(17)勇者と聖女
「ヴェラ、ごめん。俺、王様と魔道卿の前で……全く役に立たなかったよな……」
サイは、椅子の背にもたれながら、ひとつ深いため息をついた。
ハルトの部屋に案内されて間もなく、何をするでもなく指先をいじりながら、気まずそうに視線を落としている。
テーブルを挟んで座るヴェラは、そんな彼に優しく笑いかけた。
「そんなことないわ。もし、謁見の前にサイが言ってくれた言葉がなかったら、わたくし、あの場で動揺して……」
「でも……」
「大丈夫。サイは頼りになるわ。そんな顔しないで」
そのひとことで、サイの表情がわずかに緩む。ヴェラの真っ直ぐな声が、彼の自責の念を和らげたようだった。
「うん……ありがとう、ヴェラ」
そのとき、扉が静かに開いた。
「お待たせ」
ハルトが現れ、両手に載せた盆には、温かな湯気の立つお茶のカップが六つ。小さな焼き菓子まで添えられていた。
「君たちが聞きたいことは山ほどあると思うけれど、まずは……“知っておいてほしいこと”から話していいかな?」
「ええ、お願いするわ」
ヴェラが応じると、ハルトは頷いて席についた。
テーブルの周りには、エイデン、リディア、ミナの三人も加わり、改めてセラ以外の“転移者”が顔を揃える。
「まず、この王国における“転移者”の役目について説明させてほしい。さっき少し言ったけど、君たちもあの魔道卿の判断次第では、僕たちと同じ“役割”を与えられるかもしれない」
「役割……ですか?」
ヴェラが眉をひそめると、ハルトは少し苦笑いしながら、問い返した。
「覚えてる? 謁見の間で、僕たちが“勇者”や“聖女”って呼ばれてたこと」
「あ……ええ、確かに。けれど、その時は余裕がなくて……あまり深く考えていなかったわ」
「その“勇者”や“聖女”こそ、僕たちに与えられた役割なんだ。そして……僕らの任務は、“魔王”を打ち倒すこと」
ハルトの言葉に、テーブルの空気がわずかに緊張を帯びた。
「“魔王”とは、何なのですか?」
ヴェラが率直に尋ねた。彼らとの出会いの中で初めて耳にしたその言葉――だが、それが何を意味するのかは、まだ分かっていなかった。
サイも身を乗り出すようにして耳を傾けている。
「この世界に災いをもたらす存在……だと、魔道卿は説明してくれたわ」
先に答えたのはリディアだった。ヴェラの瞳を見据えるその声は、ひどく真剣だった。
「……わたくしたちの世界でいう、『災厄』のようなものですわね」
ヴェラがぽつりと呟くと、ハルトが小さく頷いた。
「災厄のような存在――その認識で間違っていないと思うよ」
エイデンが言葉を継いだ。その口調には、経験者としての重みがあった。
「この世界では、およそ三百年前から、“魔王”と呼ばれる存在が周期的に出現するようになったそうだ……」
「……そのような存在が……何度も?」
「その都度、召喚の儀式が執り行われ、異世界の者たち――勇者や聖女が呼び出され、命を懸けて戦ってきた……」
「それを……倒す役目を、転移者が?」
ヴェラの声には、驚きと同時に戦慄が混じっていた。
『災厄』のような存在。人の手では到底太刀打ちできない相手。そんなものと戦うために呼ばれたというのか、この人たちは――。
「そうだ。歴代の勇者や聖女によって、魔王はすべて滅ぼされた――現在の魔王を除いて、だけどな。そうして、この国は今日まで持ちこたえているんだ」
「そんなに強いんですか、勇者や聖女って……」
サイの問いかけに、ハルトが柔らかく笑って応じた。
「そうだね。僕たちはこの世界に来るとき、魔王に対抗するための“スキル”を――女神から与えられているんだ」
「……女神から、ですか?」
ヴェラが問い返すと、ハルトは小さく頷いた。
「うん。“翻訳魔法”もそのひとつ。ほかにも、最強の剣術だったり、破壊魔法だったり、致命傷を癒す回復能力なんかもある。たとえ瀕死になっても、スキルで戦線に復帰できるんだ」
「……それって、すごいですね」
サイが思わず息を漏らすと、リディアが優しく補足した。
「でも、そういう力があるからこそ、ようやく魔王と渡り合えるのよ。もしスキルを授かっていないなら、“勇者”という役目は、本当は与えられるべきじゃないわ」
「その……。わたくしたちは、ただこの世界に転移してきただけなの。女神様には会っていないわ」
その言葉に、空気が一瞬止まった。
「……えっ。会ってないの?」
ミナが驚き、リディアも眉をひそめた。
「そんなことって……。転移の際、必ず女神と対面するはずなのに」
「……やっぱり、そうか」
ハルトは静かに息をつき、そして、そっと言葉を継いだ。
「だったら、あの役割を与えられないように、ちゃんと伝えたほうがいい。無理をすることなんてないからね」
その声音には、純粋な気遣いと共に、この世界の理不尽なルールをよく知る者としての、隠しきれない危惧が混じっていた。
「でも……それでは……」
ヴェラが言いかけたところで、サイが思い出したように手を挙げる。
「……その、“召喚の儀式”ってやつさ。みんなどうやって呼び出されるんだ? 初めて会ったときも、謁見の間でも言ってたよな。この剣に刺された……って」
ハルトが、わずかに表情を曇らせた。
「“呼び出し”なんて生易しいものじゃないよ。ある日突然、サイが持ってたのと同じ剣に貫かれて……もう死んだと思った瞬間、女神が現れて、“選ばれし者よ”と告げる。そして、目が覚めたらこの世界だ」
「それって……」
(ある日、突然、『災厄の子』にされるのと、似たものを感じるわ……)
ヴェラの脳裏に、あの衰弱しきったサイがよみがえる。
それに気づいたのか、サイが彼女の方に目を向け、小さく頷いた。
「ひとつ気になったのだけど……剣による転移って、その“召喚の儀式”と同じタイミングで起きているのかしら?」
ヴェラの問いに、部屋の空気が少しだけ静まった。
ハルトは小さく息をつき、目を伏せてからゆっくりと答える。
「……ああ、そうだ。タイミングは、まったく同じだよ。“あの剣”が僕らを貫いた、その日に――この世界で、召喚の儀式が行われていた。つまり、彼らがそれを望んだから、僕たちはここにいるんだ」
「望まれなければ、僕らはまだ――あの街で、友人たちと、何も変わらない日々を過ごしていたはずだった」
ハルトの言葉に続き、エイデンが苦い響きを滲ませた。
「やりきれない話だよな、正直。望んだわけでもないのに、いきなり呼び出されて……戦えと言われるのだから」
一瞬、誰も言葉を返せなかった。
リディアがそっと指先でカップの縁をなぞりながら、小さく呟く。
「でも……この世界の人たち、自分たちのために誰かが命を懸けてくれてるって、ちゃんと分かってくれているの。それが分かると、私たちも、簡単に背を向けられないのよ」
サイが口を挟もうとして言葉に詰まる。ヴェラは静かに彼らの言葉を聞きながら、目を伏せた。
「……滅びが目の前にある世界なんだ。だからこそ、召喚を止めることもできないし、選ばれた側は拒む余地もない」
エイデンの声音は、あくまで穏やかだった。けれどその背中には、どこか背負わされたものの重さがにじんでいた。
一瞬、誰も言葉を発せず、部屋の中に静寂が満ちた。
窓の外では、陽が傾きかけた空に金色の光が差し込み、カーテンの縁をやさしく照らしている。その柔らかな光が、まるで何かを象徴するように、ヴェラの頬にも落ちていた。
静まり返った部屋の中で、ヴェラはただ、黙って思考を深めていた。
(『魔王』が現れると、『召喚の剣』が現れる……)
(『災厄』が育つと、『天より降る剣』が現れる……)
ふたつの世界。ふたつの災厄。そして、どちらにも現れる「剣」。
(……これは、構図が同じでは?)
さらにヴェラの背筋を冷やしたのは、その次の連想だった。
(そのたびに、女神が“スキル”という強大な力を与える……)
(まるで、理の外から干渉するように――)
(そして、この世界は“剣を振るう者”がいる世界のはずだわ……)
ぞくりと、何かが繋がった気がした。
(“剣を振るう者”――それが、女神……?)
無意識に息を呑んだ。考えたくなかったはずの仮説が、確かな輪郭を持って立ち上がってくる。
「あ、あの……」
ヴェラが小さく手を挙げ、慎重に言葉を選びながら口を開いた。
「ハルト、あなたのお話の途中で申し訳ないのだけれど……わたくしたちの話も、少し聞いてもらえないかしら。わたくしたちがどうしてこの世界に来たのか……『災厄』と呼ばれるもののことも含めて」
その声は緊張を帯びていたが、どこか切実でもあった。ハルトは驚いたように目を瞬かせ、それからすぐに笑顔を返した。
「もちろん。僕の話はあとでも構わないよ。聞かせてくれるかな」
ヴェラは頷き、周囲に視線を向ける。
「皆さんも……聞いていただけますか?」
エイデンが即座に応えた。
「ああ、ぜひ聞かせてほしい」
「いいわよ、気になるもの」
リディアが微笑む。
「うん。もちろん」
ミナも柔らかな声で応じた。
エイデンやリディア、ミナがそれぞれに肯定の意を示すと、ヴェラは静かに、けれど淀みなく語り始めた。
『災厄』と『災厄の子』のこと――『天より降る剣』と、それを振るう何者かの存在。
サイとエリンの身に起こったこと、自分たちがこの世界に来た理由と経緯。そして最後に、“剣を振るう者”こそが女神なのではないか、という仮説――
ひとつひとつ、ヴェラは噛みしめるように語っていった。
「じょ、情報が多すぎる……」
ハルトが頭を抱える一方で、リディアは腕を組み、思案げな顔つきで呟いた。
「この世界で起きていることと、まったく無関係には思えないわね……」
「ぐすっ……エリンちゃん……」
ミナは涙をこぼしていた。ヴェラの話の中で語られたエリンという少女に、強く感情移入してしまったようだった。
そんなミナの姿に、ヴェラの胸は少し温かくなった。
(……彼らとわたくしたちは、確かに異なる世界で生まれた。けれど、同じように涙を流せる。同じように誰かを想えるのね)
(――ただ……わたくしは、作り物の人形だけど……)
そのとき、エイデンがふと口を開いた。
「つまり……“チキュウ”からは勇者や聖女が、君たちの世界からは『災厄』が、この世界に転移してくる。そう考えているんだね」
ヴェラは静かに頷いた。
「ええ……」
「そうなると、『災厄』と『魔王』は同一である、という仮説も成り立つな」
「わたくしも、そう考えていますわ。もし『災厄』と『魔王』が同じもので、そこに転移者をぶつけるという構図があるのなら……それは女神による自作自演――マッチポンプに他なりませんわ」
部屋の空気が、一瞬凍りつく。
「はぁ~~……」
サイを含めた一同が、同時に深いため息を漏らした。
「えええええ!? 女神が? そんな……なんのために……!? わけがわからないよ……!」
ハルトは頭を抱え、動揺を隠せない。
「それは……さすがに見当がつきませんわ」
「……『災厄』がこちらの世界に転移し、『魔王』として現れる。にわかには信じがたいが、もしそれが事実なら、俺たちが命を懸けて戦ってきた理由そのものが覆るな」
エイデンが、苦渋を噛み潰すような低い声で言葉を継いだ。その瞳には、かつてないほど鋭い光が宿っている。
「確証はまだない。だが、こればかりは今ここで考えても答えは出ないな……。君たちの言う『災厄』の痕跡がこの世界のどこかにあるのか、魔王の出現周期とどう関わっているのか、これからは俺たちも目を光らせて探っていくしかない」
エイデンはそこで一度言葉を区切ると、ミナがまた鼻をすすった。
「どこにいるの、エリンちゃ~ん……」
よほどヴェラの語った物語が胸を打ったのだろう。ヴェラはその様子を見て、思わず微笑んだ。
そのとき、サイがふと思い出したように口を開いた。
「じゃあ、このタオル、もう取っていいよな。角の話もしちゃったし」
彼はそう言いながら、頭に巻いていたタオルを外した。額には、短い一本角が露わになる。
「気にすることはないさ」
エイデンがやわらかな声で言った。
「この国の人にとっても、私たちにとっても、君たちは“異世界人”だもの。見た目の違いなんて、誰も気にしないわ」
リディアも微笑んで、サイに安心を与えるように言葉を添えた。
それからは、しばし雑談のような時間が続いた。ハルトたちは王国のことやこの地の風習、そしてもうひとりの“聖女”セラが魔王との対峙以来どこか様子がおかしいことなどを語ってくれた。
そんな中、ミナが唐突に爆弾を落とした。
「ねぇ、それにしても――ヴェラって、いいとこのお嬢様なの? 話し方がすごくお上品だし。私、お嬢様に憧れてるんだよね!」
「……いえ、わたくしは、別にお嬢様というわけでは」
ヴェラが困惑したように否定すると、一同の注目が彼女に集まった。
「え……? わたくし、話し方、変ですか? ……サイ? どうなんですの?」
「え? いや、どうかな……。そうだ、あれだ。ハルトの翻訳魔法が変なんじゃないか?」
「ちょっ! 敬語だろうがスラングだろうが、ちゃんとニュアンスまで翻訳できるってば!」
ハルトの抗議を余所に、ヴェラは不安げにサイを見つめた。
「サイ……?」
「ご、ごめん。でも、変ではないんだ。……むしろ、そのままで、直さないでほしい」
「そう! サイの言う通り! ヴェラ、絶対、そのままでいてね!」
ミナの迫力に気圧されたヴェラは、戸惑いながらも頷くしかなかった。
「わ、分かったわ……」
彼女が結局、何に納得したのかは分からないまま。けれど、その場の空気が一段と和らいだのは確かだった。
やがて、エイデンが時計代わりの魔器を見て言った。
「さて、今日はこのくらいにしておこうか。そろそろ夕食の時間だし、君たちも疲れてるだろう?」
「君たちの部屋の準備が済んでいるか、確認してくるよ」
ハルトがそう言って立ち上がり、部屋を後にした。
「私たちも自室へ戻ろう」
エイデン、リディア、ミナも続いて出ていき、部屋にはヴェラとサイだけが残された。
しばらくの間、部屋には沈黙だけが流れた。窓の外から聞こえていた人の気配も遠のき、ただカーテンが夜風に小さく揺れる音だけが響く。
その長い静寂を、ようやく断ち切るように、サイがぽつりと呟いた。
「……ヴェラ」
「……どうしたの、サイ?」
「エリンは……魔王になっちゃったのかな……」
ヴェラは答えに詰まった。けれど、目を逸らすことなく、静かに言葉を紡ぐ。
「分からないわ……でも、もしそうなってしまったのなら――」
「うん」
「倒させませんわ。たとえ、ハルトたちが敵になったとしても……わたくしは、エリンを絶対に守り抜く」
「……ああ、そうだな。とことん付き合うよ。ヴェラ」
ヴェラはふっと笑みを浮かべた。
「ありがとう、サイ」
こうして、王国での最初の夜が、静かに更けていった。
* * *
――深夜。
王都の中心にそびえる大神殿。その奥、誰も立ち入ることを許されぬ聖域に、一つの影が跪いていた。
無数の蝋燭の灯が、薄い香煙と共に静かに揺れている。光の中心にあるのは、純白の女神像――慈悲と叡智を司るとされる、この世界の守護神。
その像を前に、黒衣の男は音もなく祈っていた。額を石床に伏せ、絹のような声で、静かに、ただ一言。
「永遠の繁栄を、女神よ……」
祈りは、それだけだった。この世界を蝕む“魔王”が討たれることを、彼は願わなかった。終わりなき召喚と戦乱の輪が断たれることを、彼は願わなかった。
ましてや、この世界に真の安寧が訪れることなど――彼の祈りには、ひとかけらも含まれていなかった。
彼の言葉に込められたのは、“繁栄”という名の永続する優位。
支配の構図が崩れず、盟主の座が脅かされぬこと。そして、女神が与えた契約が、永遠に果たされ続けること。
そのために、災厄は必要だった。“魔王”は、必要悪などではない。――この国が存続するための、必須の礎であった。
彼は知っていた。この国の繁栄とは、血と命の供物の上に築かれた、冷酷な秩序なのだと。けれど、その胸に迷いはない。なぜなら彼は、“女神の愛し子”の末裔なのだから。
静寂の中、燭光だけが揺れていた。
そして、女神像の無垢なる微笑は――ただ静かに、その祈りを受け止めていた。




