待つもの
ミチの日常は、東奔西走の日々だった。
「よぉミチ。毎度ご苦労なこったな」
「ミチさん! 後で寄っとくれ。いいモノがあるんだよ」
「あぶなっ……って、なんだミチか。邪魔して悪かったよ」
「おや、ミチ。あんたさっきも会わなかったかい? 相変わらず忙しい猫だねぇ」
「ミっちゃん、今度また楽しい話を聞かせておくれ」
近くを通るだけで、猫たちが声をかけてくれる。
急いでいる時はほとんど返事もできないが、後で必ず顔を出すようにしていた。
どんな形であれ、できるだけ多くの猫と関わっておくのが重要なのだ。
たとえ貸し借りで成立する関係でも、時には役に立つ。
今日は、大きな橋の向こう側からやってくる猫と情報交換する日だった。
多い時は週に一度、少ない時でも月に一度。
彼女は人間が運転するトラックに乗って、この町の工場にやってくるのだ。
人間が用事を済ませている間、彼女はトラックの中か、工場の前に一匹でいることが多かった。
彼女は、縞模様が美しい茶白猫。
名前はキャラメル。
「メルでいいよ」
初対面の時に、彼女がそう言った。
飼い主である人間が、いつもそう呼ぶのだそうだ。
キャラメルなのかメルなのか、はっきりしなくていいのかなぁ。
ミチはちょっと不思議な感じがしたが、敢えて訊かなかった。
彼女はいつも、赤い首輪をしていた。
首輪には鈴がついていて、動くとそれがチリリと鳴った。
とても可愛らしくてステキだな、とミチはいつも思っていた。
そして今、またあの鈴が鳴った。
「やぁメル。調子はどうだい」
「いつも通りよ。ミチも相変わらず元気そうね」
「まぁね。この仕事は元気じゃなきゃ務まらないから。それで、今日は何か面白い話はある?」
すぐに情報をもらおうとするのは行儀がよくない、と心の中でわかっていても、ミチはいつも自然に最初の会話の糸口にそれを選んでしまうのだった。
「あるわ。海の近くにもうひとつ橋が出来るのよ。知ってた? もう工事が始まってるそうよ」
「ああ、川下でやってるのがそうなのか。橋か、そうか。なんだろうって私も気になってたんだ」
「私たちには関係ない話だけどね。でも、もしかしたら御主人様が新しい橋を通るかもしれないから、それはちょっと楽しみにしているの」
メルはチラッとトラックに視線をやって、またすぐミチに戻した。
「へぇ、いいなぁ。人間の車に乗るってどんな気分なの?」
ミチの尻尾が、リズミカルに動き出す。
「不思議な感じ。何もしないのに、景色がどんどん通り過ぎていって、気が付いたら遠い場所にいるんだから」
「楽しい?」
「晴れた日はね。雨の日は全然外が見えないし、音もうるさいし、いいことなしよ。濡れるのもイヤ」
「少し濡れるくらいなら別にいいと思うけど。体がキレイになるし」
「えっ? ダメよ。体はちゃんとシャワーとシャンプーで洗わないと」
「シャワー? シャン……なにそれ」
初めて聞く言葉に、ミチは戸惑った。
猫の界隈には存在しない言葉。
人間の言葉なのだろうか。
「御主人様があたたかい水をかけて、とってもいい匂いの泡で体を洗ってくれるの。最高に気持ちいいんだから」
「あたたかい水……に泡?」
「最後の仕上げに、あたたかい風をいっぱい浴びると、すぐに毛が乾くのよ。ただあの音はうるさくて嫌い」
今度も、ミチにはさっぱり理解できなかった。
言葉はわかるが、場面が想像もつかないのだった。
「へぇ。人間にそんな風に色々されたら、私ならちょっと怖い気がするけど」
「御主人様はいい人間だから大丈夫よ。でも悪い人間も多いみたいだから、ミチは気をつけなきゃダメよ」
「うん……」
飼い猫マウントを初めて取られたミチは、少し気分が落ち込んだ。
なぜ自分が落ち込んでいるのかは、ミチにはわからなかった。
「それで、ミチの方は何か面白いことはあったの?」
今度はミチが情報収集される側だ。
ミチの気分は一転して、ワクワクしてきた。
「面白くはないんだけど、知り合いの子猫がカラスに襲われたんだ。母猫がやっつけて、カラスは逃げていったんだけど、すごい大騒ぎだったみたい」
「まぁ、カラスが。その子猫は大丈夫だったの?」
「うん。でも背中に酷い怪我をしてしまったんだ。傷跡がなかなか消えないって言ってた」
「とってもかわいそう。早く治るといいわね」
「あのね、それでうちのボスから、カラスの行方を調べるよう言われてるんだ。もう隣町の方へ行っちゃったみたいだから、なかなか情報が入ってこないんだけど」
「私、ミチのボスって猫に一度会ってみたいわ。どんな猫なのかしら」
こんな風に時々話があっちこっちに行くのが、メルの癖だった。
「どっしり構えた、すごく度量の広いメス猫だよ。体もかなりずっしりしてるけど」
「ウフフフ、面白い例えね」
メルが笑うと、またチリリと鈴が鳴った。
その時、後ろの方で足音が近づいてくる気配がしたので、ミチはすっと物陰に身を隠す。
メルの飼い主が工場から出てきて、メルを片手で抱きかかえると、チリリという音と共にそのままトラックに乗って出発してしまった。
また、お別れの挨拶ができなかった――。
メルとちゃんとお別れを言えたのは、たぶん一回しかなかった気がする。
「またね、メル」
聞こえないのはわかっていたが、それでも口にするミチ。
別れた後に、いつも切ない気持ちになるのは、こんな風にお別れの挨拶ができなかったからなのだろう。
実は密かに飼い猫に憧れていることに、ミチは自分で気付いていなかった。
気付いていないことは、いつまで経ってもそのままなのだ。
✻ ✻ ✻
「あ、ミチさん! こんにちは!」
住宅の間をすり抜けるように駆けていたミチは、立ち止まって声の方を見る。
「なんだ、タケじゃないか。少しは落ち着いた?」
「あ、はい。それはもう、なんとなく、はい」
ちょっと変わった話し方をするのが、タケの特徴だった。
タケは黒多めの白黒ブチで、三歳のオス。
ジャンボと同じように、空港近くの町からこっちへ移動してきた猫だった。
家族も友人もない一匹猫だというので、気に入るかどうか、まずはこの町に少し滞在してみな、とミチが声をかけてやったのだ。
「今はなにをしてるんだい」
「はい。ちょっと背中が、あの、痒くてですね、そこの地面に、こう、こすりつけていたんです、はい」
個性があって面白い口調だな、とミチは思っていた。
ただ、慣れるまでは結構気になる。
「そっか。それじゃ、私はちょっと急いでるから行くよ」
特に用がないのがわかると、スイッチを切り替えるミチ。
「わかりました。お疲れ様です!」
別に疲れてないよ、と思ってもミチはそのままやり過ごす。
一匹猫の割に、妙にしっかりしているタケだった。
ミチが去り際にちらっと振り返ると、タケはすぐに地面に転がって仰向けになり、体をごろごろと左右に転がして、背中をこすりつけ始めた。
「ギンさんに見つかったら怒られそうだなぁ」
ミチは少し考えてから、ぼそりと呟く。
タケが転がっている辺りは、ギンの縄張りなのだった。
そこでマーキング紛いのことをしたとなれば、当然不興を買うのは避けられない。
でもミチは、敢えてその事実をタケに伝えないことにした。
翼町の猫の情報を、新参者に簡単に教えるわけにはいかないのだ。
もし問題が起きても、それはそれでタケがどう出るか、知ることができる。
とりあえず今は、先を急ごう。
北の方に見慣れない猫がいた、という情報を確認しなければならないのだ。
タケのように、地元猫にちゃんと声をかけて入ってくる猫は、あまり問題ではない。
無断で入ってきて、好き勝手するような猫が一番困るのだ。
ミチは町の北側へ急いだ。
✻ ✻ ✻
ぐりはもう十一歳を過ぎた、キジ白のオスだ。
子猫かと思うほど小柄で、やや短足気味だった。
尻尾も短く、普通の猫の半分しかない。
顔は四角形で、目も四角に近い楕円形だった。
そのグリーンの瞳は、老猫とは思えないほどキュートだった。
ぐりはこの翼町の中でも、かなり特殊な猫だった。
ぐりは飼い猫なのだ。
飼い主は、背の低い初老の男性。
毎日昼前にぐりを外に連れ出すと、この「ぐりの庭」に置いてどこかへ行ってしまう。
そして夕方に戻ってくると、ぐりを回収して自宅に戻るのだった。
さすがに雨の日は、自宅で留守番のようだったが、途中から雨になるような日は、飼い主が戻ってくるまで、濡れたまま「ぐりの庭」で待つしかないのだった。
見かねた人間が傘を差して、しばらく一緒にいてくれることもあった。
「ぐりの庭」はトトの桜の木と、エリン組の倉庫の中間ぐらいのところにあった。
遊歩道から川裏へ下りた先の小路の横。
ちょうど小さな空き地のようになっている場所。
砂利の部分と草の部分があって、ぐりは気温によって場所を変えていた。
繋がれているわけでもないのに、飼い主が戻るまで何時間もじっと「ぐりの庭」で待ち続けるぐりは、次第に知る人ぞ知る存在になっていった。
そんな生活が、もうかれこれ十年近く続いている。
今、翼町にいるどの外猫よりも、長生きのぐり。
あまり他の猫とは関わらず、通りすがりの人間に愛され続けるぐり。
もちろん、食べ物に困ったことなどない。
五月のあたたかな西日が差し込む中、今日もぐりは飼い主を待っている。
もうそろそろかな――。
「ぐりの庭」の一番前まで出ると、ぐりはちょこんと尻を落として座った。
飼い主がやってくる方向に視線を向けたまま、そのままじっと待つ。
✻ ✻ ✻
長く伸びていた影が、もう消えていた。
町はいつしか、明かりで溢れていた。
北に現れたという猫は、既に隣町の方へ行ったらしい。
二匹の番だったそうだ。
それならどこへ行っても大丈夫だろう。
一匹でもやれる。
でも二匹ならもっと頑張れる。
本来群れない野良猫だが、パートナーがいるのといないのとでは大違いだった。
パートナーは必ずしも番とは限らない。
そんなことを考えながら歩くミチ。
明るい場所を避け、住宅の間の暗がりを縫うように進む。
大きな箱のような車が通る道に出た。
一方が空港へと繋がる道なので、交通量もそれなりに多かった。
この道を渡る時は、充分に注意する必要があった。
キョロキョロと左右を確認し、耳をピクピク動かして周囲の音を聞く。
最後にくんくんとニオイを嗅いで、車がこないのを確認。
テケテケテケと駆け足で渡り切り、ほっと一息ついた次の瞬間――。
「あれ!?」
さっきまで誰もいなかったはずの道路に、白い猫がいた。
よりにもよって真ん中にちょこんと、エジプト座りでじっとしている。
「おーい、そこは危ないよ!」
ミチが道路の端から声をかける。
見かけない顔だった。
あの猫も、もしかして外からやってきた猫なのかな。
だからこの道路が危険なことも、きっと知らないのだろう。
早く教えてあげないと。
だが、耳とニオイがミチに待ったをかけた。
車が来ている。
それも大きなヤツ――トラックだ。
すぐに空港の方から、光が二つやってくるのが見えた。
一瞬で毛が逆立った。
「そこから逃げて! 危ないよ!」
ミチは一度大きな声で警告したが、やってくるトラックの音がその上に重なる。
ゴーーーッ。
すごい速さで通り抜けて行った。
ミチは思わず目をつぶってしまった。
「――え?」
トラックが行ってしまった後に、白い猫の姿はなかった。
ミチはキョロキョロと周囲を何度も見回す。
目をつぶっている間に、逃げたのだろうか。
それならよかったけれど。
なんだか不思議な気分のまま、ミチは再び駆け出す。
グレコが報告を待っている。
情報は鮮度が命なのだ。
次話公開は6/20(土)17時です。




