(13)実験室
扉の軋む音が消えると、室内の静けさがふたりを包んだ。
そこは、異様な気配の満ちた空間だった。天井近くまで積み上げられた書架。中央には、奇妙な器具や金属製の台が無造作に並び、ガラスの管や薬瓶が整然と並んでいる。
部屋の隅には、人ひとりが入りそうなほどの大型のガラス筒が鎮座していた。中には淡い緑がかった液体――培養液のようなものが満たされ、かすかに泡を立てている。
そしてその隣、ひときわ異様な存在感を放っていたのは、漆黒の金属でできた巨大な釜だった。巨大な口を暗く開けたまま、無言で佇むその釜からは、長年の使用による焦げ付きが染みつき、ところどころに何かがこびりついた跡さえある。禍々しさを隠す気配はまるでなく、それはまるで“生きたまま何かを煮るための器”のように見えた。
サイは無意識に喉を鳴らした。
ここが――ヴェラを、何度も、繰り返し……。
握ったこぶしが、わずかに震えていた。だが当のヴェラは、一瞥をくれただけで、そのまま無言で室内を進んだ。
部屋に散乱する本の山に近づき、一冊手に取っては、ぱらぱらと目を通していく。感傷よりも、目的が優先されているのだ。彼女の冷静な横顔を見て、サイは少しだけ安堵する。
――今の彼女の中にあるのは、きっとエリンのことだけだ。
「この研究を始めたころのものかしら。鱗について考察している記載があったわ」
ヴェラが差し出した書物の冒頭に、走り書きのような記述があった。
―――「竜神の鱗」と呼ばれるこの秘宝。どこから現れたものであるか、その痕跡はどこにもない。
言い伝えの竜界から流れ着いたと言われているが、これだけの力を持つにもかかわらず、その主が住む地を誰も知らないということが、果たしてあり得るのだろうか。
興味は尽きないが、この世のものでなければ、逆に都合がよい。
これを持つ者こそ、この世界の王たる証となるのだから―――
「なんか……欲望丸出しだな。こいつ」
サイは苦々しげに呟いた。だが、すぐにページを閉じず、もう一度、最後の一文を黙読した。
「……この世のものではない、か……」
呟いた言葉に、自分でも引っかかるものを感じたのか、サイは視線を本の文字に残したまま、わずかに眉を寄せた。
ヴェラは言葉を返さず、そのまま別の本へと視線を移した。
「別の資料も探してみましょう」
今度はサイが棚の一角から取り出した書物を手渡す。
「これは……『融合実験初期』って書いてあるな」
「見せて」
ヴェラが受け取ったページを開き、目を走らせる。
―――竜神の鱗の力(以下、“霊力”と呼称)は、私という器には収まり切れない。
霊力を宿すには、人間であろうが、人形であろうが構わない。
重要なのは、その力を宿した存在を私が所有することだ。
所有こそが支配であり、支配こそが至上である―――
「ほんとうに、欲望丸出しだな。こいつ」
サイはあきれたように、吐き捨てるように言った。
本から目を離さず、ヴェラは淡々と返した。
「それでも、あの男は錬金術師として相当の実力者でしたわ。欲望が技術を進化させるというのは……本当なのでしょうね」
続いて、同じタイトルの次巻が開かれた。
―――二十体以上の有望な人間を使ったが、霊力を宿す兆候はなし。
耐えきれず、すぐにこと切れる。
やはり人間などという矮小な器では無理がある。
竜神とは、たった鱗一枚にこれほどの力を宿せる、究極の存在。
新たなアプローチが必要だ―――
「やっぱり、犠牲になった人間がいたんだな」
「そうでしょうね。何でもモノ扱いするのは最初からだったみたいですわ」
ヴェラの声音には、怒りも悲しみもなかった。ただ事実を読み解くように、冷静なままだった。
次の巻。サイの手が止まった。
―――霊力をにじませた培養液に、生命が生まれた。
ついに、ホムンクルスの創造に成功したのだ。
この存在なら、霊力を宿すに足る器になるだろう。
早く大きくなれ。愛しい我が子よ―――
「これって……」
「わたくしのことね」
ヴェラは淡々と答えた。
「“愛しい”だなんて……皮肉ですわね。実験が失敗に終わってからは、憎さ百倍だったということかしら」
「こいつの口から出ると……愛情が歪んでいるようにしか聞こえないな」
「ええ。同意するわ」
ヴェラは手を止めることなく、次の記録を開いた。
―――ホムンクルスを使ったが、霊力を宿す気配はない。
容量が足りないのか、ただ苦しむだけ。
精神力が足りないのだろう。
知識を与え、精神を鍛える。
こやつが成熟する日が待ち遠しい―――
「知識を授けた理由って……そういうことだったのね」
「まるで家畜や作物を育てるかのようだな」
「実際、そのつもりだったのでしょうね」
サイが新たな巻を開いた。記されていた内容は、前回の手記から幾分時間が経っているようだった。
―――ようやく成熟を果たしたというのに、霊力を宿すそぶりはない。
そもそも失敗作なのではないか。
ホムンクルスの再構成が必要だ。
材料を変えて、作り直す。
あれは一度、溶かしてしまおう―――
サイの手が止まった。
「……」
「サイ、大丈夫?」
ヴェラが声をかけた。先ほどまでの冷静な調子とは違い、心配を隠さない柔らかさが宿っていた。
「大丈夫だ。……次に行こう」
「……そう。無理しないでね」
ヴェラはしばし彼を見つめ、安心したように小さくうなずくと、再び落ち着いた表情へと戻った。
サイはページをめくり、淡々と読み進める。だが、次の瞬間――苛烈な文言が目に飛び込んできた。
―――再構成にあたり、あれは既に数度、溶解済みである。
材料を変更し再構成したホムンクルスも霊力を宿すことはなかった。
アクリファロニウムを使っても同じ結果。
セレナト=オルトエルグも反応変わらず。
ディアスミュレイト精晶も変わらず。
残るは、フェルグラ=ネムネリアのみ。
人工生命体では、融合は不可能なのではないか。
再度アプローチを変えねばなるまい―――
「……次に行こう」
サイが苦い声で言うと、ヴェラがうなずき、新たな巻を手に取る。
―――すべての組み合わせで試したが、ホムンクルスが霊力を宿すことはなかった。
検討したアプローチを実践するしかあるまい。
竜の鱗そのものを種として使う実験だ。
これであれば、人工生命体という枠を超え、霊力を宿すモノが生まれるはずだ。
その母体にあのホムンクルスを使う。
あれはもともと、霊力の影響を受け生を成したモノだ。
器としては申し分ないだろう。
次の再構成では、あの腹に生殖器官を備えることにする―――
ヴェラが、ページから目を離さずに呟いた。
「これで、子がなせるようになったのですわ」
サイは返す言葉を持たず、ただ沈黙する。ヴェラの声は感情を伴わない淡々としたものであったが、内容の重さに、彼の呼吸が一瞬止まった。
彼の顔色がわずかに青ざめているのに気づき、ヴェラは視線を向ける。思わず声がにじむ。
「……サイ、本当に大丈夫なの?」
サイはこぶしを握ったまま、目を伏せた。
「大丈夫だ。あと数冊だろ」
顔を上げたときには、少し無理をして笑みを作っていた。
ヴェラは短く彼を見つめ――そして静かにうなずくと、再び本へと視線を戻した。
―――ついに生まれた。霊力を宿すモノ。
その心臓に、鱗を持ち、竜のような角に霊力を宿すモノ。
これを育て、霊力を意のままにする日も近い。
この子が成熟する日まで、世話をするモノが必要だ。
あの失敗作を使えばいいだろう。
あれは母親なのだから。
あれを「エリン」と名付けることにした。早く大きくなってくれ。
私のエリンよ―――
「こうしてエリンは……霊力を持って生まれたんだな」
「そう。彼女は、そのために創られた存在なの」
「……しかし、まだ本当に重要な情報が出てこない」
「きっとあるはずですわ」
サイはうなずき、次の巻を開いた。
―――順調にエリンは成長している。
母親のあれも、腹を突き破られたというのに、愛おしそうに面倒を見ている。
作られたモノであるのに、おかしなことだ。
だがそれも都合が良い。
次のフェーズは、霊力の分析。
鱗のままでは反応が強すぎた。
しかし、エリンの角から漏れ出す微量の霊力のおかげで分析は容易くなった―――
「あの子、本当に可愛らしかったの」
サイが絶句したまま視線を落とす。
「……腹を、って……」
「それは、絶対にエリンには言わないで。いいわね?」
「わ、分かった。言わないって誓うよ」
「約束よ」
―――霊力の本質は何なのか――それを知れば制御は容易いものとなってくるだろう。
それと同等のものと考えられるのは二つ。
『災厄』『天より降る剣』。
これらは、竜神の鱗と同じく、この世界にとって、あまりに異質だ。
霊力と何らかの関係があるか、あるいは、同じものである可能性は低くない。
あと数年で、次の災厄が起こるだろう。
災厄と天より降る剣を観測する準備を始めよう。
仮説の正しさは、観測によって証明されるものだ―――
「核心に、近づいてきた気がするな」
「もう一息という感じですわね」
―――仮説は正しかった。
災厄が持つ力は竜神の鱗の力と同じものであった。
ふたつとも霊力をもつものであることが証明されたのだ。
そして、霊力には二つの性質があることを発見した。
力の向き先が一点に収束する「正の霊力」、力があらゆる方向に拡散する「負の霊力」。
竜神の鱗、つまりエリンの心臓は「正の霊力」。
エリンの角や災厄は、「負の霊力」。
残るは、天より降る剣だ。
一月後が楽しみだ―――
「俺の、前の災厄が発生した日のことだよな」
「ええ。彼も、どこかへ転送されたのだと思うわ」
「ああそうか。ヴェラの仮説が正しければ、そうなるのか」
―――天より降る剣の観測が終わった。
災厄と違い、チャンスは一瞬だったが、確実に「正の霊力」の性質を有していた。
災厄を一瞬で屠るその力を、エリンはその身体――とくに心臓に宿していることが確認された。
ここで、『天より降る剣』について、新たな仮説を立てる。
この剣は自然現象ではなく、明らかに意志をもった存在がそれを振るっている。
その存在は、この世界の理では説明がつかない。
口惜しいことだが、“この世界の外”に属する存在と考えるほかない。
もう一つ。霊力には干渉の性質があると推定する。
「正の霊力」は「負の霊力」に対して破壊的に作用し、拡散の停止時に「負の霊力」は自然と「正の霊力」へと収束する。
このふたつの仮説が正しければ、私はついに、災厄を制する手段を得たことになる―――
実験室には、時間の止まったような静寂が漂っていた。外の風の音もここまでは届かず、まるでこの部屋だけが世界から切り離されたようだった。
「……これが、最後か。あの日、ヴェラに語ってた内容だな」
サイが読み終えた書物をそっと閉じた。重たい音が木の床に落ち、ふたりのあいだに長い沈黙が生まれる。
「『この世界の外に属する存在』…」
ヴェラがぽつりと呟く。彼女の目は伏せられていたが、その奥では何かが静かに蠢いているのが分かった。
「“この世界のものじゃない”ってことだよな。……さっきも似たようなことが書いてあった気がする」
「ええ、最初に見た『竜神の鱗』の資料にありましたわ。『この世のものではない』って」
サイは視線を落としたまま、深く息を吐いた。
「……つまり、『天より降る剣』も、『鱗』も、『災厄』も……全部、この世界の理屈じゃ説明できない存在ってこと?」
「その仮説には……ある程度、同意できるわ」
ヴェラは腕を組んで、思考を整理するようにゆっくりと歩き出す。床板が小さく軋んだ。
「……転移先は、“異世界”ではないかしら」
その言葉に、サイの目が見開かれる。
「……はぁっ?」
信じられないというより、思わず口をついて出たような声だった。ヴェラはくすっと笑い、肩の力を抜いた。
「ふふっ。驚きすぎよ、サイ」
「驚くだろ、それは。ヴェラは……異世界なんて本当にあるって、本気で信じてるのか?」
「異世界が存在するという根拠は、いくつかあるわ。まだ仮説だけれど、理屈にはなるの」
「へぇ……。ヴェラがそこまで確信してるなら、ただの思いつきじゃないんだろ。……聞かせてくれよ、その理屈ってやつを」
その仮説は、この世界の理から一歩、踏み外した場所を指していた。
そしてサイはまだ知らない。その一歩が、もうすぐ“向こう側”へと続いていることを。




