(12)温もり
さらに数日後、潮風が吹き抜け、魚の匂いがかすかに鼻をくすぐった。坂の先に見えるのは、小さな漁港と、その手前に広がる河口の町。初めて見る景色に、サイは足を止め、しばらく眺めていた。
「ここが……河口の町か」
「ええ。追手から逃げ延びて、エリンとたどり着いた二つ目の町ですわ」
隣でヴェラが穏やかに答える。表情は落ち着いていて、どこか懐かしむようだった。
「港が見えたとき、あの子ははしゃいで走っていったの。『わあ……あれが海? 本当に、空とくっついてる……!』って」
サイがそっと横目でヴェラを見ると、彼女は微笑を浮かべていた。
「懐かしいな……と思っただけですわ。悲しんでいるわけではないのよ。ここには、楽しい思い出がたくさんあるの。……だから、また来られてよかった」
ヴェラの声に、重たさはなかった。むしろ、再びこの町に立てたことを素直に喜んでいるようだった。
「わたくしが魚市場で働いていた間、エリンは食堂のお手伝いをしていたの。笑顔を絶やさず、すぐに人気者になって――名前まで覚えていただいて、看板娘になっていましたわ」
「へぇ……すごいな、エリンって」
サイの声に、ヴェラはうん、と素直に頷く。
「また会えると思っていますわ。だからこそ、こうして思い出話もできるの」
思い出の中に生きるのではない。それを胸に、新しい一歩を踏み出すために――。
そこから道は険しくなったが、ふたりは一歩ずつ進み、やがてヴェラにとって懐かしい、あの村へとたどり着いた。村の入り口が見えてくると、サイは足を止め、角を隠すため頭に巻いた厚めのタオルをもう一度きゅっと結び直した。
「これでいいだろ?」
冗談めかしてウィンクする。ヴェラは小さく笑って頷いた。
門のそばには、あの日と変わらぬ姿で立っていた門兵のふたりがいた。そのうちのひとり――ヴェラにローブを手渡してくれた若い門兵が、彼女の姿を見つけて目を見開く。
「ヴェラちゃん! 無事だったか!」
駆け寄ってきた勢いのまま、がっしとヴェラの肩を掴む。もうひとりの門兵も少し遅れて走り寄ってきた。
「あの時はすまなかったな……この通り、あれから村は無事だ」
「実はな、みんな心配してたんだ。村長もさ」
ヴェラは柔らかく笑い、ふたりに深く頭を下げる。
「あの時は、本当にありがとうございました。わたくし……どうにか、こうして戻ってこられましたわ」
門兵のひとりが周囲を見回す。
「……あれ? エリンちゃんはいないんだな。で、その青年は?」
「えっ、まさか……ヴェラちゃんの“いい人”ってやつか?」
ヴェラの顔が一瞬で赤くなった。
「ち、違いますわっ! 彼は……その、道中を助けてくれている仲間なの。エリンは一足先に向こうで待っていて……だから、わたくしたちも後を追うつもりですわ」
ヴェラの強い否定に、サイは少しだけしょんぼりと肩を落とする。
「仲間です。ディーノ……いえ、サイと言います」
彼は丁寧に一礼しながら言った。
「ヴェラから、こちらの村のことは聞いています。以前、彼女とエリンを助けてくださったそうで……ありがとうございます」
その礼儀正しさに、門兵たちは思わず感嘆の声を上げる。
「おいおい、しっかりした青年じゃないか」
「ヴェラちゃん、彼じゃダメなのかい? お似合いだぞ!」
思いがけない後押しに、ヴェラは口元を引きつらせながら、そっとため息をついた。
「村に入ってもいいかしら? お世話になった皆さんの顔を見て、ちゃんとお礼が言いたいの。……それに、もうあのゴーレムに怯えなくていいことも、伝えに来ましたわ」
門兵たちは顔を見合わせ、次の瞬間には嬉しそうに頷いた。
「そうか! そいつは……願ってもない朗報だ」
「歓迎するぜ。さあ、入ってくれよ、ふたりとも!」
村の門をくぐったふたりを、門兵たちは迷わず“あの場所”へ案内した。そう、エリンが一時期、看板娘として働いていた酒場――。
木造の古びた扉を開けた瞬間、懐かしい匂いが鼻をくすぐった。干し草と酵母、そして薪の煙が混ざった、ここだけの匂い。
「……!」
中にいた客たちが、ヴェラの姿に一斉に息をのんだ。次の瞬間、誰かが椅子を倒して立ち上がり、誰かが「あんた、ヴェラちゃんかい!」と叫んだ。
「本当に、生きてたんだねえ……!」
最初に駆け寄ったのは、頬にそばかすのある婦人だった。ヴェラの腕を両手で包むように握りしめ、泣き出しそうな声で言った。
「ちゃんとお別れできなかったのが、ずっと……心に引っかかっていてね……」
「無事だったなら、それでいい……ほんとに……よかったわ……!」
次々に人が集まり、涙交じりの声や、うれしそうな笑いがあちこちで湧き起こった。
「てっきり、ゴーレムにやられたんじゃないかって……」
「追い出す形にしちまって……ずっと後悔してたんだよ」
「エリンちゃんは、来ていないのかい……?」
ヴェラは微笑みながら、けれどその瞳は次第に潤んでいった。ここにいる人たちは、誰も彼女を責める者ではなかった。
「……ごめんなさい」
ぽつりと漏れたその声は、酒場の喧騒を静かに鎮めた。
「ちゃんとお礼も言わずに……いなくなってしまって、ごめんなさい……。でも、ここで過ごした毎日は、本当に幸せで……」
ヴェラの肩が震えた。
「……わたくしたち、初めて人の温かさを知ったんです。ここで……。だから、あの、本当に……っ」
堪えきれずに、彼女は涙をこぼした。嗚咽のひとつもない、静かな涙だったが――それに釣られるように、酒場のあちこちから鼻をすする音が漏れ始めた。
「ばかだねぇ……こっちこそ……悪かったのよ……!」
酒場の女将がカウンターを飛び出してきて、ヴェラをそっと抱きしめた。力強く、温かく、母が娘を包むように。
「はは……なんか、泣けてくるな……」
サイは喉の奥が詰まるような感覚に、ゆっくりと息を吐いた。
「……よかったな、ヴェラ」
そのとき――
「ゴーレムの脅威が、もう完全になくなったというのは……本当なのかい?」
誰かがそう尋ねると、ヴェラはうなずいた。
「ええ、もう来ませんわ。ここの暮らしが脅かされることは、二度と」
その言葉に、場内が一気に沸いた。
「そいつは……そいつはいい!!」
「乾杯だ! ゴーレムのない明日に!」
「ヴェラちゃんと……エリンちゃんに、感謝を!」
あっという間に酒が振る舞われ、酒場は宴のような賑わいに包まれていった。
* * *
宵の賑わいも落ち着き、酒場には静けさが戻り始めていた。けれど空気にはまだ、酒と笑い声の残り香が漂っている。
テーブルのあちこちで、男たちが突っ伏して眠りこけている。その中央、ひときわ豪快に寝息を立てていたのは、他ならぬサイだった。
「……んー……ヴェラ格好よ……うん……エリン…その通り……」
「ふふ……エリンの夢でも見ているのかしら」
ヴェラはくすりと笑い、彼の頬にかかる髪をそっと払った。
「起こすのが、かわいそうですわね」
そう言って、ヴェラは彼を背に負ぶった。初めて出会った日のことを思い出しながら。
それを見ていた女将が、目を細めて言った。
「ふたりが来てくれてね……村ができてから、こんなに心から笑えた夜は初めてだよ。ありがとうね、ヴェラちゃん」
「そんな……お礼を言うのは、わたくしの方ですわ。……ふふ、こんな夜もいいものですわね。わたくしも、とっても楽しかったですわ」
「ふふ……あんたも、あの子みたいに笑うんだねぇ」
「エリンのこと……今も、覚えていてくれたのですね」
「覚えてるさ。忘れるもんかい。あの子は毎日元気でねぇ……酒や料理を運ぶたびに、必ずお客さんに声をかけて。『お疲れさま! 今日も頑張ったんだね!』なんて笑うもんだから、みんな嬉しくなっちまってね。あっという間に看板娘になったんだよ」
女将の声が少し震え、笑いと涙が入り混じる。
「……あの子の笑顔は、この酒場を明るくしてくれた。まるで灯りを増やしたみたいにね。あれから酒場が少し暗くなった気がしていたけれど……今夜はまた、灯りが戻った気がするよ」
ヴェラはそっと目を伏せる。胸の奥に、エリンの笑顔がありありと浮かんでいた。
「寝床の用意、できてるよ。あの小屋だ。前にエリンちゃんと寝泊まりしていたとこさ。覚えてるだろ?」
女将はそう言って、ヴェラの背に眠るサイに目をやった。
「……はい、もちろんですわ」
ヴェラは小さくうなずき、酒場をあとにした。
夜気は澄み、月が冴え冴えと輝いていた。ふと足を止め、ヴェラは空を見上げる。
――エリン。必ず、また会えますわ。
心の中でそう呟き、彼女は再び歩き出した。背中のぬくもりと、胸に灯った思いが――その足取りを、少しだけ軽くしていた。
やがて、かつての小屋に灯された明かりがふわりと消えた。
*
少しして、窓から差す月の明かりのせいか、サイはふと目を覚ました。
見慣れない天井。
(あれ……ここは?)
今夜は満月――あの災厄の日から、ちょうどひと月が経っていた。
窓辺に座る人影がある。目を凝らすと、それはヴェラだった。
(ヴェラがここまで運んでくれたのか……また負ぶってもらったのかと思うと、心底恥ずかしいな)
「ヴェラ」
呼びかけると、彼女は椅子に腰かけたまま眠ってしまっていた。暖炉の火は消えかけ、部屋にはひやりとした空気が漂っている。
「ヴェラ、冷えちゃうよ」
肩を揺らすと、ヴェラがぼんやりと目を開いた。
「ん……」
寝ぼけ眼でこちらを見つめるヴェラに、サイは苦笑した。
「この部屋まで運んでくれたんだな。迷惑かけてごめん」
「ふふ……サイ……」
「ヴェラ、寝ぼけてる?」
「サイをおんぶしていると、背中が暖かいの」
「……その話、恥ずかしいんだけど」
「でも今は、少し寒いですわ」
「暖炉の火が弱くなったからな。早くベッドに入った方がいい。立てる?」
「寒い……。サイ、おんぶさせて……?」
「なんで!? 」
「だって寒いんだもの」
「ちょっと待て!寒いからって、今ここで 俺をおんぶする必要はないだろ?」
「……それもそうですわね」
「やっぱり寝ぼけてるよな」
「失礼ね。ちゃんと起きていますわ」
「だいぶ怪しいけど……」
「じゃあ、おんぶではなくていいから……くっついて、温めてほしいですわ」
「なんで!? 」
「寒いからですわ」
「絶対寝ぼけてるって……」
「サイは……わたくしがこのまま凍えてしまっても、構わないというの?」
「わ、わかったよ! ヴェラ、今頃になって酒が回ってきたんじゃないのか?」
「サイ?」
(ダメだ……話が通じない。とりあえず言うことを聞くしかないな)
「じゃ、じゃあ……こっちのベッドに」
「うん」
(……災厄の日以来、一緒に寝るなんてなかったのに)
(あ、そうか……今日は満月。ヴェラも、エリンのことを思い出しているのかも)
二人は一枚の毛布にくるまった。
「……暖かいですわ。この部屋で、エリンと寝泊まりしていたの」
「えっ、この部屋ってそうだったのか」
(やっぱり……エリンのことを)
やがて、彼女の方から静かな寝息が聞こえてきた。
「もう寝ちゃったのか……」
(明日は朝から塔に向かって出発だし……俺も寝ないとな)
「……」
だが、彼女の匂いや寝息がやけに近く、いつもは平気なのに気になって仕方がない。
(あ、これは……)
「……寝れないやつだ」
半身を起こしたサイは、困ったようにヴェラの寝顔を見つめていた。
そうして夜は、静かに、やさしく、更けていった。
――翌朝。
村の門をくぐるふたりを、門兵たちが名残惜しそうに見送っていた。
「気をつけてな、ヴェラちゃん……サイくんも」
「またいつでも戻ってこいよ。村のみんなで、待ってるからな!」
ヴェラは振り返り、静かに、それでも強い声で答えた。
「ええ。また必ず――戻りますわ」
「そのときは、エリンも一緒に」
言葉に宿る決意に、門兵たちの瞳が大きく揺れる。
ヴェラはさらに一礼し、言葉を重ねた。
「塔へ向かいますが、もうあそこに脅威はありません。どうか、安心していてください」
そう言って歩き出したその背を、村人たちは笑顔で手を振りながら見送った。
エリンと下った山道を、今度は登っていく。あのときは、ほとんど身一つだった。寒さと空腹、怯えと焦り――それでも、心には確かに希望があった。
「……本当に、無茶をしていたわね」
ヴェラは小さく笑う。初めて知る世界。初めて手にした自由。あの子と見た景色は、今も鮮やかに胸に残っている。
それから数日後――。
山道を登りきったふたりの前に、“始まりの塔”が姿を現した。百年を超える歴史をもつ石造りの塔は、今なお荘厳で、見る者を拒むような威圧感を放っている。
「……結界が、張り直されているわ」
ヴェラが目を細めて呟いた。
「まじかよ……」
サイが唸る。
「下がっていて」
ヴェラは片手を前に掲げると、低く囁いた。
次の瞬間、大地がうねるような魔力の奔流が発せられ、塔の結界ごと外壁が粉砕された。石片が宙を舞い、煙と土埃が空を覆う。
「すっげえ……!」
サイが思わず声を漏らす。
「前に、話したでしょう? わたくしが何度も薬剤で溶かされたこと」
崩れた瓦礫を踏み越えながら、ヴェラは振り返らずに言葉を紡ぐ。
「……ああ。ちゃんと、憶えてるよ」
サイも後に続き、慎重に塔の内部へと足を踏み入れる。
「強い魔法を使えるのは、それが原因なの。サイは魔法がどうやって発動するか、知ってるかしら?」
ヴェラがちらりと振り返り、問いかけるようにサイを見やった。
「えっと……聞いたことはあるよ。術者は大地から魔力を借りて、魔法を発動させるんだって」
「その通りですわ。この大地には“霊脈”と呼ばれる魔力の流れがあって、そこから魔力を汲み上げるのよ。術者はその魔力を使って魔法を使う」
「大地から汲み上げるのか……それで、ヴェラが強い魔法を使える理由ってのは?」
「魔法の強さは、“魔法精度”と“魔力量”、このふたつの掛け合わせで決まるの。魔法精度は魔法陣を構築する技量、魔力量は一度に汲み上げて放出する量。強い魔法ほど、精度の高い魔法陣が必要だし、魔力も多く消費するのですわ」
「つまり――ヴェラは魔法陣を描くのが上手で、それに一度に扱える魔力量も桁違いなんだな……。さすがヴェラ」
サイの声はどこか誇らしげで、自然と熱がこもっていた。
「――っ」
ヴェラは不意を突かれたように頬を赤らめ、視線を逸らした。
(面と向かって褒められると……こんなに恥ずかしいものなのね)
「……それで、理由なのだけど」
小さく咳払いして誤魔化すと、ヴェラは表情を引き締めて話を続けた。サイは無言でうなずき、続きを促す。
「鱗を使ったあの実験は、高出力の魔法が必要とされていたの。だからわたくしの魔力量を底上げするため、霊脈との回路を太くしていったのですわ。実験のたびに、毎回……」
言葉にした途端、胸に鋭い痛みがよみがえる。あの実験の苦痛――それでも蓄えられていった力。
サイの顔が険しくなり、拳がわずかに震えた。
「本で読んだのだけれど、魔法精度は記憶に、霊脈との回路は精神に宿るという説があるの。わたくしは、それらを保持したまま、何度も蘇生されたわ。つまり、わたくしの魔法の能力は一度もリセットされなかったのよ」
階段を上りながら、ヴェラは淡々と続ける。
「鱗を使ったあの実験で得た霊脈との回路も、すべてわたくしの中に残り続けた。蘇生のたびに、より強く、より深く定着していったわ。……気づいたときには、あの男の魔力量を超えていたの」
サイはしばし言葉を失った。それは決して誇れる経緯ではない。けれど――彼女の強さの意味を、確かに理解した瞬間でもあった。
やがて、ふたりは塔の上層へとたどり着いた。重い扉の前で、ヴェラが足を止める。
「もしかして……ヴェラだけで勝てたんじゃないか?」
冗談めかして言ったその問いに、ヴェラは肩をすくめた。
「エリンも、まったく同じことを言っていましたわ」
「エリンも、同じこと言ったんだ」
サイは、懐かしい声が、耳の奥で蘇る気がした。
ヴェラが扉に手をかける。
「さあ、まずはここを探索してみましょう」
重く軋む音を立てて扉が開かれる。
その先に広がっていたのは、奇妙な器具と薬瓶、無数の本に囲まれた――かつて錬金術師が使っていた実験室だった。




