラを捉える。
「精霊王の世界から来たお前であれば、その血と魂に、かつての契約の記憶が息づいているやも知れぬ」
ヴェラは一歩、前へと進み出た。その瞳は迷いなく、まっすぐに上位精霊を見つめている。
「わたくしに、その資格があるのなら。……お願い、力を貸して」
言葉を置くように、静かに、だがはっきりと。
「わたくしは、強くならなきゃいけないの。どうしても……やり遂げたいことがあるから」
その言葉に、上位精霊の眼差しが深くなった。そして、かすかに笑みを浮かべた。
「……よかろう」
だが次の瞬間、彼はぴたりと表情を止め、低く言い添えた。
「――ただし、条件がひとつある」
ヴェラはためらいもせずに尋ねる。
「……その条件とは?」
空気が、再び張りつめる。
「女神を討つ。それを手伝って欲しい。……人間には、荷が重すぎるか?」
静かな問いかけだった。だが、その響きには、神への怒りと、長きにわたる封印の嘆きがにじんでいた。
ヴェラは――答えを、すでに胸に決めていた。
「いいえ。土の上位精霊さま。……もとより、そのつもりだわ」
それを聞いた上位精霊は、声を立てて笑った。それは――どこか、懐かしさの混じったような、古き精霊の笑み。
「ほう。これは……ますます気に入った」
そして、湖の祠に静かに風が巻き起こる。
契約の儀が、始まろうとしていた。




