(22)後悔
暗いな、ここは――
音もない。光もない。ただ、意識だけが、どこかに浮かんでいる。
こんなことになるなら、言えばよかった。
あの言葉たち。あの気持ち。ヴェラに、伝えればよかった。
ヴェラ……君が、人間だろうと、人形だろうと、どうでもいい。例え怪物だろうと。
その綺麗な人工関節も、俺を軽々と持ち上げて、全力疾走するその腕力も、脚力も、走る姿も。
どうしようもなく好きなんだ。
出自がどうだったかって、そんなの、どうだっていいじゃないか。今、その姿こそが君の全部だ。
――ねっ、ヴェラって、すごーく格好いいでしょ。
……ほら、エリンだって。いつもそう言っていた。
怒りっぽくて、泣き虫で、でも誰よりも気丈で。
だから、自分のことを“こんな人形”だなんて、もう言わないでほしかった。
……ああ、悔しいな。
なにひとつ、伝えられてない。想ってるのに、全部、伝えてない。
このまま、消えるのかな。君に触れることも、君の名前を呼ぶことも、もうできないのかな。
――それは、嫌だな。
現実の治癒室。真っ白なベッドの上で横たわるサイの、閉じられた目尻から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
◇◇◇◇◇
サイが涙をこぼしている。……悲しいの?
意識のない彼の手を両手で包み込みながら、ヴェラはただ祈るように額を押し当てた。
わたくしが悪かったんだわ。サイはわたくしを見てくれたのに。同情なんかじゃない、真っ直ぐな好意を向けてくれていたのに。
嫉妬して、いじけて。サイは、わたくしみたいな人形じゃなく、普通の女の人と幸せになるべきなんだと、勝手に結論を出して、心に蓋をして。
……怖かったの。サイと向き合うのが。本当に近くに来られるのが。
「人形でも構わない」なんて――いつかあなたが、わたくしを傷つけないための優しい嘘をつく日が来るのではないかと……。
誰かの温もりが怖くて、自分が惨めになるのが怖くて、結局、逃げてばかりだったわ。
静かな部屋の中に、サイの微かな寝息だけが落ちている。
ごめんなさい、サイ。セラの言う通りだった。素直にならなきゃ、こんなに後悔するなんて。
いつだって、あなたはわたくしの手を引いてくれた。
悲しんで、怒って、笑って……それが『誰かと一緒にいる』ってことなんだって、あなたの隣にいて、やっとわかったのに。
いつか優しい嘘をつかれる恐怖より、そんな怯えを忘れてしまうほど、あなたの側にいたいと願ってしまうことも、また事実なのよ。
ねえ、帰ってきて、サイ。
謝るから。もう逃げないから。ちゃんと素直になるから。
……わたくしも、伝えたいことがあるの。
だから――お願い、帰ってきて――
* * *
翌日。
サイは、まだ目を覚まさなかった。
頭を貫いた傷は不思議なほどきれいに癒えていたのに、まるで深い眠りに落ちたまま戻ってこない。ただ静かに、安らかな寝息を立てている。それがかえって痛々しく感じられた。
ヴェラは訓練所の治癒室の隅に設けられた簡易ベッドに腰かけ、サイの冷たい頬にそっと触れた。触れればすぐにでも目を覚まして、いつものように不器用な言葉で笑いかけてくれるのではないか、と。
けれど――言葉をかけても返事はなく、どれほど近づいても彼は目を開けない。魂だけが、どこか遠い場所に取り残されてしまったように。
「サイ……」
呼びかける声は、誰にも届かない。
ヴェラはサイの頬からそっと手を離し、立ち上がった。
――もう、ただ祈って待つだけの無力な人形でいるつもりはなかった。
エリンを失い、今またサイまで奪われそうになっている。この理不尽な世界の悪意に抗い、彼らをこの手で守り抜くためには、圧倒的な力が、戦うための強さがいる。
昨夜、ハルトたちが提案してくれた模擬戦――今の自分に何ができて、何が足りないのか、それを知るための機会を無駄にするわけにはいかない。
ヴェラは振り返ることなく、静かに治癒室を後にした。
――昼下がりの陽光が、城の中庭にある訓練場を柔らかく照らしていた。
磨き抜かれた石畳の広場には、剣術や魔法の稽古用に設えられた標的や障害物が並び、場を囲む高い塀には王国の紋章が刻まれている。
そんな中、ヴェラは静かに立っていた。ローブの裾が、午後の風に揺れている。
その背後には、リディアとミナのふたりが控えめな距離で立っていた。リディアは腕を組みながらも真剣な眼差しをヴェラに向け、ミナは少し不安げに、けれど励ますような笑顔を浮かべていた。
「……ヴェラ、無理しないでね」
「大丈夫よ」
ヴェラは短くそう返すと、静かに伏せていた瞳をゆっくりと開いた。
その横顔には、張り詰めたような決意が宿っている。指先がぴくりと動き、詠唱の構えを取る。深呼吸。ひとつ、ゆっくりと。そして、紡ぐ。
「――〈大地の腕よ、姿を取りて、我が敵を討て〉」
言葉と共に、足元から空気が波打つような感覚が走る。大地とつながる霊脈に、意識が沈んでいくような――かすかな“感触”があった。
……が、それきりだった。
何も起きない。地面は沈黙を保ち、石ひとつ動かなかった。
「発動しない……?」
思わず呟いたヴェラの声に、ミナが慌てて周囲を見渡しながら、無理に明るい声を出す。
「……あ、今の、ちょっとだけ空気が動いたような気がしたよ!? ほら、あともう少しだったんじゃない?」
「いいえ、気のせいですわ。……何も、起きてなどないもの」
ヴェラが自嘲気味に首を振ると、リディアが腕を組んだまま、静かに、けれど明確な事実を告げた。
「ええ。ミナ、優しい気遣いだけど、事実を見ないと。……ヴェラ。今のは、魔力の放出を少しも感じなかったわ」
ヴェラはもう一度、詠唱を試みた。
「――〈大地の腕よ、姿を取りて――〉」
力を込めて、意識を研ぎ澄ませて。
けれど、結果は変わらなかった。空気は静かなまま、何の反応も返ってこない。
「……っ」
唇を噛みしめる。指先に力が入る。
あの塔で、あの村で、何度も使いこなしてきたはずの魔法が――まるで、最初から存在しなかったかのように。
何度試しても、魔法は発動しなかった。ヴェラの顔から血の気が引いていく。
「魔法が……使えない……?」
呟くヴェラの声は、震えていた。
何度も試しても発動しない魔法。霊脈の気配も感じない――まるで、世界そのものが拒んでいるようだった。
そんな彼女の肩に、そっと手が添えられる。リディアだった。不安げな表情ながらも、言葉を慎重に選ぶようにして、静かに口を開く。
「……ヴェラ、もしかして、魔力を失っているのかも」
「魔力を……失っている……?」
その言葉が頭の中で何度も反響した。魔力を失う――それは、魔法を手放すということ。そして、魔法を失った自分など、想像すらしてこなかった。
リディアは、ヴェラの顔をうかがいながら、慎重に続けた。
「そう。私たち“チキュウ”の転移者はね、魔力を体の中で生み出して、それを血流みたいに巡らせて蓄えているの。……もしその蓄えがゼロになっているなら、魔法は放てない。だから……」
ヴェラは小さく息を呑んだ。
「……魔力を……体の中で、生み出す……?」
「……もしかして、ヴェラは違うの?」
リディアは少し首を傾げる。
「……わたくしの世界の魔法は、詠唱で“大地の霊脈”とつながって、そこから直接魔力を汲み上げるの。体内に蓄積する必要はありませんわ」
ヴェラの肩がわずかに震え、瞳が見開かれた。
「……もしかすると……霊脈につながらない……?」
その声には、かすかな震えが混じっていた。リディアは唇に指を当て、しばし考え込む。
「……そうかもしれない。この世界には、あなたのいう“大地の霊脈”が存在しないのかもしれないし……あっても、うまくリンクできていないのかも」
胸の奥が、きゅっと縮む。
――これでは、誰も守れない。
魔法を失った自分に、一体何ができるというのだろう。
このままでは、またあの海岸の時のように、大切な人が目の前で奪われていくのをただ見ていることしかできない。
誰も奪わせないと誓ったのに。もう二度と、あんな思いはしないと怒りを燃やしたばかりなのに。
差し伸べる手すら持たない今の自分が、悔しくて、情けなくてたまらなかった。
ミナが、おそるおそる口を開く。
「あのね、この城には“精霊と契約して力を得てる魔道士”が何人かいるよ。たぶん、その人たちに話を聞けば、この世界で魔法を使う方法……何かわかるかも」
ヴェラは、はっと顔を上げた。
――精霊との契約。
それがこの世界での戦い方だというのなら、どんな泥をすすってでもその力を手に入れてみせる。大切な人をその手で守り抜くための道がそこにあるなら、迷っている暇など一秒もない。
「……ミナ。その方たちに、会わせてください」
ゆっくりと力強く踏み出した彼女の瞳から、絶望の色は完全に消え去っていた。
――その魔道士は、飾り気のない年配の男だった。
その静かな語り口には、人智を超えた存在に対する確かな "畏敬" の念が滲んでいた。
「――東の湖だよ。精霊の加護を得られるのは、あの場所だけだ」
古くから、精霊との契約を結ぶ“契り場”として知られているという。
王都の東方、広大な湖のほとりに、精霊と通じる“門”がある。古より加護を受けた魔道士は、皆その地を訪れたのだという。
「精霊の力は、人を選ぶ。望めば誰もが手に入れられるような安いものではない。けれど、お前のように――強く願う者には、応えてくれることもある」
そう言って、魔道士はヴェラの目をまっすぐに見つめた。
その眼差しを受け止めるように、ヴェラはわずかに頷いた。魔法を失った身体に、再び灯るかもしれない希望――それが精霊の力なら、賭けてみる価値はある。
「行こう、ヴェラ」
ふいに、リディアが隣で短く、けれど力強く声をかけた。いつの間にか愛用の杖をしっかりと握り直し、すでに準備はできていると言わんばかりに真っ直ぐ前を見据えている。
「私たちも、力になれるかもしれない。ヴェラひとりに、背負わせないから」
ミナも大きく頷きながら、ヴェラの手をぎゅっと包み込むように握りしめた。その瞳にあるのはただの慰めではない。大切な仲間と共に戦うという、迷いのない確かな決意だった。
ヴェラは目を見開き、すぐにふたりの温かさに息を吐いた。
「……ありがとう」
ぽつりと漏れたその声に、ミナは「えへへ」と照れくさそうに笑って鼻の頭を掻き、リディアもふっと柔らかく目を細めた。
ヴェラは力強くうなずき、東の空を見据えた。
もう、二度と誰のことも奪わせはしない。そのために必要な力なら、地の果てまで行ってでも掴み取ってみせる。
その日の夕刻。
通用門にて、ヴェラ、ミナ、そしてリディアの三人は、簡素な旅装を身にまとい、出発の準備を整えていた。兵士たちに形式的な出立の届けを済ませたところで、通りすがりの若い兵が、どこか気の抜けた声で叫ぶ。
「おい、聖女たち、魔王討伐はどうした!?」
背後から飛んできた間の抜けた声に、三人は思わず顔を見合わせた。ヴェラは上品に肩をすくめ、どこか悪戯っぽく微笑む。
「……ちょっと、寄り道ですわ」
その言葉を合図にしたように、ミナがぷっと吹き出し、リディアも堪えきれずに肩を揺らして笑った。ヴェラもつられて小さく吹き出してしまう。
“聖女”なんて役割は、一度ここに置いていこう。もう二度と誰のことも奪わせない、本当の力を手に入れるために。
三人は互いに笑い合いながら、夕焼けに染まる東の街道へと、力強く歩みを進めた。
* * *
翌朝。すでに王都を発っていた三人は、まばゆい陽光の下、王国東方の湖を目指していた。道はなだらかで、空は澄み渡っている。
先導するのは、ミナとリディア。ふたりは風を足にまとわせ、空を滑るように駆けていた。
一方のヴェラは、地を走っていた。ローブを風になびかせ、己の脚力のみで、空を飛ぶ彼女たちに並走している。
人間離れしたその速度は、彼女の四肢を構成する『ゴーレム技術』の賜物だった。
――空を飛べたら、どれだけ楽でしょうね。
一瞬そう思いながらも、ヴェラは力強く地面を蹴る感触に集中した。魔法という翼をもがれた今、この作り物の“足”だけが、彼女を前へ進める唯一の武器だ。
空からミナが、呆れたように声を下ろす。
「ねえ、ヴェラ! さっきから、お馬さんくらい速いよ!? 息、全然切れてないけど……こんなにずっと走ってて大丈夫なの!?」
「……これくらい、造作もありませんわ」
ヴェラは息ひとつ乱さず、前だけを見て淡々と返す。
少し離れた空を飛ぶリディアが、冷静な目でヴェラを見下ろしていた。
「魔法もスキルもなしで、飛んでる私たちに追いつくなんて。……ゴーレム技術で作られたその脚、規格外の出力ね」
呆れ混じりのリディアの言葉。しかし、ヴェラは気を悪くするどころか、小さく口の端を上げた。
かつては、人間とは違うこの人工の四肢がコンプレックスだった。
けれど――
「――格好いい」
エリンによく言われていたその言葉が、ふとサイの眼差しと重なった気がして、ヴェラは少しだけまぶたを伏せた。
サイは、この人工関節の脚で走るヴェラを、一度だって奇異の目で見なかった。哀れむこともなく、ただ真っ直ぐに、この足で駆け抜ける彼女の姿を、当たり前のように受け入れてくれていた。
(……ええ。だから、どこまでだって、走ってみせるわ)
靴の底に伝わる大地の感触が、確実に前へ進んでいることを教えてくれる。
やがて、遠くに湖面が見えてきた。広く、静かで、まるで鏡のような水面。霧がかかるその中心に、小さな祠のような影が佇んでいる。
リディアが空中で立ち止まり、振り返る。
「――あれが、精霊の契り場ね」
ヴェラは無言でうなずき、大地を蹴っていた足を止めた。
ようやく、手がかりの地にたどり着いたのだ。




