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 朝の気配が、深い森を薄明るく染めていた。火はすでに消えていたが、焚き火の跡にはまだかすかな温もりが残っている。

 ヴェラは一人、膝を抱えて座っていた。その視線は、手のひらに乗せた小さな鱗に注がれている。

 薄紅に染まる掌の中で、光をわずかに反射するそれ――エリンの、最後の痕跡。


 静かな時間だった。風が葉を揺らし、小鳥の声が遠くから微かに届く。彼女の目は、じっとその鱗を見つめたまま動かない。

 やがて――サイが、かすかに身じろぎした。伏せていたまぶたがゆっくりと持ち上がり、焦点を求めるように揺れる視線が、まず焚き火の跡を、そしてその向こうのヴェラをとらえる。


 ヴェラはその気配に気づき、ようやく顔を上げた。その瞳には、ふっとやさしい光が宿る。


「……おはよう、サイ」


 静かに、けれど明るく。まるで何事もなかったかのように、彼女は微笑んだ。その声はどこか不自然に弾んでいて、昨夜、涙をこぼした姿を見たばかりのサイは思わず目を瞬かせた。


「お、おはよう……って、ヴェラ、服!」


 声を上げた瞬間、視界をさらったのは、透き通るような鎖骨と、その奥に微かに揺れる胸元だった。ヴェラは上半身をほとんど露わにしたまま、まるで気にもしていない様子で首をかしげる。


「あっ、ごめんなさい。嫌だったわね」


「いや、別に……嫌ってわけじゃ……」


 サイの耳まで真っ赤に染まる。彼はとことん恥ずかしがり屋だった。くすっと笑いながら、ヴェラは布を羽織り、サイもそそくさと衣服を整える。


「で……何してたんだ?」


 彼は、彼女が何かに集中していたのを見ていた。問いかけは自然と鱗に向けられる。


「信じてもらえるか分からないけれど……」


 ヴェラはそこで言葉を切った。ためらうように、瞳が揺れる。


「俺は、ヴェラを疑ったりしないよ」


 その一言に、ヴェラはそっと頷いた。


「現実逃避をしているわけではないの。ただ、ね……エリンが、まだ生きているような気がするの」


「……どうして?」


「鱗が、そう伝えてきたの。『あの子を迎えにいってあげなさい』――そんな風にわたくしに語りかけてくるのよ」


 サイは思わず黙り込み、その言葉の意味を探った。

 希望にすがりたいだけではないか。喪失の痛みから逃れようとしているのではないか。そんな疑念が一瞬、彼の中をよぎった――だが、ヴェラを見て、その思考を自ら打ち消した。


「やっぱり、信じられないかしら?」


「……いや、信じないんじゃなくて……」


「いいの。わたくし一人でも行くから」


 そう言って、彼女はぷいとそっぽを向いた。その仕草はどこか、エリンに似ていた。


「ちょっ……! 昨日、俺のこと“いてもいい”って言ってくれたのに! なんで置いていくんだよ!」


 サイが慌てて詰め寄ると、ヴェラは堪えきれず吹き出した。


「ふふっ、ごめんなさい。……でも、鱗が伝えてきたというお話、実はね、わたくしだけではないと思っているの」


「え?」


「“竜界”からの伝言――あの時、サイにも何か届いていたのでは?」


 サイは驚きつつも、思い当たる節があった。


「……うん。言葉っていうより、イメージが流れ込んできたんだ。意味は分からないのに、感情だけが残る感じ」


「わたくしも、同じでしたわ。やっぱり、竜の霊力って、言葉じゃなくて“感覚”で伝わるものなのかもしれないわね」


 ふたりの視線が、そっと交差する。

 同じイメージを共有している。その確信だけが、再び未知の旅へ踏み出そうとする二人の背中を、静かに押してくれるような気がした。


「なあ、ひとつ聞いてもいいか?」


 サイの声が、どこか慎重な、探るような調子に変わった。


「ええ。何でも聞いて。サイに隠し事はしないと、わたくし誓いますわ」


「誓うって……そんな大げさに」


「ふふ、何を聞きたいの?」


「その鱗……一体、何なんだ?」


 少し間が空いた。

 ヴェラは視線を落とし、鱗を掌に乗せたまま、静かに息を吐いた。


「それを話すには、わたくしが生まれた理由と……エリンの誕生についても、すべて話さなければなりませんわ」


「……聞くよ。全部」


 サイのまなざしに迷いはなかった。だからヴェラは、ゆっくりと語り始めた。

 自分がホムンクルスとして生まれたこと。その実験の成功に、“竜の鱗”が使われていたこと。次に、錬金術師が試みた融合実験――鱗と生命体の融合。


「失敗に終わって……わたくしは、何度も薬剤に溶かされたの」


 その言葉に、サイは息を呑んだ。

 喉の奥が熱くなり、指先が微かに震える。ヴェラが淡々と語るその言葉の裏側にある、想像を絶する苦痛と絶望。それを今、目の前の彼女が一人で抱え続けてきたのだという事実に、彼は胸を締め付けられるような痛みを覚えた。


「続けてもいいかしら?」


「……ああ」


 ヴェラは頷き、再び話し始めた。

 人工生命体では、霊力との融合が安定しない。だから次に試された方法は――鱗を“種”として、ヴェラの腹に命を宿すことだった。


「それが……エリンよ」


 サイは、言葉を失った。

 点と点がつながり、ひとつの残酷な真実が形を成していく。

 竜の力を持ち、わずか五年で少女となった命。それが何を意味するのか――錬金術師が求めた「奇跡」の正体と、その裏で踏みにじられた「希望」の重さを、サイは喉の奥に苦く感じていた。


 あまりに重すぎる沈黙が、二人を包み込む。

 ヴェラは、サイの沈黙を「拒絶」や「嫌悪」だと捉えたのか、不安げに指先を震わせた。


「……これで、すべてですわ」


 ようやく、サイが肺の中の熱を吐き出すように、長く、深い息を吐いた。

 彼が顔を上げた時、その瞳にあったのは怯えではなく、ひどく場違いで、けれど彼らしい「困惑」だった。


「……ヴェラ。……ということはさ……」


「わたくしが……人間じゃないと知って、やっぱり引いてるのかしら?」


「いや、ヴェラはヴェラだよ。そんなことで引いたりしないさ」


 少しだけ笑みを浮かべたあと、サイは言葉を続けた。


「ただ、意外だったのが……」


「意外だったのが?」


「エリンって……本当にヴェラが産んだ子だったんだな」


「そうよ? 言ってなかったかしら。……というか、一番気になったのがそこなの?」


「だって……姉妹にしか見えないし…。あの錬金術師が言ってたことも、何かの比喩って思ってたんだよ…」


「子持ちだということで、引いてるのかしら?」


「なんで、俺が引いてることにしてくるの!?」


「嫌われないかと心配だったのよ」


 その言葉に、サイは吹き出す。


「……ははっ、信用ないなあ」


 でも、その言葉が、心からうれしかった。


「『迎えにいってあげなさい』、か……」


 焚き火の消えかけた余熱のそばで、サイはぽつりとつぶやいた。ヴェラが鱗から受け取ったという“言葉”を反芻しながら、彼なりの考えを組み立てていく。


「それを信じるなら……エリンは、どこか遠くに“飛ばされた”ってことになるのかな?」


「ええ、わたくしはそう推測していますわ」


 ヴェラは膝を抱いたまま、焚き火の跡を見つめていた。声は穏やかだったが、瞳の奥には確かな熱が宿っている。


「『天より降る剣』は、災厄を滅ぼすものじゃなくて……本当は、どこか別の場所へ“送り出す”ための装置。わたくしは、そう思っているの」


「ちょっ……待って。それって……」


 サイの声が思わず上ずる。


「つまり――」


「“災厄が送り込まれる地”が存在するかもしれないということ?そして、そこでは完全体の災厄が、いまも……」


「そんな場所が……この大陸のどこかに……?」


「いいえ。むしろ、遠く離れたところ。少なくともこの大陸上ではないはずですわ。その存在は、あの錬金術師すら知らなかったことだもの」


 その言葉に、サイは息をのんだ。


「じゃあ、エリンを迎えに行くには……まずその“災厄の地”を探すところから……? この世界全体を範囲に……?」


 遠すぎる。見当もつかない。仮に間違えたなら、何年、いや何十年と探し続けて、何も得られず終わるかもしれない。


「いえ、もっと確実で、簡単な方法があるでしょう?」


 ヴェラの声が、静かにその迷いを断ち切った。


「……え?」


「わたくしたちも、その剣を使えばいいのよ」


 そう言って、彼女は傍らの地面に横たわった一本の剣を指さした。災厄の頂点に現れ、天から静かに降り立った、“滅びの象徴”。


「……でも、それって……」


 サイは言葉を詰まらせた。

 そうだ。剣を使う、ということは――あの時のエリンと同じように、“その身で受ける”ということだ。


 成功する保証もない。下手をすれば、ただ消滅するだけかもしれない。

 そんなサイの胸中を察してか、ヴェラはくすりと笑った。


「ふふっ。だからといって、いきなり自分から刺されようだなんて思わないことね」


 少し意地悪そうな口調だったが、どこか優しさがにじんでいた。


「……ばれてたか」


「顔に出すぎですわ」


 ヴェラが微かに目を細める。


「悔しいけれど……その剣について一番詳しいのは、やっぱりあの男なのでしょうね」


 焚き火の跡に視線を落としたまま、ヴェラがぽつりと呟いた。

 あの錬金術師。忌まわしくも、誰よりも“霊力”に精通していた人物。ヴェラはその知識の中に、災厄や霊力、そして『天より降る剣』にまつわる新たな手がかりが潜んでいるのではと考えていた。

 だが、もうその男はこの世界にいない。彼の知識も、あの最後と共に消えてしまった――はずだった。


「ねぇ、サイ。わたくし……これから“里帰り”しようと思うの。あなたも、来てくれるかしら?」


「……里帰りって」


 思わず聞き返したサイに、ヴェラは意味ありげに微笑む。


「わたくしの“故郷”。あの“始まりの塔”に、ですわ」


「なるほど」


 ようやくサイも合点がいった。

 確かに、錬金術師その人間はもう存在しない。だが、彼が遺した“始まりの場所”には、まだ何かが残っているかもしれない。記録、装置、そして過去の痕跡――あるいは、失われたと思われていた“知識”が、まだ塔のどこかに眠っているのではないか。


 サイは頷いた。


「行こう。ヴェラの“故郷”へ」


 * * *


 まさか――またこの屈辱を味わう日が来るとは。

 サイは、なぜこうなるのかと、自分の運命を恨んだ。


 彼の体は、ヴェラの両腕にしっかりと抱き上げられていた。

 そう、“お姫様抱っこ”である。

 そして本人はというと、例によって真っ赤になった顔を両手で覆い、まるで恥じらう乙女のように小さく震えていた。


「うう……やっぱり……降ろして……」


 半ば泣きそうな声でヴェラに訴えるサイ。


「駄目ですわ」


 ヴェラは即答した。まったくブレがない。


「俺……ヴェラに置いていかれないように頑張って走るから!」


 必死の抵抗もむなしく、ヴェラはふわりとサイを抱え直す。


「それでは塔まで何ヶ月もかかるでしょう。こうしているほうが早いの」


 その言葉には、冗談めいた響きはなかった。実際、ヴェラはこの状態のまま移動するつもりだった。

 目的は“始まりの塔”への最速帰還。日中に限られるとはいえ、ここまで数ヶ月かけて歩いてきた道のりを、たったひと月で引き返す気でいる。


 理由はひとつ――エリンを迎えに行くために。

 その一心だった。彼女は本気だ。


「わたくし……いえ、エリンとふたりなら、本気を出せば――馬と同じくらいの速さで走れるのよ」


「へっ?」


「あの河口の町で装備と路銀を手に入れたでしょう? そこからは道も平坦だったから、走って旅をしていたの」


 あっさりと恐るべき真実を口にするヴェラ。さらりとした横顔で告げるその内容は、常軌を逸していた。


「……走りながら旅とか、規格外すぎるだろ!?」


 驚きに目を見開くサイ。だがヴェラはあくまで冷静に、淡々と告げる。


「ずっとというわけではありませんわ。一日二時間くらいかしら」

「だから、あなたにも我慢してもらうわよ。二時間だけ、大人しく抱えられていてね」


「に、二時間!? そ、そんなの無理―――!」


 泣きそうな声を漏らすサイの耳元で、ヴェラがクスリと笑う。


「日が高いうちは、これが一番効率的なのですわ。観念なさい」


 彼女たちは、かつてその方法で災厄の地への旅を進めていた。河口の町を出発し、追っ手のゴーレムを退けながら、必要な物資を補い、過酷な道を、時に走り、時に潜伏して進んできた。ヴェラの身体能力をもってすれば、馬並みの速度での長距離移動も容易だった。

 一日のうち、せいぜい二時間とはいえ、抱え上げられて運ばれるというのは、精神的にもダメージが大きい。しかし、文句を言っても仕方がない。サイは観念したようにため息を吐く。


「はぁ……分かったよ、降参だ」


 サイは肩をすくめ、軽口を叩くように言った。

 少しの沈黙。視線を遠くに向けたまま、声の調子が変わる。


「……まったく。エリンがいたら、『ふたりとも無茶しすぎ』って、きっと笑ってただろうな」


 そんなサイの独り言に、ヴェラは少し微笑んだ。


 旅は、再び始まった。終わったと思っていた物語は、その隣で静かに歩き出していた。


 ふたりは“災厄の地”を離れ、再び“始まりの塔”を目指していた。あの子を迎えに行くために。


 * * *


 ある日、ふたりは、あの荒野にたどり着いた。サイを拾った場所。枯れた木の影、岩陰に残る、小さな焦げ跡。

 エリンが焼いた簡易の焚き火跡は、まだうっすらと形を残していた。風が吹けば砂がさらさらと流れ、灰が舞い上がる。


 この荒野には、何もない。ただ過去の残滓だけが、ひっそりと横たわっていた。


「ここで、サイと出会ったのよ。エリンが……あなたを見つけて、放っておけなさそうにしていて」


 言葉にはしなかったけれど、あの子はそうやって、わたくしに訴えていた。


「ここで……。俺には何の覚えのない場所だけど……」


「サイは衰弱しきっていましたわ。ここにたどり着く前に覚えていることはあるかしら?」


「ここに着く前か……。食べるものも飲み水もなくて、ただただ大陸の果てを目指していたんだ」


「どうして? 何も準備してこなかったの?」


「はは……。角が現れた日、故郷の町で俺は、前回の災厄の子のように遠くまで行ってくるって、町のみんなに宣言したんだが」


 サイはうつむき、唇をきゅっと結び、視線を逸らした。


「……まぁ、あいつらも必死だったんだろう。町の連中に麻袋を被せられて、その上から縛り上げられてさ。一週間くらい、馬車に揺られてた」

「ほとんど荷物扱いさ。水も食事も与えられなくて……ある日、荒野の真ん中に捨てられた。これだけ離れれば大丈夫だと思ったんだろうな」


「……酷い扱いを受けたのね。彼らのために、遠くを目指すとまで言ったのに」


「実行犯は馬鹿な連中なのさ。災厄は国すら滅ぼしたというのに、こんな距離でどうにかなると思ってる。あいつらはもう町に戻っているだろうが……災厄に狙われたらどうするんだって、今ごろは町中から責められてるだろ」


「……それでも、サイはがんばったのね。ここにいたあなたは、倒れても地べたに伏せていなかった」


「えっ……」


「誰も巻き込みたくなくて、ただひとりで歩き続けていた。だから、半歩でも大陸の端へ近づこうと、四つん這いでいたのだって、エリンは言っていましたわ」


「そうか……エリンがそう言ってくれたんなら、少し報われた気がするな」


 言葉はそこで途切れた。サイはしばらく黙り込み、焚き火跡に視線を落とす。

 砂に埋もれかけた黒ずんだ輪郭を、指でなぞるように見つめていた。


「ええ。サイは偉いですわ」


 そう言って、ヴェラはサイの頭をなでた。


「ちょっ、子供を褒めるみたいに――」


「どうして? 今更ですわ。サイはこの場所からしばらく、赤ちゃんのように世話されていたのだから」


「ヴェラ!?」


「ふふっ。思い出して恥ずかしくなった?」


「――!!」


「でも、楽しかったですわ。三人での旅は、わたくしの人生の中で一番楽しかった」


 サイの胸が熱くなる。彼女の口からそんな言葉が聞けるとは思わなかった。


「……じゃあ、だったらさ」


 サイは言葉を飲み込み、一拍置いてから続けた。


「……もし、エリンを取り戻せたらさ」


 喉を鳴らし、目を逸らす。


「――また旅をしようよ。三人で」


「――それは」


 ヴェラが嬉しそうに微笑む。


「それは、とても魅力的なお誘いですわね」


 二人は笑いあった。けれどその笑顔の奥には、もうひとりの姿が確かに宿っていた。

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